第1章-4
福禄屋は、江戸の通町から道数本ほど離れたところにある小さな店である。
その店先に、まだ朝が明けきらぬうちから、変事があった。店の主である幸七郎が、見知らぬ若者に担がれて帰って来たのである。
主人を担いで帰って来たのは、主人よりひとつ二つ若く見える青年二人だった。
二人とも、六尺(百八十センチ)ほどでかなり大柄な体格をしていた。
片方は黒く長い髪を一本に束ね、もうひとりは耳の下でざんばらに切られたような珍しい青い色の髪をしていた。
「臭い」
若者二人のうち、背の高い青い髪のほうは、店に入るなりそう呟くと、二階の階段をあっという間に駆け上がった。
「ちょっ」
「済まぬ、これは一刻を争うことだ」
二階から、青年の声だけが降ってくる。黒い髪の青年に担がれていた幸七郎も、慌てて二階に駆け上がった。
「ここか」
青い髪の青年が立ち止まったのは、二階の一間である。すぱんと迷いなく障子を開け放った彼を出迎えたのは、布団にくるまれた子どもと、その傍らに座るまだ若い女である。
「どなたですか!」
血の気のない白い頬をした若い女性は、とっさに子どもを庇うように身構えた。
「おれは……えーと、医者だ。そちらの亭主の幸七郎殿に言われて来たのだ」
そこへ部屋に飛び込んできたのは、当の幸七郎である。その襟首を軽々と掴んで、青い髪の青年はお
「幸七郎とその妻のお千絵殿。おれは火白童子という。そこな幸七郎殿と知り合ってな、病の子どもを診ようと来たのだが……」
そこで一度言葉を切って、火白と名乗った青い髪の青年は、千絵に抱かれた芯太を見た。
「その子は病ではない。呪いだ。有体に言って呪われておる。おれなら祓える故、少しその子に触れさせてくれぬか?」
「な、何をいきなり仰いますか!」
お千絵が子どもを抱く腕に力を込めた。
「お千絵、この人は……じゃなかった、このお」
ぎろり、と追いついてきた黒い髪の青年が、幸七郎を睨む。咄嗟に、幸七郎は言葉を反転させた。
「えーと、このお医者さま……でもなかったか、このお祓い屋の火白さんは確かな人なんだ」
ひとつその子を預けておくれ、と幸七郎はお千絵の手を取って言った。
「本当に?幸七さん、また妙な壺でも掴まされたんじゃ」
「い、いや、今度は違う。今度こそ本当だ」
「その前も、その前も、同じことを言っていたわよね」
却って眼を三角に尖らせていくお千絵と、眼が泳いでくる幸七郎である。
「おいおい、夫婦漫才しておる場合ではなかろ。……そうだの、だが確かに、対価がなければ信用されぬか」
むむ、と火白は首を捻ってから、ぽんと手を打った。
「では、こうしよう。お主らの子を治すから、代わりに江戸での仕事を紹介してくれ。田舎者故、右も左も知らぬのだ。できなかったら、叩き出せばいい」
「それならばできようもありますけど……」
「よし、では済まぬが、芯太を布団の上に寝かせてやれ。抱かれたままでは診られん」
お千絵は訝し気な様子のまま、それでも夫と目の前の毒気のない青年を信じる気にはなったのか、芯太を布団の上に横たえた。
「おっ、かさん?」
寝かされたので不安になったのか、芯太が眼を開ける。お千絵はその頬をゆっくりと撫でた。
「大丈夫。お医者さまが来てくれたからね」
「応とも。少し眼を閉じておれ、芯坊。母の手を握っておれば、すぐ済むぞ」
にっこりとやさし気なほほ笑みを向けられ、芯太は熱で赤くなった顔をちょっと緩める。そのまま、小さな手で母の手を握ると眼をすぐに閉じた。
「よし、そのまま握っておいてくれ」
言うなり、火白は懐から煙管を取り出した。弓と矢が彫り込まれた、凝った造りの煙管から、火を点けたわけでもないのに、もくもくと薄紅色の煙が吹き上がる。
「火白さん、こ、これは……」
「
狭い一間に立ち込めた煙の中、火白は指で印をいくつか結ぶ。その動きに合わせて、煙がぐるぐると部屋の中で渦を巻いた。
「
最後に袖を払い、火白は指先を芯太の胸元に向けた。瞬間、小さな子どもの体から、黒い靄が立ち上って、火白の左腕に蛇のように絡みつく。
火白は顔色ひとつ変えずに、黒い霞が巻き付いたのと逆の手で、芯太の額にはりついた髪をそっと退けた。煙管を一振りすると、部屋の中に蟠っていた薄紅の煙は皆煙管に吸い込まれて消え失せる。
「具合はどうだ?芯坊」
左手を右の袂に突っ込んで隠しながら、火白は問いかけた。ぼんやりと、芯太の瞳が開く。直後、大きな腹の虫が鳴く音が部屋に響いた。
お腹を押さえて、芯太は布団の上で身を起こす。その額に手を当てたお千絵の顔色が、信じられないものを見たように変わる。
「……おっかさん、おなかがすいたよ」
「それは結構なことだの、芯坊」
そのまま火白は立ち上がると、雪トに手で合図をして、廊下に出た。雪トが襖を閉じると、親の喜ぶ声が聞こえてきた。
それを聞きながら、雪トは火白の肩を掴んだ。
「おい、主。その腕、何を隠した?」
「ああ、これか。何でもないさ」
火白が袖を払うと、その下には黒い蛇が巻き付いていた。しゅうしゅうと音を立てるそれは、頭から尾の先まで黒く、瞳と舌は血のような赤だった。
蛇が牙を剥いて、火白の腕に噛み付く。血は流れず、火白はそのまま蛇を掴んで手首から引き剥がした。
「あの子に憑りついていたモノだよ。こうなると、一層不気味だの」
