第1章-11

 福禄屋は、主夫婦と双子の子どもたち、それに出戻りの姉とその助手で回している。ここに裏の長屋からの店賃も加わるから、大店でなくとも、福禄屋にはかなり余裕がある。

 普通なら奉公人がいそうなものだが、主の幸七郎は誰も置いていないのである。

 だが、久那も江戸の人々の営みに詳しいわけではないから、さして疑問に思いもしなかった。他のお店で見かける、前掛けをつけた丁稚の少年や、たすき掛けをした女中の姿が見えないな、と思ったくらいだ。

 手伝いをすると申し出た久那に言いつけられたのは、店表の掃除だった。箒で掃き清めていると、通りの様子がよくわかる。

 一緒に掃除を言いつけられたお夏は、楽しそうに雑巾で打ち出の小づちを象った看板を磨いていた。

 芯太が寝込んで、しかもそれが不治の病かもしれないと言われてから、福禄屋はずっと店を閉めていたのだ。降ってわいたように出て来た災難が、同じくいきなり現れた鬼の手で祓われたのであるから、店の者たちの顔色は明るかった。


「おや、おなっちゃん。久しぶりだなぁ。芯坊の具合は良くなったのかい?」


 箒を動かしていた久那が顔を上げると、お夏の側には四十絡みの男が立っていた。下駄のような四角い顔といい、ずんぐりした体格といい、全体に武骨な感じがしたが、お夏を見る眼はやさしかった。


「あ、滝屋さん。どうも、こんにちは。芯坊なら元気になって、今はお父さんと店の中にいるよ」


 ぺこり、とお夏が禿のような切り髪を揺らして頭を下げる。久那も真似て、頭を下げた。

 滝屋は、福禄屋のはす向かいに店を構えている貸本屋である。


「そいつぁ良かった。子どもは元気が一番だからなぁ」


 下駄顔の男は、はそこで久那に気づいたようで、おや、と太い眉を上げた。


「初めて見る顔だねぇ、お前さん」

「はい。この朝から福禄屋さんでお世話になっております。久那と申します」

「久那姉ぇさんはね、白兄ぃと雪兄ぃと一緒にうちに来てるの」


 たすき掛けした久那の着物の袖にくっついて、お夏が言うと男は眉を下げた。


「ほーん、じゃあ、幸七郎さんもついに奉公人を迎え入れることにしたってかい」


 彼はそれで納得したらしく、顎を撫でていた。


「おや、滝屋さん。こんにちは」


 店の奥から現れたのは、幸七郎である。穏やかな笑みを浮かべ、若草色の着物の上から濃い緑の羽織を着た格好は、お店の主にふさわしかった。


「おお、これはどうも。芯坊の具合がよくないって聞いたんですがね、どうやらそいつは杞憂だったみたいで、よござんした」


 それで、滝屋と呼ばれた男は幸七郎へのあいさつに切り替えたらしい。くいくいとお夏は久那の袖をまた引いて、耳に囁いた。


「あの人はね、滝屋の治郎兵衛さんって言うんだよ」

「そうなんですね」

「うん。お父さんの、お友達」


 滝屋治郎兵衛は、幸七郎が若旦那と呼ばれていたころからの馴染みだそうだ。

 恰幅のいい治郎兵衛は、幸七郎と親し気に話し合っていて、彼らの視線は共に店の中では、前掛けをつけて元気に動き回る芯太に向いていた。

 久那は見ていないが、あの子を治したのは火白だった。呪を移して剥がして斬った、と本人は簡単に言っていたが、久那はもう火白にはそのようなことをしてほしくなかった。

 鬼である火白の体は強いから、確かに呪のひとつや二つを体に移したところで大事はない。だが、大事ないだけで、火白が自分で自分を傷つけたことに変わりはないのだ。しかも、火白はまったく頓着していないのだ。飄々としている割に己ができるならばなんでもやる、という変に律儀な性格だからだ。

