第1章-10

 山妖の里の姫にして、惚れた男を追いかけて里をひとりで飛び出すという無茶を敢行した山神の娘、久那は大いに困っていた。

 彼女の前には、二人の人間がいて、戸惑う彼女の前に様々な色合いの着物を持ち出してきている。


「こっちの着物のほうが、久那ちゃんには似合うわねぇ」

「あ、あの、お千絵さん。私は、その……」


 妖と人間の少年たち三人が出払った後の福禄屋で、久那は猫又のるりと共に残っていた。これは、久那が側にいれば呪を跳ね返すことができるからだ。

 跳ね返すために、久那は何も特別なことをする必要はない。ただその場にいさえすればいいのだが、だからと言ってぼんやりしているのは性に合わなかった。

 それならばと、店を手伝うことを申し出たのだが、これを快く引き受けたのは、おかみのお千絵だった。

 まず久那の格好では目立つからと、色々と着物を奥から取り出して来たのである。気づいていなかったのだが、小袖に打ちかけという久那の装束は、言われて見ればお千絵たちとは異なっていた。


「諦めなよ、久那ちゃん。お千絵さんはね、君みたいにかわいい娘にかわいい着物を着せてあげることが大好きなのさ」

「か、かわいいなんて、そんな……」


 呑気なことを言うのは、あの奇妙な狩衣からあっという間に女物の着物に着替え、髪まで結い直した晴秋ことお晴である。どうやら、この格好のときはお晴と呼んでほしいらしい。

 ややっこしいな、と出かける前に火白はぼやいていたのを、久那は覚えていた。


「あ、あの、お千絵さん……」

「あら、なあに?」


 今、お千絵が久那に当てているのは、紺の地に黄色い小さな花が描かれているものだ。久那に貸すものはこれに決めたらしく、お千絵は満面の笑顔で帯を取り出した。

 着物と帯を渡され、その重みを腕に感じながらも、久那はなんとか言い募った。


「こ、ここまでして頂かなくっても、わたくしにも家から持って来たものがありますし……」

「うーん。あれらは、表で着るのは止しておいたほうが良いと思うよ。生地が良すぎてねぇ、長屋暮らしのかわいい娘さんが着るには、ちょっと危ないよ」


 軽快に言ったのは、お晴である。

 久那も里を出るときに持って来た荷物がある。今は裏手の長屋に置いているが、そこには着物も何枚か入っていた。

 しかし、お晴やお千絵からすると、あの着物は、模様などは慎ましやかでも、使われている布が上物で、見る人が見ればその価値に気づかれてしまうという。


「そうそう。久那ちゃんにとってもよく似合っているのに、勿体ない話だわ。あれは、家で着て、火白くんに見せてあげなさいね」


 では、お千絵は裏手の長屋に火白たちが住むことをもう了解してくれているらしい。それに呼び方も親しみが籠るようになっていた。

 やさしく言いつつ、お千絵は着替え用に使いなさいと、小部屋に久那を誘った。こうなると、着るしかない。

 久那は里では姫と呼ばれていたし、世話をしてくれる守り役の妖たちもいたが、人間だったころの名残で身の回りのことはほとんど自分ひとりでやる癖があったから、着物を着るのも慣れたものだ。

 ちなみに彼らは皆、久那が火白を追いかけて里を出ると言ったとき、賛成して送り出してくれた。

 久那様にそれほど好いている人がいるなら、追いかけたほうが良いと。加えて言うと、一番古株である化け狸のおふうは、火白のような男は捕まえておかないと一体どこに流れて行くのかわからないのだとも言っていた。

 仰々しくなるより、身一つで踏み込んだほうが良いと、教えてくれたのも彼女で、だから久那はるりだけを連れて江戸にまでやって来たのだ。

 送り出してくれた彼女らの笑顔を思うと、久那は胸の底に灯が点ったように感じられる。

 そういうわけで、手伝おうかと言ってくれたお千絵に礼を言って、久那はひとりで小部屋に入った。

 普段は物置なのか、四畳ほどの部屋には、色鮮やかな袋物や香の束、きれいな珊瑚玉の簪や、漆塗りの櫛が箱に入れられて置かれていた。

 それらに紛れるようにして、細い鏡が壁に立てかけられていた。磨かれた鏡面を久那はそっと覗き込んだ。

 見慣れたものより、いくらかあどけない顔が、こちらを見つめ返している。人間でいうならば、十四歳か五歳だろう。

 久那や火白たちのような妖にとって、見た目の年齢を変化させることは、さほど難しいことではない。ただし、己にとって最もしっくり来る外見というのはあるのだ。

 久那にとって、その最も己に馴染む姿とは、十代の後半から二十歳ほどに見えるの娘の姿であり、火白や雪トにしてみると、二十歳半ばに届かない青年の姿なのだ。

 人の外見とはまったく異なる、鬼としての本性の姿を別に持つ火白や雪トとは違うが、久那にとってはその娘姿が、云わば本性の姿なのだった。だから、それよりいくらか幼い外見に変化することは、少し体にとって慣れていないような気がした。

