第1章-14

 小狐二匹は、火白たちが間借りしている部屋に戻ったとたん、糸が切れたように眠ってしまった。むにゃむにゃと火白たちに助けてもらったお礼を言ったと思ったら、もうくるっと丸まってすうすう寝てしまったのだ。

 畳の上に転がしておくわけにもいかないから、母屋である店から借りて来た布団の真ん中に火白は双子の小狐をそっと乗せた。

 やわらかな布団の上で本性の狐姿のままに丸まって眠る姿は、丸い赤茶色の毛玉にしか見えない。そこに久那のお供であるるりまで加わったものだから、布団の上に茶色と黒の毛玉が三つ、転がることになった。


「布団、そいつらに使わせちまっていいのかよ。毛皮のある妖なんだから、風邪なんてひかねぇだろ?」


 半ば呆れ顔で雪トはそう口にし、火白と久那は苦笑するしかなかった。雪トの呼び方は元に戻ってしまっているが、これは馴染みの三人だけになったからである。


「しかしなぁ、だからといって畳の上に放っておくのもなぁ。ずっときょうだいだけでの野宿で、こやつらも疲れておるはずだ。やわらかい寝床のほうがよく眠れるだろう」

「でもさぁ、こいつらが寝てたんじゃ、寝床、使えないぜ」

「おれらは屋根の上ででも眠れるだろう。久那ひとり分くらいなら寝床も空いておるし」


 呪を跳ね返して疲れているのではないかというと、久那はいいえ、と断った。


「いやです。あの程度の呪詛でどうこうなるほど、私はか弱くありません。それに、私だけここにいたら、仲間外れみたいではありませんか」

「むむ……」


 元から、妖は昼より夜を好む性質がある。妖力に不足もなく、大して眠たくもない三人は、なんとなくそのまま屋根の上に上がった。木戸番に見咎められると面倒なので、姿は目くらましの煙で隠している。

 そうやって、三人で見渡す江戸の広く連なる屋根は海のようで、江戸八百八町と言われるのも、なるほど頷ける話だった。将軍が暮らすという江戸城の威容も、妖の眼力を持つ彼らにはよく見えた。


「広いのう」


 火白は、気づけばそう口にしていた。


「はい。私たちの里や、氷上の里ともまったく違います。……でも、こうしていると、昔みたいですね。ほら、氷上の里で、火白さまと雪トさんと私と、三人でこうやって一本松の枝の上で並んで座っていましたね」

「そんなこともやったのう。木登りも、川遊びも、三人一緒にやっておったな」

「朝から昼まで遊びすぎて、全員纏めて叱られたっけなぁ。つうか、木登り競争は姫さんが一等上手かったっけ」

「負けるのが嫌で何度も練習したな、そう言えば」

「そうだったのですね。でも今は多分。私が負けてしまいますよ。二人は軽巧で跳び回れるようになっていますしね」

「小さいときに勝ちたかったのだがのう……」

「では、私の勝ち逃げにさせて頂きますね」


 左隣に座って久那は、どことなく嬉しそうに火白には見えた。簪を取っているから、長い黒髪が夜風になびいていた。


「そういえば、主はひとつ前の人間だったころに、こういう光景を見たって覚えはあるのかい?」


 右隣に座った雪トにそう言われ、火白は少し驚いた。

 前世のことは、もう久しく口にすら出していなかった。人間だったという自覚は残っているし、元々里を追われてお江戸にまで流れてくることになったのも、元をただせばその自覚のせいである。

 だが、前世の中身を思い出そうとしても、火白の中にはっきりしたものはほとんど残っていない。父親と母親と、それに弟か妹がいたとは思っているのだが、それしかない。こうして鬼になっているからには、人間の己は死んでいるのだろうけれど、そのときのこともはっきりとはわからない。