 軽薄そうに見えて、火白のことを芯から主と仰いで仕えており、彼に何かあれば激怒するだろう雪トと言い、氷上の鬼たちは持っている顔と表に出している顔とに微妙な違いがある。

 当人たちは、わざとやっているのか自然とそうなっていて自覚もないのか、それも不明である。

 ともかくも、滝屋の前で、ぴしりと背筋を伸ばし、親の隣で頬を紅潮させて挨拶をしている芯太を見ながら、久那は一瞬だけ箒を使う手を止めて、空を仰ぎ見た。

 あれくらいの歳のころ、自分たち妖は一体どこで何をしていたのだろうと、ふとそう思う。お互いにまだ出会ってすらいなかったはずだ。

 見上げたお江戸の夏空は抜けるように青く、白い綿雲が流れている。店を飛び出した少年たちは、一体どこにいるのだろうか。


「あ、お客さんだ」


 お夏の声に久那が我に返ると、十歩ほど離れたところに、店の中を覗き込むようにしている女の姿があった。

 遠目だったが、その美貌に久那は一瞬だけ眼を奪われた。白い肌に赤い唇、つんと上を向いた鼻と切れ長の黒い瞳をしている。人形のように整った顔立ちだった。

 そのかんばせを少し傾けて、遅れ毛を耳にかけ、女は久那とお夏の方をに視線をくれる。たったそれだけのことなのに、匂い立つような色気があった。


「いらっしゃいませ!何をお探しでしょうか」


 少しの間だけ、息を忘れて見惚れていた小さな看板娘は、はっと我に返って笑顔で近寄る。


「ええ、こう、紅色の布で作られた袋物を探しているのですけれど……」


 鈴のような声で言いながら、女はすっとお夏に近寄る。空中に探している袋物の図を描くように、腕が持ち上がる。

 その瞬間、久那は彼女の手に何か光るものが握られているのを見た。銀色に光るそれを見た瞬間、久那は背筋に鳥肌が立った。

─────あれは、だめ!


「お夏ちゃん!」


 叫ぶと同時に、久那は手に持っていた箒をお夏の頭越しに女の頭目がけて投げつけた。

久那には並みの少女と同じほどの力しかないが、それでもいきなり長物が当たれば、怯むはずであった。

 だというのに、女は俊敏な動きで反応した。その速さは、人間のそれではない。女が腕を振るうと乾いた音を立てて、箒が宙で真っ二つに折れる。そのまま、女は手に持った何かをお夏に向かって投げつけようとした。

 だが、その隙に、久那はお夏の腕をとって背中に庇っていた。小さな体を抱え込んだ久那の細い肩に、女の投げた銀色の何かがぶつかる。張り飛ばされたような衝撃で、久那の体は揺れた。

 店の中から、黒い影が飛び出して来たのはそのときだ。黒い、二又の尻尾を持つ猫が、女に一直線に飛びかかる。


「るり!」


 止めるつもりで久那は声を上げた。真っ昼間の江戸の町で、変化するところを見られる訳にはいかない。

 切羽詰まった主の止める声に、子牛のような大きさになりかかっていた猫又は踏みとどまる。だが頭を巡らせて、るりは女の着物の袖に食いついた。


「っ!」


 女はるりを引き剥がして地面に向けて放り投げると、一目散に駆けていった。何が起こったのか、訳もわからず遠巻きにしている人々の中に跳び込む。水色の着物の色は、すぐに角を曲がって福禄屋の前から消えてしまった。