幸七郎からかすめ取っておいた退魔の小刀を取り出すと、火白は蛇の脳天を突き刺した。
袋に入った煙は抜けるときのような音を立てて、蛇が火白に掴まれたままのたうち回るが、やがて黒く薄い靄となって、跡形もなく霧散していった。後には黒い鱗が一枚だけ残り、火白はそれを袂に放り込んだ。
「何をしたんだ?」
「呪いをおれに移して、引っぺがして斬った。これで芯太は治るだろうよ」
その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、障子が開き、中から幸七郎と芯太を腕に抱いたお千絵が現れた。芯太の熱は嘘のように下がったが、数日の間ろくにものも食べられないで寝込んでいたために、ひとりで歩けないほど腹を空かせていたのだ。
だが、二親からしてみれば、芯太が飯をねだることすらも嬉しくてたまらないらしく、にこにこと満面の笑顔だった。
「火白さんに、雪トさん、ありがとうございます。本当に、ありがとうございました」
芯太を抱いたお千絵は、火白と雪トに頭を下げると、階段を下って行った。
残って頭を下げる幸七郎に火白はひらひら手を振った。
「これで熱は下がったがな、寝込んでいた分の体力までは戻っておらん。当分、体には気をつけてやれ。……それから、だな、先ほどの話なのだが」
「承知しています。仕事の話ですね」
笑み崩れた顔の幸七郎である。自分の子どもがやっと助かったこと、跡取りを亡くさずに済んだことがいっぺんに来て、嬉しくて堪らないのだ。
「お父さん?その人たち、だあれ?」
あどけない声が、廊下に響いたのはそのときだ。見れば、芯太が寝かされていた部屋と向かいの部屋の障子が開き、小さな女の子が顔を出していた。
肩上で黒い髪を切り揃えた幼い女の子で、かわいらしい小花を散らした赤い着物を着て、火白と雪トの額の辺りを見ていた。
「ああ、お夏。この人たちはね。……えーと、どう言えばいいでしょうか?」
「いやいや、おれたちに聞くでない。さっきお祓い屋と名乗ったから、それで押し通せばいいだろう」
「あっ、そうでしたね」
呑気に言った幸七郎は、お夏と呼んだ女の子と目線の高さを合わせた。
「お夏、この人たちはね、お祓い屋さんなんだよ。芯坊の病を治してくれたんだ」
「ほんと?芯坊、元気になったの?」
ぱっとお夏の顔が輝く。だが、火白と雪トを見たとたん、お夏は訝し気に眼を細めて、幸七郎の後ろに隠れた。
「お父さん、このひとたち、おでこのところに何かあるよ。角、みたいなの」
おや、と火白は眼を細めた。普通の人間には見えないようにしていたはずなのだが、小さな子どもには勘の鋭い子もいて、そういう子に行き当たると、よく見破られることもあった。
「眼が良いのだな、娘子。おれは確かに人間ではなく、妖だよ。鬼と言われておる」
「そうなの?」
父親の衣の裾を掴んでいたお夏は、それを聞いて顔を出した。後ろで雪トが、驚いたような声を出したのを放っておいて、火白はにかりと笑った。
「そうさな、確かにこの格好では少々まずいか。……よし」
直後、またも火白の煙管から煙が出る。それは雪トと火白の全身をすっぽり包み、一時親子の眼から二人の姿を隠した。
「ちょっ、火白さん!ここ、家なんですよ!煙が出てるところ見られたらまずいんですって!」
火の不始末には、厳しい処罰が下されるのだ。朝っぱらから、店の二階から煙がそう何度も立ち上っているところを見られたら、後々差しさわりが出るかもしれなかった。
「お、済まぬな。しかし、もう終いだぞ」
煙はしゅるしゅると音を立て、火白の持つ煙管に吸い込まれて消え失せる。煙が失せたそこにいたのは、十四、五歳ほどの少年二人組だった。幸七郎が眼を剥く。
「え、えぇぇっ?」
「何を驚いておる。鬼と言ったろう。怪しい術のひとつや二つ、使えんでどうする」
「自分で自分のこと怪しいって言っちゃ駄目だろ。てか、またこれなのかよ。この変化するときに全身の骨が傷むの、どうにかならないのか?」
「諦めろ。仕様だ」
濃い青の髪の少年は懐手をしてにやにや笑い、長い黒髪を束ねた少年は、痛いんだよな、と言いつつ、体の調子を確かめるように肩をぐるぐると回した。
先ほどの青年姿から比べれば、一尺(三十センチ)ほども縮んでいるのだ。
「火白さんに、え、雪トさんで?」
「そうだよ。俺たちは鬼だから、体の大きさもかなり勝手に変えられるのさ」
「うすらでかい男二人より、このほうが良かろう。家を狭くせんで済む」
「それは、まぁ……」
「それよりもほれ、妻と息子のところへ行ってやれ。このお夏嬢も待っておろうが」
火白が少し屈み込む。と、いきなりお夏は手を伸ばして、その額をさわさわと摩った。
「……あれ、なにかある?」
「こ、こらっ、お夏っ!」
後ろからお夏を抱え上げた幸七郎は、泡を食ったようだった。いきなり娘が、鬼の額を触ったのだから当然ではあるが。
「そこには角があるのだ。だが、見えんようにしておる」
「えー、見たい!
父親に抱えられたまま、興味津々というふうにお夏は手足をばたつかせた。
「後でな、後で」
思いのほか自由なお夏に笑いかけながら、さて、仕事はこれでどうにかなりそうだ、と火白は煙管の端を口にくわえたのだった。
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