8-3

 カレンダーはいつのまにか、もう六月になっていました。


 梅雨の合間のよく晴れた朝です。

 白いシーツを洗濯ばさみで止めると、愛梨は、ふう、と息をつきました。


 ちひろは元気になったかと思うと、すぐにまた海辺の町へと戻っていってしまいました。


「もうちょっとゆっくりしていけばいいのにね。まったく、誰に似たのかしら」

 愛梨は写真立てに向かって、そんな独り言を言いました。


 隼人は結局、戻ってきませんでした。


「――私たち、またバラバラになっちゃったね」

 風が吹いて、真っ白いシーツが青空に大きくはためいています。


「でも、みんな元気でいる。今日はいい天気だなあって、おんなじ空を眺めてる。それが分かってよかった。約束だから、もうちょっとだけ待っててあげるわ」


 ピンポーン


 インターホンが鳴りました。

 けれど、ドアホンのモニターには誰も映っていません。


「変ねえ」


 愛梨はチェーンをかけたまま、玄関の扉ををゆっくり開けました。

 やっぱり誰もいません。


 扉を閉じようとした、その時です。

 扉のすき間から、花の香りがふわりとすべりこんできました。


 サンダルをつっかけて、愛梨は玄関の外へ出てみました。

 そして、すぐに見つけました。

 傘立ての側に置かれた、真っ赤なバラの花束を。


 数えなくても、愛梨にはそれが九十九本あると分かっていました。

 もう二十年以上前になりますが、同じような花束を見たことがあるのです。


 抱え上げると、懐かしさがあふれるように香ります。

 両手にあまる大きな花束の重みは、記憶の中と少しも変っていません。


『あと一本のバラの花は、死ぬ前の日に贈る。それまで、俺のわがままをきいてほしい――結婚してください』


 柄にもなくきちんとスーツを着て、怒ったような、困ったような顔でそう告げられた日のことが、鮮やかに思い出されます。


「――ばか」


 愛梨は花束を抱きしめました。

 思い出の香りに包まれて、愛梨は胸がいっぱいでした。


 再び贈られた愛の証の花束は、朝の光を浴びてきらきらと輝くように咲き誇っているのでした。





 見晴らし台へ向かう林道はひんやりと涼しく、木漏れ日がいくつもの光の束になって降り注いでいます。

 隼人はひとり、その道を歩いてました。


 遠くからエンジン音が聞こえてきました。

 それは背後から近付いてくると、あっという間に隼人に追いつきました。

 サイドカー付きの大きなバイクです。


「桐生か」

「どこへ行くんだ、星崎」

「年齢を取り戻す」

「玉手箱なら竜宮城にあるらしいぞ」

「だったら、まずは困っている亀を探すか」


 隼人がそう言うと、桐生タケルはニヤリと笑いました。


「お前がそんな冗談を言えるとは驚きだ」

「桂城を探しに行く。俺を改造したのはあいつだ。年齢を取り戻す方法も知っているかもしれない」

「なら、目的は同じってわけだ」


 桐生はヘルメットを投げてよこしました。

「乗れよ。お前となら楽しい旅になりそうだ」


 隼人は受け止めたヘルメットをじっと見つめていました。

 が、やがて顔を上げると、ひらりとサイドカーに飛び乗りました。


「さあ、行こうか。今度は橋から落ちたりするなよ、小僧」


 桐生がそう言うと、隼人もにやりと笑って言い返します。


「お前こそ、敵を取り逃がすようなヘマはしないでくれよ、おっさん」

「口の減らん奴め」

「お互い様だ」


 エンジンが再びうなり声を上げ、バイクが風を切って走り出します。

 林道のゆるいカーブを登り切ると、見晴らし台のある丘が見えてきます。


 梅雨の合間の青空は、どこまでもすがすがしく晴れ渡っています。


「いい天気だ」

 隼人は、空を眺めてそう言いました。

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