第1章-5

 福禄屋は、幸七郎の祖父が始めた店だという。小さいながら、手堅く商いを続け、江戸日本橋の通町近くに店を構えるに至ったという。

 欲を出さずにこつこつと商いを続けてきた祖父、父の背を見てそれなりに裕福な家で育ったからか、幸七郎は、気のやさしいままお店の主になった。

 妻のお千絵、双子の姉弟であるお夏と芯太と、それに近くに住むという出戻りの姉とその同居人と、とにかく家族だけで店を回しているのだ。八歳になるお夏と芯太も、店を手伝って働いている。

 まさに、家族一丸となってやっている店なのだ。

 そこに転がり込んできた青年たちは、二人が二人とも人ではなかった。

 妖である。鬼なのである。

 今は少年に姿を変えた彼らは、福禄屋の座敷に通されて、そこに胡坐をかいて座っていた。いつもなら、もう店を開けている時間だが、まだ話があるという火白が言ったので、幸七郎はまだ表の扉を開けてもいなかった。

 そうやって、静かになった福禄屋の座敷で、さっきからしきりと、濃い青の髪をした少年の額を触ろうとしているのは、娘のお夏とその双子の弟の芯太である。

 朝まで布団の中で寝込んでいた芯太だったが、お腹いっぱいになったとたんに元気になり、姉と一緒になって火白の額をなんとかして弄ろうとしていた。どうやら、姉と同じく芯太も勘が鋭いのか、隠したはずの角がぼんやり見えているらしい。


「ねぇねぇ、白兄しろにぃ。角さわらせてよ、角」

「駄目だと言うたろうに。見せるだけだ。というかなんだ、その白兄ぃというのは」


 小さい子二人にまとわりつかれたままの少年、火白を見て、おっとりとした笑顔を浮かべて、袖で口元を押さえているのはおかみのお千絵である。


「お夏、芯太。あまり困らせてはいけないわよ」

「はーい」

「はーい」


 元気に返事をして、双子の姉弟はぱっと火白から離れた。


「今から大事なお話をするから、上で遊んでなさい」


 これにも子ども二人は素直に頷き、階段を駆け上がった。その足音が消えてから、若夫婦は改めて客人に向き直った。


「改めて、お礼を言います。火白さん、雪トさん。息子の命を救ってくださり、ありがとうございました」


 頭を下げる二人である。火白は気まずげに頬をかいた。そこまで言われると、くすぐったいのである。


「仕事を探しているという話でしたが……」

「ああ、それなのだがな、まだ気になることがある」


 芯太がかかっていたのは、病ではなく呪いである。となれば、それを仕掛けた者がいるのだ。

 まだ幼い子の命を危うくする呪を仕掛けた相手に、火白は表面からはそうとは見えないが激怒していた。それがわかるのは、付き合いが長い雪トだけだった。

 こうなると、仕事とかなんとかは関係なく、呪を仕掛けた相手を取っ捕まえるまで、火白は止まらないだろうと、雪トにはわかった。内心やれやれと呟きながらも、そういう主を見て、悪い気はしていなかった。


「幸七郎、お主、誰かの恨みを買った覚えはあるか?」

「恨み、ですか」


 人の良さそうな顔をした店主は、びっくりしたように眼を瞬かせた。火白にも雪トにも、彼が誰かの恨みを買うようには見えない。まして、呪われたのは彼の幼い子どもであって、彼自身ではないのだ。

