第1章-12

 その日の夕刻である。

 夕餉も住んだ後の暮れ六ツ半(午後七時ごろ)。福禄屋二階の座敷で、福禄屋主の幸七郎、妖三人と陰陽師とその助手たちが揃っていた。もう眠くなったお夏と芯太の双子は、お千絵が寝かしつけに行ったので、この場にはいない。

 窓を背にして座っていた晴秋は、火白たちから昼間の報告を聞いた後、口を開いた。


「それでは、私が伝えた店は、根こそぎそこのおチビさんたちにやられていたんだね」


 その言葉に、火白の頭の上に器用に乗っかっている小狐二匹は、牙を剥いて唸った。


「ちびじゃない、われは信乃しの!」

「われは毛乃けの!ちゃんと名があるのだ、陰陽師!」

「こら、いちいちおれの頭に爪を立てるな」


 火白は、頭から彼らを引き剥がしてその首根っこを掴んでぶら下げると、畳の上に落いた。

 姉狐の信乃と、弟狐の毛乃と名乗ったこの二匹は、今度はめげずに火白の体の陰に隠れて小さな牙で唸っている。どうやら、妖の側にいなければ落ち着かないらしい。

 鬼と狐は、あまり仲が良くないのだが、それも小狐たちには関係ないようだった。というより、仲の良くない鬼よりも陰陽師のほうが嫌らしい。

 喋る狐に眼を丸くしている弟、幸七郎と違い、姉の陰陽師はふむ、と顎に手を当てて何かを考えているようだった。


「ははあ。化け狐か、私もちゃんと見るのは初めてだね」


 幸七郎は驚いているようだったが、火白たち妖三人は無論狐のことは知っていたから、頷く。

 街中で、陰陽師御用達の隠れ店を次々襲い、火白たちと追いかけっこを繰り広げた彼らは、そのままついて来ていた。

 信乃と毛乃は、兄を見つけてほしいの一点張りで、どうにもこうにも火白から離れようとしなかったのだ。

 妖とはいえ、幼い二匹だけで、慣れない化け術を使い、兄を取り戻そうと人間の街に飛び込んだのはよほど心細かったらしく、ようやく巡り合えた妖の火白が、これ以上ないほどの救い手だと思い込んでしまったらしい。

 まだ幼く、化けることも満足にままならない彼らを振り切ることはできなかった。それに、放っておいたら二匹はまたどこかの店を襲いかねないし、その挙句に退治でもされるかもしれなかった。

 今は、福禄屋の話のほうが先だと言っているから落ちついているが、彼らはまだどうして次々と店を襲っていたのかすら、明かしていない。

 自分たちを手伝ってくれるなら話すけれど、そうでないなら言わないと言い張ったのだ。おまけに、陰陽師に何かひどい目に遭わされたらしく、陰陽師と名乗ったお晴を警戒しっぱなしだった。

