6-5

 愛梨は見晴らし台に登って、丘を走り去っていくバイクのサイドカーを、じっと見つめていました。


「ちひろ、行っちゃったわ」

 ひとりごとにしては大きな声で、愛梨は言いました。


 背後から声がしました。

「もう日が暮れる。君は村に戻った方がいい」


 それは、秋風のような、少しかすれた響きがしました。

 愛梨は深呼吸すると、ゆっくり振り返りました。


 ずっと。

 この十七年、ずっと会いたくて、待ち続けたひとが、そこにいました。


 柱の陰から姿をあらわした星崎隼人は、昔と変わらず、少し困ったような顔で、愛梨を見つめているのでした。


 しばらくの間、ふたりはじっと見つめ合っていました。

 つながったふたりの視線が、次々と思い出の糸をたぐっていきます。

 お互いの目に映る記憶が、色鮮やかによみがえってきます。


 やがて、愛梨が口を開きました。

「久しぶりね、隼人さん」

「すまない。ずいぶん待たせてしまったようだ」

「そうよ。私、すっかりおばさんになっちゃったわ」

「君は、昔と少しも変わっていない」

「あら、嘘つきね」

 愛梨はフフッと笑いました。


 隼人は愛梨の隣に並ぶと、村の方へと目を向けました。

 学園からは、非常事態を示すサイレンが聞こえてきます。


「ちひろは海辺の町へと向かったのか」

「きっとそうね。あの子は今、海辺の町のヒーローだもの。守るべきものがあれば飛び出していく――誰に似たのかしらね」


 隼人は困ったように笑いました。


「ちひろはいい男になったな。君のおかげだ」

「私は何もしてないわ。あの子はいつも無意識に、あなたの背中を追いかけていた。気が付いたら、知らないうちに大きくなっていたのよ。子供って本当に不思議ね」


 再び、ふたりの間に沈黙が訪れました。


 夕日は強く輝いて、景色のすべてを朱色に染め上げています。

 あふれるほどの夕焼けの中で、ふたりは並んで立っていました。


「隼人さん。私、ずっと待っていたのよ」


 風がざあっと吹きました。

 あたりの木々や草を大きく揺らして、夕暮れの風が吹き渡っていきます。


「また、この村で、家族三人で一緒に暮らせる日が来るって、ずっと待っていたんだから」


 隼人は、手すりをぎゅっと握りしめました。

「愛梨、俺はもう――」


「行って」

 と、愛梨は言いました。


「行って、ちひろを助けてあげて。それができるのは、きっとあなただけ」


 その強い言葉に驚いて、隼人は愛梨の顔を見ました。

 愛梨はまっすぐに隼人を見つめ返すと、にっこり笑って言いました。


「あなたもちひろも、本当に困った人たちよね。ヒーローなんて、おうちのことは放ったらかし。すぐにどこかへ飛び出して行ってしまうんだから。だけど仕方ないわ、私はそんなあなたたちが好きなんだもの。だからもうちょっとだけ、この町で待ってるわ」


 夕暮れの風が、愛梨の髪を優しく揺らしています。

 隼人はしばらくの間、息をするのも忘れて、愛梨の黒い瞳をじっと見つめていました。


 やがて、小さく息を吐くと、隼人は微笑んで言いました。

「君には、とてもかなわないな」

「当たり前でしょ? 母親はね、ヒーローよりも強いんだから」

「そうだな」

 ふたりは同時に、フフッと笑いました。


「必ずちひろを連れて、ふたりで戻ってきて」

「ああ、約束する」


 ざわざわとした空気が近づいてきています。

 車のヘッドライトが、いくつか見えています。

 学園からの追手でしょうか。


 愛梨は、隼人の背中を押しました。


「私は大丈夫よ。それより、早く!」

「ああ」


 隼人は、手すりに両手をかけました。

 そして、ちょっと笑って言いました。


「愛梨」

「なに?」

「すまない。昔と変わっていないなんて嘘だ」

「分かってるわよ。いじわるね」

「君は、今の方がずっと素敵だ」

「えっ?」


 隼人は手すりをひらりと飛び越えると、一気に地上へと落ちていきます。

 木々に遮られ、その姿はすぐに見えなくなってしまいました。


 ほどなく、けたたましいエンジン音が響きました。


 一台の大きなバイクが、森の中から飛び出してきて、放たれた矢のように山道を走り去っていきます。

 追手の車がその後を追いますが、距離はどんどん引き離されていきます。


 いつの間にか、空は深い紫色に変わり、気の早い一番星がキラリと輝いています。


「……ちょっとキザすぎるんじゃないかしら」

 熱くなってくる頬を手のひらで押さえたまま、愛梨はバイクの走り去った方向を見つめていました。

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