 親に恨みのある相手が、本人を狙わずに子を狙ったとするなら、そのやり方にはぞっとするような悪意があった。


「うちは小間物屋ですけど、そんな、人様の恨みを買うような覚えは……」


 案の定の答えである。火白は、ふむと頷いた。


「それに、わからぬことはまだある。お主に刀を授けた、女のことだ。怖いくらいに怪しく美しかったと言っておったな」


 その女が渡してきた刀は、本物の退魔の力が込められていた。そうそう用意できるものではない。


「本物の観音様の使いだったということは……」

「さすがに、それはなかろう。観音様に会ったことはないが、懸命に祈る親に毒になる鬼の血を勧めるような御仁ではないだろ」

「幸七さん、あなた本当、どこまで行っていたの?鬼から血を採るなんて、怪しいにもほどがあるわよ」


 白い眼をして乗り出してくる妻に、幸七郎はたじたじとなっていた。


「い、いや、あのときはそれが正しいことだと思ったんだよ」


 女の話を聞くうち、芯太のためになるならば、いやそれしか方法がないならば、やらなければならない、いやどうであってもやるのだと、幸七郎は一途に思い込んだのだという。


「今にして思えば、あのときの僕はどうかしていたとしか思えない。刀だってろくに触ったこともないし、鬼に本当に出会うなんて……あ、いや、実際には出会えたわけだけど」


 素のものらしい砕けた口調に変化した店主を見ながら、鬼の少年は懐から取り出した煙管をくわえて、肩をすくめた。


「ま、お江戸の商人にとっては鬼など物語か絵の中だけだろうの。ちなみに、おれたちはお主らが知っているような鬼ヶ島の輩とはまったく関係などないぞ」

「話がずれてるぞ。今大事なのは、三つだろ」


 火白の横に控えていた雪トが口を挟んだ。先ほどより幼くはあるが、役者にでもなれそうな秀麗な顔をちょっとしかめて、雪トは言葉を続けた。


「一つ、この店の芯坊が呪いをもらったこと。二つ、怪しげな女が現れたこと。三つ、その女が氷上の青鬼の血を採ればいいと言ったかということだ」

「言われてみればそうだの。その女、川原に出る青い鬼に血をくれるよう頼めと言ったのか?」

「ああ。だから、青い髪をしている火白さんだと思ったんだが」

「なるほどなぁ。それと、おれのことは火白でいいぞ」


 わかったよ、と答える幸七郎を見ながら、火白も考えを巡らせていた。

 幸七郎に話しかけたという女は、彼をそそのかして危ないことをさせようとしたとしか思えなかった。鬼の血、それも人を喰う氷上の鬼の血を採るなど、無茶もいいところだ。火白のような変わり種が相手でなかったら、幸七郎など伸し餅にされて喰われていただろう。

 どこの馬鹿だか知らぬが、これは捕まえなければならない。子に呪をかけ、その親を妖に喰わせようとするなど、言語道断だった。


「氷上の里の名前まで出してるから、まぁ、妖だろうなぁ。そいつ」

「あ、あの人も妖だったんですか?それにその、氷上の里というのは……?」

「おれたちの故郷だよ。氷上から来た青い鬼というなら、おれのことではあったのだろう。お主、人違……ではなく、鬼違いをしていた訳ではなかったのだ」

「あの、火白さんに雪トさん、してみると、うちの人を騙したその女も妖で、その人がうちの芯太にあんなことを?」

「女自身がやったのかはわからぬが、手は貸していたろうな。……しかし、困った」


 火白は、かけられた術を引き剥がすことはできるが、かけられることそのものを防ぐのはできないのだ。雪トはどちらもできないし、かけられる度に火白が解いていたのでは、子どもの体がもたない。

 要するに、呪を仕掛けた者をとっ捕まえなければ、話が終わったことにならないのだ。

 そういういと、夫婦の顔色がまた青ざめた。細い顎を撫でながら、幸七郎が呟く。


駒石こまいしの親分に相談するのは……」

「どう相談するつもりなの?あの人、呪いとか妖とか、そういうものは嫌ってるわ。気の迷いって言われて、お終いよ」


 駒石の親分というのは、福禄屋の先代のころからつき合いのある十手持ちの旦那のことだった。岡っ引きとしての腕は良いのだが、如何せん狐狸化け物といわれるものら全般を嫌っているし、信じてもいないので頼めない。


「普通の人間ならそうであろうのう。というか、今更だがお主ら、おれらが鬼という話、よくすんなり信じたものだ」

「そりゃあ、眼の前で小さくなられたりしたら、僕も信じるよ。それに、雪トがあの川原からここまで、僕を担いで帰って来てくれたけど、とんでもない速さだったしね」

「それに、鬼でもなんでも、火白さんが芯太を助けてくれたことに変わりはないもの」

「う、うむ……」


 正面から言われて、火白は煙管の端をくわえた。

 昔、子どものころに出会った人々は、火白の角を見たとたん、石を投げつけるわ、見世物小屋に売ろうとするわと、散々な目に遭わされたものだが。

─────よし。

 なんとしても、仕掛けた者を捕まえると、火白は改めて決心した。


「この店を守る者がいたらよかったのだが……」


 火白が呟いたとき、ふと、雪トと火白の耳がぴくりと動いた。

 二人揃って立ち上がり、店の外へ出る。素足のまま通りに飛び出た二人の後を、幸七郎が慌てて追った。


「もう来たのか……」

「何が?」


 二人と同じ方角を見た幸七郎は、そこに何か黒い靄のようなものが飛んでいて、しかも一直線にこちらに迫って来ているのを見た。


「るり!こっちだこっち、店の前に降りるな!」


 雪トがその靄に向かって、声をかける。と、店の正面に激突する勢いで飛来して来た黒い靄は、ぎりぎりで方向を変えて、店の正面ではなく横手に降り立った。

 それでも、火白の着物の裾がはためくほどの風が、福禄屋の中を駆け抜けた。

 風で一瞬通りにいた者たちの眼が潰れる。火白が眼を開けたときには、ひとりの若い女性が佇んでいた。


「お久しぶりです、火白さま」

「……ああ、こうして会うのは久しぶりだな。久那」


 腕の中に小さな黒猫を抱いた彼女は、そう言ってほほ笑みかけ、すぐに驚いたように口元を袖で押さえた。


「あの、火白さま?随分……小さくなられていませんか?」

「応。まあ少しあってな、縮んだのさ」


 それはともかくとして、だ。火白は、背後で固まっている幸七郎を振り返った。


「幸七郎やい。大丈夫か?」

「あ、ああ、うん。それにしても、今度は……?」

「申し遅れました。わたくしは久那と申します。そちらの、火白さまの許嫁でございます」


 公家の姫のように、長い黒髪を揺らして上品にほほ笑んだ久那を見て、幸七郎と、それからぞうりをつっかけて飛び出して来たお千絵は、揃って驚いたのだった。

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