 手がかりを探しに出たはずが、気づいたら見もしなかった小狐二匹に縋りつかれているのだ。

 どうしてこうなったのやら、火白にもわからない。だが、幸七郎には、己の店に次々妖が訪れることのほうがよほど理解できないらしく、困り顔で腕を組んでいた。


「今度は喋る狐かぁ。僕の店、このまま妖が集まって来たり……」

「するかもしれんな。だがそれより前に、やることがあるだろう。ほれ、今日の昼に店に現れた女のことだ」


 店先に現れ、お夏に何かを仕掛けようとした謎の女。顔を見ていた久那とお夏に言わせると、大層美しかったという話だったと火白が聞くと、幸七郎は心許なげな顔になった。


「僕は顔を見ていないんだ。情けない話だけど」

「仕方ありませんよ。幸七郎さんは、滝屋さんとお話しされていましたから」


 そう言う久那が、お夏を庇って呪を代わりに受けたことも、火白はもう聞いていた。

 久那にとっては、どうということもない呪詛だったが、自分がいない間に彼女が身代わりになっていたことに、思うところがないはずがなかった。

─────これを仕掛けた馬鹿を捕まえたら。

 全力を込めた拳で一度殴るくらいはしようと、火白は決めた。

 火白が決めたそのとき、幸七郎がやや暗い顔で言う。


「それにしても、まさか直に店に来るなんてね」


 矢のように呪を飛ばしても、久那がいる限り福禄屋には届かない。だから、直接に訪れたということなのだろう。

 雪トが顔をしかめた。


「それにしても、奴さんは動きが早いな。芯坊が助かったその日の夜に、もうやって来るとはなぁ」

「だけど、やって来てくれたから、顔がわかったんだろ」


 千次が言うと、久那は頷いて襟元から紙を一枚取り出し、円の中心に押し出した。


「お夏ちゃんと二人で、あの女人の顔を描いてみました」


 つまり、二人で人相描きを作ったのだ。墨一色で描かれているのは、切れ長の眼をした美しい女である。その顔を見て、幸七郎が腰を浮かせた。


「心当たりがあるのか?」

「ある。この女性は、観音様の階段のところで、僕に話しかけて来た人だよ」


 退魔の刀を渡し、鬼の血を取るべきだと幸七郎に吹き込んだ女だ。思わぬ答えに、部屋にいる小狐以外の者は皆、妖も人も関係なく眼を見張った。


「こいつが犯人なのか?」


 千次が紙を取り上げて、全員に見えるよう掲げたときだ。

 それまで黙りこくって、火白の側から離れようともしなかった小狐たちが、絵を見てぴくりと動いた。


「人間、その紙をもっとよくみせて」

「は?」

「いいから、よくみせるの!」


 千次の顔に飛びついて紙を奪おうとする毛乃の首根っこを、火白は掴んで止めた。


「暴れるな、毛乃。……千次、すまぬがその紙、こやつらに見えるようにしてやってくれ」

「ああ、いいけどさ」


 まったく落ち着きのない小狐たちの前に、千次は紙を置いた。

 短い前脚で紙を押さえ、覗き込んだ信乃と毛乃は、絵を一目見て頷き合った。


「まちがいないの!」

「これが、われらの兄上なの!」

「ねえ、兄上はどうしていたの?」

「怪我していなかった?」


 目まぐるしくしゃべり出した二匹は、今度は久那の方に向かう。その手前で、今度は雪トに尻尾を握られて、べしゃんと畳の上で潰れた。


「だから、ちょっと待ちなっての。チビども。この女が、兄貴だって言うのかい?」


 雪トが尋ねると、信乃と毛乃は不服そうに頬を膨らませた。尤も、狐の顔色など火白たちにはろくに読めないのだが。


「おなごではないの」

「それは、われらの兄上」

「兄上は、綺麗な狐だから」

「化けるとそうなるの」


 だから、間違いではないと、小狐たちは声を揃えて言った。


「おい、女装狐かよ」


 思わず火白が呟くと、信乃と毛乃はこくこくと何度も首を縦に振る。


「でも、それならどうしてあなたたちの兄上様が、福禄屋に災いを成そうとするのでしょうか?」


 久那が思わずといったふうに尋ねると、お晴が首を捻った。


「そうだね。幸七、君、狐に祟られるようなことしてないよね?お稲荷さんのお供え物盗ったとか、鳥居に落書きしたとか、境内で騒いだとか」

「してませんよ、姉さん!」


 大小合わせて、江戸にはお稲荷様の社が多くある。古くから江戸にいて社を構える玉子稲荷もあれば、出世稲荷に延命稲荷などと呼ばれる小さな稲荷もいる。ともかく、有難い御利益を授けてくれるものとして、町人にとって馴染みも深い神なのだ。

