第1章-6
空から、黒い靄に乗って飛んで来た久那は、火白、雪トと共に福禄屋の中に通されていた。火白と雪トが十四、五歳に外見を変化させているのを見て、久那は同じように二十歳ほどの若い女性だった姿を、十三、四歳の少女に変えていた。
長い黒髪を伸ばして、端のところだけを紙縒りで束ねた髪型をしているから、江戸の少女たちと比べればかなり異なった外見なのだが、久那がやれば不思議な気品があり、お千絵もそのかわいらしさで頬を緩めていた。
「それにしても、許嫁、ねぇ……」
「いいなずけってなぁに?」
騒ぎを聞きつけた、上の階から降りて来たお夏がお千絵の横にちょこんと座ったまま聞いた。
「許嫁というのは、つまり結婚の約束をした相手のことだよ。この場合は、久那ちゃんと火白くんが将来夫婦になる約束をした相手ということだ」
「はい。火白さまと初めてお会いしたのは……八十四年と、ひと月前でございました」
薄っすら頬を染めて言う久那は大変にかわいらしいのだが、彼女が語った年月に幸七郎は何と返していていいかわからないようだった。
妖と人では、寿命の長さがかなり異なるものだと、書物や噺から見聞きして知っていても、自分の娘と言っても通りそうな少女の口から、八十年という年月が飛び出したことに驚いたのだろう。
「あー、人でいうならば、八歳くらいのころの話だ。おれと久那は幼馴染でな。雪トと知り合ったのもそのころだった」
「ははぁ。それにしても、なんとなく思ってたんだけど、きみって実は、かなりいいところの出なのかい?」
妖ではあるがどう見ても品の良い少女や、火白のことを主と呼ぶ雪トがいる。妖の世界のことはわからずとも、幸七郎には商人として様々な人々を見て来た眼があった。
それに照らして、幸七郎は火白という少年だか青年だかわからない鬼は、信用できると踏んだのだ。そうでないなら、いくら息子を救ってくれた相手とは言え、店に上げたりはしないだろう。
「……そうだったのだろうな。だが、色々馬鹿をやって追い出された。無宿者というやつだ」
「妖の……無宿者?」
お千絵がきょとんとした声で繰り返すと、火白は気まずげに煙管の端を噛んだ。
「それはともかく、だ。先に、お主らのことをどうにかするほうが先だろう。芯坊を呪った馬鹿をとっ捕まえねば」
ここで久那がきょとんと首を傾げ、彼女の腕に抱えられた二又尻尾の猫が、みぎゃあ、と変わった鳴き声を上げた。
猫を抱えているのと反対の手で、久那は火白の袖を引いた。
「火白さま、あの、呪いというのは一体どういうお話をされているのですか?」
「ん?……ああ、久那には説明をしておらなんだな。だが、少し待ってくれぬか?」
「それは構いませんけれど、呪いでお困りなのでしたら、私がなんとかできます」
「……あ」
火白が何かを思い出したように呟き、幸七郎やお千絵は思わず腰を浮かせた。
「私の一族には、幸を招く力がありますから、人が飛ばす呪いのひとつや二つ、跳ね返すのは容易いものでございます」
「つまり、その、あれだ。……姫さんには、招き猫か、破魔矢のようなことができるんだよ」
近くにいるだけで災いを除き、共にいる者に幸を招く。火白や雪トのように、人の何倍も力が出せるわけでもなく、見た目通り人の若い女と同じほどの膂力しか持たないが、それが久那の妖力であった。
おまけに、久那は父である山神の手で、人からその眷属へと転生したのである。真性の妖というより、やや神に近いその力を破れるような呪いは、まずあり得ない。
「姫さんがいたら、確かに人の呪いなんざ太刀打ちできねぇよ。昔にいたっていう安倍の陰陽師ならともかく、今はそんなに力のある術者もいないからな」
顎に手をやって雪トが言う。