  死ぬのは怖かったはずなのに、何も残っていないのだ。

 人間だった前世が格別辛かったとも、格別幸福だったとも思わない。ただ、自分の命は二回目なのだという印象と、人を喰うことができないさがだけが残っている。人を喰ったら、その性を消してしまうと思ったから、人を喰わぬと決めたのだ。

 だから、火白は簡潔に答えた。


「ないのう」


 今更、前世の己のことなど思い出さずとも良いのだ。妖として生まれてから百年も経っているのだから。多分、人であったころよりずっと長い時間を妖として生きている。

 それに、人から妖へ転生したのは、何も火白だけではない。

 久那は父である山神の手で、雪トなどは火白がその手で人から妖に変えた。とはいえ、二人は人だったときよりも妖としての生のほうが、幸福なのだといつか言っていた。


「本当に今更な話だが、お主ら、人里へ降りて来てよかったのか?」


 人だったころ、久那は山神の娘だったせいで命を落としたというし、雪トも妖が見えるせいで親から捨てられた。

 今日、小狐たちから聞いた、真木という娘もそうだ。

 狐の妖の娘だからと、村民から疎まれて、妖に救われたと思ったら、平穏な暮らしを人間によって壊された。

 母である親狐が、その袖で娘を絡めとってでも守ってやりたいと思うのも、わからなくもない。守り役の狐たちに向けた、理不尽ともとれる怒りも、それだけ母の妖にとって腹に据えかねるものがあったように聞こえた。だからと言って、かの母御のやり方は些か以上にやり過ぎだと思うし、だから小狐たちを手伝うことにしたのだが。

 妖だからと知っていても、簡単に招き入れて信じてくれる福禄屋の人々が珍しいのである。

 多くの人は、そんなふうには向き合ってくれない。

 厭い、嫌うだけならばまだよくて、命を取ろうとするときもある。少なくとも、妖として百年生きて来た中で、火白はそう思っている。

 見えるはずのものが見えなくても、見えないはずのものが見えても、駄目なのだ。自分たちと違うものは仲間外れにして、簡単にいない者にしてしまう。それが、己らが何事もなく暮らしていける最も簡単な方法だからだ。

─────ただしそれは、人に限った話ではないのだが。

 そういう思いが湧いて来て、火白はすぐにそれを打ち消した。人を喰わないと言い張ったのは、火白の意志だった。選ばせてすらもらえなかった久那たちとは、まったく違う。

 己ではどうしようもなかった理由で、外れ者になってしまった二人にとって、人の集まる江戸に出て来ることはどうだったのだろう。


「俺は人里に降りて来たっていうより、主がいるから降りて来たって感じだからなぁ。どこだろうと誰相手だろうと、やることは変わんねえよ。昔とも違うしさ」

「私もです。それに、降りて来て良かったと思っています。私の力で、お夏ちゃんを助けることができましたから」


 雪トは屈託なく、久那は少しはにかみながらそう告げた。

 思い出したように、雪トが話を続けた。眼と口元が、愉快そうに笑っていた。


「そういや、主はえらくはしゃいでたな」

「火白さまがはしゃいでたんですか?」

「応さ。町に出たときに、千次にあれこれ聞いてな。結構騒いでたぜ。百歳越してるとは思えなかったなぁ」

「い、いいではないか。百年生きているが、江戸に出たことはなかったのだぞ。それに、妖で百歳はまだ若いだろうが」


 火白の父の鬼など、三百年や五百年は前の出来事を一緒にして、昨日のことのように語っていたものだ。久那の父である山神に至っては、古すぎて一体いつのころから存在しているのか、誰も知らない。

 伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみことの国生みのころから、存在していてもおかしくはないのである。