 猫又は宙で身を捻って危なげなく着地する。その口にくわえられた噛み千切った着物の袖の切れ端を吐き出すと、逃げた女を追わずに、久那のほうに駆け寄って来た。


「大丈夫、大丈夫よ」


 るりに言いながら、久那は立ち上がった。にゃあにゃあとるりは気遣うような声を上げている。人語を発することはできないが、人語を解することはできるのだ。


「久那姉ぇさん?」


 腕の中に抱えていたお夏が不安そうに顔を上げた。


「大丈夫でしたか、お夏ちゃん?」

「う、うん。わたしは平気だけど……」


 それでも、いきなり抱きすくめられて驚いたのだろう、お夏は眼を瞬いていた。


「おい、娘さん。どうしたんだ、一体?」


 流石に騒ぎを聞きつけてくれた滝屋と一緒に、幸七郎が駆け寄ってくる。真ん中のところで真っ二つにへし折られた箒と、久那の背中を見て、二人とも眼を見張った。


「ど、どうしたんだい、その背中?」


 身をねじって見れば、右肩から左の腰にかけてべっとりと黒いものがこびりついていた。


「さっきのお客さんが、お夏ちゃんに何か当てようとしていました。止めたのですけれど、それが私に……」

「福禄屋さんのお嬢さんにいたずらを働こうとしたってのかい?ふてぇ女もいたもんだな」


 伝法な口調の貸本屋は、そう言って久那にやさしい眼を向けた。


「娘さん、あんたもよくやったな。主の娘を守るなんて、奉公人の鏡だよ」

「それはその……ありがとうございます」


 滝屋は、久那のことを奉公人と勘違いしているようである。それを聞いてか、幸七郎が声を上げた。


「ああ、滝屋さん。その子は、奉公人という訳じゃないんですよ」

「は?どういうことだい?」

「ま、うちにも色々ありましてね。……ともかく、久那ちゃん。お夏を庇ってくれてありがとう。それから、一度着物を替えておいで。まるで墨を引っかけられたみたいになっているよ」


 はい、と答えて久那は下がる。道に落ちた着物の切れ端もこっそり拾って、袂に入れた。裏から店に上がろうとしたところで、ふと眩暈を感じて柱に手をついた。

 氷のような寒気が、背中、というよりもかけられた黒い液体から体の中へと染み込んで来るように感じる。

 鼻をつく異臭を、久那は嗅ぎ取っていた。墨ではなく、血と泥を混ぜた何かなのだ。


「……呪、ですか」


 一度眼を瞑り、久那は長く息を吐いた。

 精神を研ぎ澄まし、体の中に気を巡らせ、己の体の中に根を張ろうとしていた呪を弾き飛ばす。軽巧に凝っていた火白たちと遊んでいたときに、久那も少しだけ気を操ることについては習っていたのだ。

 火白たちがやる、蚤のような跳躍力やすさまじい脚力での立体的な動きはできないが、体内に気を巡らせて浄化するのは久那のほうが何倍も上手かった。

 元から、幸を招くという久那の妖としての特性もあるのだろう。ともかく、謎の女がお夏にぶつけようとしていた呪は、久那の中で呆気なく浄化される。しかし、着物の汚れが消える訳ではない。血と泥の混じった臭いはそのままだった。

 これがお夏にかけられていたらと思うと、ぞっとした。芯太のように、倒れてしまっていただろう。災いを避けられる幸招きの妖が持つ勘の鋭さと、気で防げたのは僥倖だった。


「でも、借して頂いた着物を汚してしまいました」


 致し方ない状況ではあったけれど、借りたものをすぐに汚してしまったのは申し訳なかった。店先では、幸七郎と滝屋が何か言い合う声が聞こえていた。滝屋はどうやら、今すぐ駒石の親分を呼ぼうと言っているのだ。それを幸七郎が宥めている。

 ひとまず、お千絵を探そうと久那が辺りを見回したときだ。


「久那?ど、どうしたのだ、その背中は?」

「姫さん!?」


 裏にある長屋の方から、少年たち三人がやって来ていた。

 そちらに顔を向け、久那はほっと息を吐いた。


「あら、火白さま。おかえりなさい」

「応。だが、久那。その格好はどうしたのだ?」

「これはその、少しありまして。……あの、火白さまこそ、その子たちは一体?」


 先頭にいる、黒に近い青髪の少年を見て、久那は驚いた。彼の着物の両の袂から、赤茶の三角耳をぴんと立て、黒い濡れた鼻を動かしている小狐が二匹、覗いていたのである。気配からするに、二匹とも妖だった。

 本当に、一体何があったのだろうと、久那は首を傾げたのだった。

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