「はい。ですからその、事の次第はまだわかりませんが、どなたかに送られる呪いを防ぎたいのならば、私がその人についていましょう」
それで如何でしょうか、と少女姿の妖は問いかけた。
「……他に手はないか。その間に、おれと雪トで下手人を上げるしかなかろうの」
火白がぽつりと呟き、また煙管の先から煙を吐いたのだった。
*****
火白に雪ト、久那に猫のるり。いきなり福禄屋に転がり込んだ彼らは、ひとまず空いていた長屋の一室に腰を落ち着けていた。
福禄屋は家族四人でやっている小さな小間物屋だが、裏手に長屋を持っていて、そこから上がる家賃による収入もあった。そのうちのひと部屋は、長年住んでいた食い詰め浪人が仕官の口を見つけて家移りしたとかで、空いていた。
妖の無宿者という、まかり間違うとお祓い屋を呼ばれそうな火白たちに、幸七郎はひとまずそこを使ってくれるように言ったのだ。
「畳があると落ち着くのう」
爺むさいことを言って、畳の上にごろりと横になったのは、火白である。その顔の上に、いきなり黒い毛玉が飛びついた。
「うわっと……なんだ、るりか」
白い足袋を履いた黒猫を、火白は顔から引っぺがしつつ起き上がった。
火白に抱えられた、猫は、ふしゃあと鼻息荒い声を上げた。尻尾の先が二又に分かれているこの猫も、ただの猫ではなく、妖の猫又である。
普段はこのように小さな猫の姿になって久那の側についているが、久那を背中に乗せられるほど大きくなり、飛ぶこともできる。やや足弱な久那を背中に乗せ、運んで来たのもこのるりであった。
「おい主、るりと遊ぶのも結構だけどよ、姫さんが困ってるぜ」
「いや、遊んではおらんから。……ほれ、るり」
ぱっと火白が手を離すと、猫は久那の膝の上に戻る。
少年と少女の姿になった妖たちは、六畳ほどの部屋に車座に座った。
そのまま、誰も何も言わない。動き出した隣人たちの立てる物音や、通りから流れ込んでくる棒手振りたちの声だけが、三人と一匹が集った部屋に響いていた。
「……久しいな、久那」
しばらくして、ようやく火白が口を開く。文のやり取りこそしていたが、直に会ったのはもう随分と前のことになる。人で言うならば、十歳そこそこで別れた幼馴染の少女と、二十歳くらいになってから再会したようなものだ。
「はい、こうしてお会いできて、本当に嬉しいです。火白さま」
ですが、と言い置いて、朝露に濡れた黒曜石のような瞳が、火白の切られた髪を見た。妖である久那は、切られた髪が何を意味するかも当然知っていた。
─────き、気まずい。
雪トはまったく助け舟を出す気がないらしく、猫のるりにどこからともなく取り出した猫じゃらしをけしかけて遊んでいる始末である。薄情な従者だった。
「ああ。おれも嬉しいぞ、久那。だが、本当に里から出て来たのか?」
「はい。お父上には言って、出てきました」
久那の父というのは、亡霊となっていた彼女を、妖に転生させた山神のことである。火白の記憶では、かの神の見かけは、白い髭を蓄えた好々爺だったが、神なのだから姿形などいくらでも変えられる。
火白にとっては何度か会っただけだが、娘を貰いたいならと滅茶苦茶な試練を与えて来た怖い御仁だった。そのすべてを潜り抜けたのではあるが。
「人間の里に降りるもよし、ただし必ず火白さまを見つけるように、とのことでした。お側に置いていただけぬなら、山へ戻れとのことです」
久那はそっと眼を伏せる。戻りたくないと、全身で言っていた。
「なぁ、久那。話はわかったが、おれはもう、氷上の里の者でもなんでもない。半人前の鬼の男でしかない。何も持っていない……わけではないが、家もろくにない。それでいいのか?」
そういうと久那は、今度は何故かほほ笑んだ。袖で口元を覆い、懐かしむようなやさしい眼をした。
