4-10

 先生は正門の前まで見送ってくれました。


「私はこれから会議がある。星崎、ひとりで帰れるか」

「はい、大丈夫です。先生、これを」


 ちひろは左手のヒーローバングルをパチンと外して、先生に渡しました。


 先生は何も言わずに受け取りました。

 これでもう、ちひろはヒーローではなくなったのです。


「お世話になりました」

 それだけ言うと、ちひろは歩き出しました。


 先生が何か言ったような気がしましたが、ちひろは振り返りませんでした。




 学園から続くゆるい下り坂も、夕闇の中でひっそりと静まり返っています。


 カズマと並んで歩いた通学路には、今は誰の人影もありません。

 ちひろは、重い体と痛む心をひきずるように歩いていきました。


 大通りから側道に入ると、伸び放題に伸びたススキの葉が、かすかな音を立てて揺れていました。

 深い藍色が注がれた空には、淡い金色の爪月が浮かんでいます。


 テツさんの店のとんがり屋根が、暗がりの中にぼんやり見えています。

 ちひろの胸がまた、ずきりと痛みました。


 当たり前のように、あの店でカズマやテツさんと笑っていた自分。

 もう、そんな日々はやってこないのです。


 ちひろはポケットの中のコインを、ぎゅっと握りしめました。


(どうして、こんなことになっちゃったんだろう)


 楽しかった思い出を振り切るように、ちひろはまた歩き出しました。




 細くなった道が、緩やかなカーブを描いて下っていきます。


 もうすぐ家に着くのです。

 ですが、ちひろはそこで足を止めました。


 五メートルほど先に、男が立っています。


 あの男です。

 若い日の父にそっくりな男――カズマと戦い、姿を消したあの男です。


 ちひろの皮膚に、ざわざわと粟立つ感覚が広がっていきます。


「【青い月】はどこだ」

 秋風のような声で、男はそう言いました。


「……知るもんか」

「お前が持ち出したのか」

「だったらどうだっていうんだ!」


 ちひろは、足元に転がっていた木の枝を拾い上げました。


 変身していた時でさえ、ふたりがかりで全く歯が立たなかった相手です。

 今のちひろが敵うはずがありません。


 それでも、もう自分を止めることができませんでした。


「来いよ、かかって来い!」


 ちひろは枝を振り上げました。

 あとは間合いに飛び込んでいって、思いきり振り下ろすだけです。

 それがたとえ、返り討ちにあうだけだったとしても。


 でも。

 ちひろは動けませんでした。


 目の前の男はカズマの仇なのに。

 カズマのお父さんをあんなにも悲しませたのはこの男なのに。

 何より、自分はこの男が憎くてたまらないはずなのに。


 母があんなにも愛している父。

 カズマがずっと憧れてきた父。

 ちひろ自身もずっと会いたかった父。


 この男は父ではないと、何度も自分に言い聞かせました。

 それでも心が納得しないのです。

 それほどまでに、男は父に似ているのです。


 この男を本気で憎むことが、ちひろにはどうしてもできなかったのです。


 男はゆっくりと、ちひろに近づいてきます。

 ちひろは、ぎゅっと目を閉じました。


 足音が通り過ぎていきます。

 ハッとして振り向くと、男の後姿が遠ざかっていきます。


「……どうして、俺を殺さないんだよ」


 胸が激しく痛みました。

 まるで、見えない血が吹き出しているかのようです。

 立っていられなくなって、ちひろは胸を押さえたまま、その場に崩れ落ちました。


 カチンと硬い音がしました。

 首から下げている銀色のリングが、地面にぶつかったのです。


 母がちひろに預けた、父の結婚指輪。


 ちひろはそれを乱暴につかむと、力任せに紐からむしり取りました。

 紐が切れ、首の後ろに強い痛みが走りましたが、そんなことはもう、どうだっていいのです。


「どうして、カズマを殺したんだよ!」


 ちひろは、男の方へ向かって指輪を投げつけました。

 指輪は地面で跳ね、男の足元へと転がっていきます。


 カズマのお父さんの震えた声が、まだちひろの耳に残っています。


(君が無事で、本当によかった)


 必死で押さえつけていた感情が、一気に暴れ出します。

 ちひろは狂ったように大声で吠え、叫びました。


「俺を殺せばよかったのに!」


 涙は絶え間なく噴き出してきます。

 地面を激しく拳で殴りつけ、爪がはがれるほど強く引っ掻いて、それでも心は、まだ鎮まることはありません。


 いつの間にか、男の姿は消えていました。

 ちひろは道に倒れ込んだまま、いつまでも大声で泣き叫び続けました。

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