 そこから祟られるなど、想像するだに怖い話である。なにせ、商売繁盛も授けてくれる神なのだから、それにそっぽを向かれるのはお店者には辛いを通り越して、大いに痛い。

 けれど、またも小さな狐たちはかぶりを振った。


「それは、もうわれらとは関わりない話」

「われらは、ご主人のごようを伺うのがしごと」

「ご主人のまきと、われらきょうだいで、楽しく暮らしていたのに」


 三角の小さな耳が萎れる。が、次の瞬間、怒りからか信乃と毛乃は、体中の毛をぶわりと逆立てた。


「それなのに!」

「あの陰陽師がすべてわるいの!」


 ぽぽぽぽ、と軽い音と共に二匹の周りに、青白く小さな火の玉が弾けてぐるぐると回る。狐火の乱舞に、幸七郎が焦った声を上げた。

 妖の火が、畳の上に落ちる前に、火白と雪トがそれらをすべて手で握り潰した。その勢いで、火白は小狐たちの額を指で軽く弾いた。


「狐火を町中で灯す奴があるか。火付けは重い罪になるのだぞ」


 付け火をすれば、死罪になることもあるのだ。福禄屋の店の中から火が出でもしたら、まずい。

 自然、火白の言い方もきつくなる。叱られたと思ったのか、小狐たちは不服そうに尖った声を出した。


「人間の困りごとなど、われらはしらない」

「兄上をさらったの、人間だったもの」


 こうなったのも人間が全部悪いのに、と言い立てる幼い狐たちである。一体どういう目に遭ってきたのか、よほど人間への感情がこじれているようだった。福禄屋の姉と弟が、困り果てたような顔になり、火白と眼が合った。

 懐から取り出した煙管で、額をこつこつと叩きながら、火白は唸った。


「あなたは、妖なのに」

「人間の味方しか、しないの?」


 果てはそんなことを言い出す小狐たちである。本当に切羽詰まっているのだろうけれど、これではどうにもこうにも話がしづらい。

─────人間だからとか、妖だからとか。

 それを理由に行動しているのではないのだ。火白は己がしたいと思ったことをして、正しいと思ったこと、すべきだと判断したことをしている。人か妖かで、立ち位置を決めているのではない。

 その違いは、火白には些細なことなのだ。

 ひとつ前の命が人間だったから、火白はどうしてもそう考えてしまうし、それがために里を追われた後でもその想いを変えるつもりはなかった。

 けれどそんなことを、怯えを強がりでくるみ込んでいるているこの小さな妖たちに言ってみたところで、何ひとつ事態は変わらないだろう。

 どうやら、次第に小狐たちに苛立たしさを覚え出したらしい雪トの視線を感じながら、火白は小狐二匹を改めて見下ろした。多分、今の瞳は鬼の金色になっているだろうと感じながら。


「妖か人かは関わりないだ。今のお主らは己の思い通りにならぬと怒ったり、すぐに暴れたりするばかりではないか。是が非でも身内を取り戻したいというなら、それの妨げになるようなことを、自ら巻き起こすな」


 見た目も中身も幼い狐たちは、しばらく黙ってから頷いた。

 ふかふかとした赤茶色の毛に覆われた、狐の面の表情を読み取ることはできなかったが、彼らなりに何か納得はしたらしい。


「あなたがたは、兄上のことが知りたい」

「われらは、兄上を取りもどしたい」

「そのために、われらの話が聞きたいというの」


 狐二匹は、顔を見合わせて何事か狐の鳴き声で囁き合った。


「……わかったの」

「ひれいを、わびるの」

「あなたがたの巣で騒いだこと、あやまる」


 人間でいう正座をしているつもりなのだろうか、前脚を器用に揃えて座り直した信乃と毛乃は、神妙な声でぺこりと頭を下げた。頭を下げられたのは、福禄屋の主である幸七郎である。


「……わかったよ。でも説明してほしい。君たちと兄狐と、その悪い陰陽師のこと」


 お店の主の静かな声に、陰陽師の姉が後を引き取って続けた。

「そうだね。それに君たちは、どうして私のような陰陽師を嫌悪するのかな?狐の妖は、陰陽師について式神となっていることも多いのに」


 お晴が尋ねると、狐たちはふくら雀のように毛を膨らませながらも、話をするために口を開いた。

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