5-2
「十七年前。敵を追い詰めて、あと一歩ってところでヘマをしたんだ。吊り橋から落ちて、意識を失った」
隼人はそう言いました。
昔と変わらない、少しかすれた秋風のような声です。
「それで?」
「そこから覚えていない。目が覚めたのは、今から半年くらい前だった」
テツさんは、温かいミルクが入ったマグカップを、隼人の前に置きました。
「じゃあこの十七年間、お前はずっと眠ってたのか」
「ああ。目覚めたときには、記憶もなくしていた。自分がだれなのかも分からなかった。眠っている間に、敵の科学者からいろいろと改造手術を受けていたようだ。組織の一員になって働くようにと洗脳もされていた」
「やっぱり、そうだったのか」
テツさんの『記憶をなくし、敵に操られている』という予想は、まったく正しかったのです。
隼人は頷くと、ホットミルクを一口飲みました。
熱い、と顔をしかめる隼人を見て、テツさんは思わず吹き出しました。
「笑うなよ」
「笑うに決まってるだろう。お前、本当に変わってないな」
テツさんはおかしそうに言いました。
「それで、記憶が戻ったのはいつなんだよ」
「先週。一条カズマと戦った時に」
隼人は左頬を見せて言いました。
「この傷は、一条カズマがつけた」
「嘘だろ?」
テツさんは目を見開きました。
隼人がどれほど強いか、テツさんはよく知っています。
新人ヒーローにとっては、傷をつけるどころか、触れることさえできないはずです。
「嘘じゃない。奴は、自分で自分の足元に爆発を起こした。爆風に飛ばされることで加速して、俺の間合いに切り込んだ」
「カズマ……なんて無茶なことを」
「ああ。だが、おかげで俺は救われた」
「どうやって?」
「ワカバソードが俺の頬を傷つけた時、剣先から一条カズマのヒーローオーラが流れ込んできた。そのおかげで洗脳が解けて、全部思い出したってわけさ」
「……なあ、カズマは生きてるのか?」
隼人は何も言いません。
ですが、口元に優しい笑みを浮かべています。
テツさんは、ほっと息をつきました。
「ならいい。ところで、お前はこれからどうするんだ?」
「決着をつける」
隼人の目が、鋭く光りました。
「決着?」
「俺を操っていた連中は、とんでもない計画を進めている。実行する前に、必ず阻止しなきゃならない」
「『ハウリングムーン計画』か。周囲の人々をオオカミ人間に変えてしまう、恐ろしい計画だな」
「よく知ってるな」
隼人は目を丸くして驚いています。
「当たり前だろ、俺を誰だと思ってるんだ」
「さすがだな。情報屋の腕は健在か」
「まあね」
「だったら、【青い月】のことは知ってるか?」
「青? 『ハウリングムーン計画』に使われるのは【赤い月】じゃなかったのか?」
テツさんは首をかしげています。
「【赤い月】は人の凶暴さを呼び起こす光。それを押さえてコントロールするのが【青い月】だ」
「なるほど」
「どちらも揃っていなければ、オオカミ人間をコントロールすることができない。操れなければ、ただの暴力だ。コントロールできてこそ価値がある。だが、何者かが【青い月】を盗み出してしまった。組織の連中は必死で【青い月】を探している。取り戻したら、すぐに計画を実行するつもりなんだ。何としても奴らより先に【青い月】を見つけなければ」
隼人はそう言うと、ようやく冷めたミルクを一気に飲み干しました。
「隼人」
「ん?」
「決着がついたら、村に戻ってこいよ」
「……」
「テツさん特製オムライス、また食わせてやるからさ!」
けれど、隼人は言いました。
「俺は、もう戻らない」
あんなに激しかった雨音が、いつの間にか、かすかなものに変わっていました。
「なんでだよ、隼人」
「ごめん、テツさん」
「ごめんじゃねえよ! この十七年、愛梨ちゃんがどんな思いでお前を待ってたと思ってるんだ」
「分かってる」
「ちっとも分かってねえだろ! ちひろだってそうだ、お前のことを覚えていないまま、それでもお前と同じ道を選んだ。お前のことを知りたいって、ずっと思ってきたんだぞ!」
「分かってるさ。ちひろには悪いことをした。ひどく傷つけてしまったんだ。どんなに謝っても、とても償いきれるものじゃない」
「だったらなおさら、戻ってくるべきだろう!」
「でも、ダメなんだ! テツさん、聞いてくれ」
「何をだ!」
「俺は、もう年をとれない」
「……なに?」
「十七年間、時間が止まっていただけなら、俺も村に戻ろうと思ったさ。愛梨とはずいぶん年が離れてしまった。今の俺となら、ちひろのほうが近いくらいだ。それでもこの先、ふたりと同じ速度で年を取っていけるのなら、俺もそうしたかった。でも、違うんだ。俺はもう、年をとることができない。そんな風に、俺は改造されてしまった。この先何年経ったとしても、俺は今の姿のままなんだ」
「そんな……」
「あと十年もすれば、ちひろは俺より年上になる――分かるだろ。俺はもう、家族の側にはいられない」
窓の外では、細い糸のような雨が、静かに木々を濡らしています。
隼人は立ち上がりました。
「そろそろ行くよ」
「おい、隼人」
隼人はテツさんに背を向けると、扉の方へと歩いていきます。
そして、一度だけ振り返ると、少しだけ笑いました。
「十七年前、吊り橋から落ちていくときに、最後にテツさんのオムライスが食いたい、って思ってた。やっぱり旨かったよ。ここのオムライスだけは、譲れないな」
テツさんは、厳しい目をして言いました。
「お前、死ぬつもりか」
「……愛梨とちひろのことを、よろしく頼む」
「隼人、待て!」
カラン、カラン
ドアがゆっくり閉まりました。
「バカ野郎! 何でもかんでも、ひとりで抱え込みやがって」
静寂だけが残った店内で、テツさんは机を拳で強く叩きました。
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