 そう言い張る火白を見て、やわらかな笑みを浮かべた久那は、ふと頬に手を添えた。


「そういえば、千次さんが、火白さまが町で舟から舟へと跳んでいたと言っていたような……」

「軽巧を使ってやったのさ。いやぁ、八艘跳びを江戸で見せることになるとは思わなかったなぁ」

「あれはお前も一緒になってやっておったろうが。おれだけがやらかしたように言うでない。……うむ、しかし、今から考えると、目立ちすぎたな」


 白昼堂々、見世物小屋の軽業師の如き曲芸を、人々の眼前でやったのだ。それも華のお江戸の端の上で。

 時間が惜しかったからとはいえ、山里のときと同じように自由に鬼としての身体能力を使うのは、止めておいたほうが良いだろう。


「そうですね。……あの、それで明日のことなのですけれど」


 久那は袂から、布の切れ端を取り出した。薄い水色の布で、引き千切られたのか端が切れて糸がほつれていた。


「なんだ、これは?」

「実乃狐さんが昼に、おなごの格好で店に現れたでしょう。そのときに、るりが衣の端を食い千切っていたのです」


 それを、久那が拾って持っていたのだという。どうにも見せるときが掴めずに持ったままになっていたが、何かの手がかりになるだろうかと、久那は言った。

 火白はそれを受け取って、しげしげと眺めまわす。女物の着物で、水色の地に白の格子模様が描かれていた。かなり大きな切れ端だから、るりはかなりの力で噛み千切ったのだろう。

 しかし、この布からは妖力は感じない。ということは、普通の着物なのだ。

 火白と雪トの着ているものは、体格に合わせて着物が勝手に形を変えてくれるように作られている。変化で体の大きさを自在に変えることのできる、氷上の鬼の里で作られた特別なものだ。

 だが、実乃狐はどうやら、久那のように人の姿に変化して、その上から普通の着物を着ているらしい。


「この模様が、珍しいものだったらいいのだがな……」


 綺麗な布とは思ったが、格子模様の着物は町でも見かけたから、珍しいものとは思えなかった。


「刀みたいに、臭いはついてないのか?」


 言われて、火白は布に鼻を近づけた。香の嗅ぎ分けはさっぱりできないが、鬼の嗅覚それ自体は優れている。人間で、鬼と同じくらい鼻の利いた晴秋ことお晴の嗅覚が凄まじいのだ。


「これは……ううむ、なんだろうのう。どこかで嗅いだ覚えはある、のだが」


 必ず嗅いだことがあるはずなのに、すぐに思い出せず、火白は空を仰いだ。降るような星空が、目に入る。

 底の見えない夜空に灯る輝きを見て、火白の頭の中で光が弾けた。湿っぽい臭いと、陰の気を宿したこの空気を、火白は吸い込んだことがあった。


「土……いや、墓土だ」

「墓土ぃ?ちょっと貸してくれ」


 同じように臭いを嗅いだ雪トも、頷いた。


「こりゃ確かに、墓土の臭いだな。陰の気の気配が、まだ残ってる」

「では……探すべきはお墓か、お寺でしょうか」

「といってものう。江戸には寺など無数にあるだろうし。……ああ、しかし、墓にも寺にも妖はいるな」


 多くの妖は、命が人間などよりも遥かに長いためか、うわさ話や珍しいものに眼がない。江戸八百八町ということは、それだけ妖もいるだろう。

 長く使われた道具が化けることで妖になる付喪神は、成り立ちからして人がいなければ生まれず、化け猫は人に長年大事に飼われた猫が変じることが多い。寺には野寺坊が姿を見せるし、風呂屋には垢嘗め、古屋には天井嘗めやけうけげん、百目が隠れているときもある。

 人の町に、そこに必ず生まれる影の中に、妖は巣くうのだ。それが、将軍様の御膝下であろうと変わらない。


「妖にあたってみよう。玉子稲荷の周りにも行ってみるのだ」


 小狐たちの話では、陰陽師と実乃狐は、かなり激しくやり合ったそうだ。となれば、それを見ていた妖がいても、おかしくはない。

 玉子稲荷は、お江戸の町ができる前からある古い社だが、朱引きの外に位置している。それも、妖の脚で行けばさほどかからずに行ける距離ではあったのだが。

 妖力で人の眼を眩ませてさっさと走るか、と火白は決めるのだった。

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