 ほう、という吐息が磨き抜かれた鏡の表面を曇らせた。

 慣れていないのは、それだけではないのだ。火白と雪トが街に飛び出した今、久那の側には見知った顔がるりしかいない。

 自分で決めて里を飛び出して来たものの、妖でもない見知らぬ人間たちの中にひとり取り残されるのは、ほんの少し心細かった。

 まったく屈託ないふうに人間の中に混ざっていた火白がいて、そのそばにいたから久那も平気な顔をしていられたけれど、彼がいなくなると途端に心細いと思ってしまう、自分の弱さは嫌だった。


─────でも、頑張ろう。


 心細くはあれど、それでも人の幼子に呪をかけた者を許せないと思ったことも、ここにいて彼らを守りたいと言ったのも本心だった。幼い子供が辛い目に遭うのも、その子どもを愛する親が苦しむのも、どちらも耐えられない。

 久那はあやかしで、彼らは人間だけれど、そう思うことに間違いのあるはずがなかった。


「久那ちゃん?」

「は、はい、今すぐ!」


 はっと我に返る。決意をした割に、声がひっくり返りそうになったのは我が事ながら情けないと苦笑いした。

 急いで着物を身に着け、おろしていた髪を丸くお団子にしてまとめ、小さな赤い珊瑚玉のついた簪で留める。そうして部屋に戻ると、お千絵とお晴、それにいつの間にか入って来ていたお夏が久那を見た。


久那姉ぇさん、かわいい!」


 ぱっと兎のように動いて近寄って来たお夏が、明るい声で言った。


「ええ、本当に。よく似合っているわよ、久那ちゃん」

「むむ……これは、福禄屋に新たな看板娘の登場かな?」


 手放しに褒められて、久那は、頬が熱くなるのを感じた。

 里の妖たちは、皆久那のように人の姿をとっている訳ではなく、人の美醜に対しての感覚も人とは異なっているから、容姿について褒められたことはあまりない。彼らが褒めてくれるのは、もっと別のことだった。

 それでも、いつだったか火白に黒髪を綺麗と言ってもらえたことはあったから、その手入れだけは欠かさないようにしていた。


「あの……本当に、ありがとうございます。見ず知らずの私に、ここまで良くして頂いて」


 正座し、畳に手をついて深々と頭を下げると、そっと肩に手が添えられていた。


「いいのよ、久那ちゃんは、あたしたちを守ってくれているんでしょ?それに火白くんや雪トくんも」


 顔を上げると、お千絵の眼と久那の眼が合った。そこには、自分を信じてくれている光があって、戸惑う。


「でも、私は、妖なのに……」


 思わず、心の奥にあった問いを口に出してしまう。

 それなのに、すぐ信じてくれているこの女性が不思議だった。

 からりとした笑い声が、座敷に響いた。


「はは、福禄屋はね。妖やなんやらに関しては、結構縁が深い店なのさ。なにしろこうして、陰陽師がいる家なのだから」

「陰陽師かはともかく、妖怪博士の義姉さんはいるもの。ま、あたしは妖なんて見たこと無かったんだけど。でも火白くんがね、こうもくもくっと煙を出したら、芯坊が治ったのをあたしは見たよ。あたしの知らない、不思議なことがこの世にあったって、それだけの話でしょ?」


 今だって、火白たちは解決のために駆け回っている。火白たちが人でないのも重々承知しているけれど、それはこうやって共にいることを拒む理由にはならないと、お千絵は明るく言った。


「そう、なのですね……」


─────もしかしたら。

 火白があんなふうに必死になっているのは、彼らのこういう人柄を感じ取ったからかもしれない。もちろん、火白なりに打算はあるけれど、それ以上に、彼が呪をかけた何者かに怒り、捕まえようと思っていたのも確かだ。

─────こういう人たちに。

 久那も、それに火白や雪トも出会ったことはなかった。たまに出会う人々は、久那には皆怖かった。それまでは何でもないように振る舞ってくれていても、いざ妖だと知ると、久那たちに怖いことばかりをしてきたからだ。

 久那は人間だったけれど、そのときも、辛いことのほうが多かったのだ。

 ふと、膝の上にあたたかさを感じる。気づけば、いつの間にかるりが膝によじ登っていた。


「おや、るり猫さんじゃないかい。これは、働けという合図かな?」


 おどけたふうにお晴が言って、立ち上がった。裏手の長屋で最初に会ったときは、化け猫の本性を見せて変化したるりの姿に、お晴は驚いていたがもうすっかり慣れてしまったらしい。


「そうね。もう随分と店を閉めてしまっていたから、今日は開けましょう。幸七さんと芯坊にも声をかけて」

「芯坊もかい?今日の朝まで、寝込んでいたんだろう?もうちょっと寝ていたっていいんじゃないかな」

「それがね、これまで寝ていた分を取り戻すみたいに、もう元気で仕方ないくらいなのよ」


 明るく言葉を交わしながら立ち上がり、歩き出したお千絵とお晴の後を、お夏がちょこちょことついて行こうとして、思い出したように久那の傍らにまで駆け戻って来て、その手を取った。

 小さな手のひらは、人の命の熱が籠っていてやわらかかった。


「久那姉ぇさん、一緒に行こう」

「……ええ、そうしましょうか。お夏ちゃん」


 名前を呼ぶと、お夏の顔がぱっと綻ぶのを見て、久那はあたたかいものが胸の奥に広がるのを感じた。

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