「そう仰るならば、ひとつ昔話をいたしましょう。火白さまは、初めて会ったときのことを覚えておいでですか?」
「は?」
話の持って行きようがわからず首を傾げると、雪トのじとっとした視線が飛んでくる。覚えていない訳がないだろうという目付きだった。
忘れてはいないのだ。火白は頷いて口を開いた。
「覚えておるよ。うちの屋敷で会ったのだろう」
小さい童を指して、明日からこの娘が許嫁である、と言ったのは火白の父である。
禿の人形のようにちょこんと座布団の上に座っていた姿を見たとき、そういえば己は随分と驚いたことを思い出した。
「ああ、久那とはそれより前に会っておったな。うちの屋敷の中で。半日遊んだ後にいきなり許嫁と言われたから、なおさら驚いたのう」
氷上の里には、子どもの鬼は少なかった。火白と弟の風吹と、あと三人しかいなかった。そして皆が皆、いつか人を喰って立派な鬼になることを望む子らだったから、火白はいまいち彼らと芯から仲間になれなかったのだ。
そんな折に、屋敷の中で思いがけずに会ったのが、久那だった。他所の妖の里から来て、父上の用が済むまで遊び相手がいないという自分より小さい子を、火白は近くの人里まで連れて行って、一緒に遊んだのだ。そのころ人里で仲良くなった、まだ人間だったころの雪トと一緒に。
「最初、一番初めに言われたことがあるんです。私はそれで火白さまを好きになったのです」
言ってのけた久那に、火白のほうが口をぽかんと開けた。
火白童子は百年を数える年月生きて来た妖だが、それまで面と向かって誰かから、それもおなごから好意を告げられたことなど一度もなかったのである。
「おーい、主。……ああ、駄目だこりゃ。固まってらぁ」
その顔の前で、雪トがぱたぱたと手を振る。彼が振り返ると、久那は顔を真っ赤に染めて俯いていた。言ってしまってから、気恥ずかしくなったのだ。
「と、ともかくですね、火白さま。私があなたと最初に会ったとき、あなたは私がどこの誰かもご存じありませんでした。だからこそ、そのとき言われた言葉で、私はあなたのことが好きになったと言えるのです」
「いや、もう、ちょっとわかったから待ってくれ……」
百年以上も生きてきた間、概ねは飄々としている火白だが、いくらなんでも幼馴染で憎からず思っている少女にここまで言われて、気恥ずかしくないはずがない。
─────というか、こういう者だったか、久那は!
昔、同じ屋敷で暮らしていたころや文をやり取りしていたころは、もっと引っ込み思案で、感情を奥に秘して、考え抜いてから話すような女の童だった。
顔を真っ赤にして、話の後先を混ぜこぜにしつつも、己の想いを勢いで言い切るような性ではなかった、と思う。
「駄目です!雪トさんから、あなたにはち、ちゃんと気持ちをお伝えしなければ、はぐらかされると言われましたので」
「
火白が怒鳴り声を上げたときには、要らぬことを吹き込んだ、足の速い従者の姿は既になかった。脱兎の如く飛び出た彼に、一緒に持って行かれたらしいるりの鳴き声の名残が、小さく聞こえているだけだ。
「で、ですから、私が火白さまをお慕いするのに、家のことや何かはまったく関係ございません。だから……」
「いや、いいよ。そこから先は言わんでも」
さすがにここまで言われて、わからぬことを装うほど阿保ではなかったし、最後の一言を言われてしまうのは、男として大層格好が悪い気がした。
火白は久那の黒い瞳を覗き込んだ。
「ここにいてくれ、久那。他の誰でもなく、おれの側にいてほしいんだ」
「はい!勿論です。火白さま」
そう言ってほほ笑んだ妖の姫は、息を呑むほどに美しかったのだった。
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