2-2

 左足を軸に、右足のかかとをジリジリと前へ。

 ちひろは目の前の相手を見据えたまま、間合いをはかります。


 相手の動きがぴたりと止まり、ふたりの間は二メートルほど。


 ちひろも動きを止めました。

 唇からこぼれる息は、一瞬だけ白く煙ってすぐに消えていきます。


 相手の目が、ほんの少しだけ細められた、その瞬間。


 目の前から人影が消えていました。


 直後に背後から、強烈なキックが飛んできます。

 けれどそれは想定していたこと。


 ちひろは左腕で相手の足を払うと一歩踏み出し、同時に右の手のひらを突き出しました。


(もらった!)


 けれど次の瞬間。

 相手は電光石火のスピードで、ちひろの左側に移動していました。


 振り上げられた相手のこぶしは、ちひろの目の前でぴたりと止まりました。




「はい、俺の勝ち。ちひろ、朝メシよろしくな!」


 ちひろはふうーっと息を吐き出すと、その場にばたりと倒れ込みました。


「やっぱりカズマは強いな」

「へへっ、まあな」


 カズマは照れたように笑うと、ちひろに手を差し伸べます。

 ちひろはその手を取ると、よいしょと起き上がりました。


 朝の太陽が海の向こうから顔を見せました。光の束が波の上を走り、ふたりに届きます。

 潮風が、トレーニングを終えた新人ヒーローたちの髪をくすぐっては通り過ぎていきます。


 昇りたての朝日を受けて、ちひろの胸元で銀色の光が瞬きました。


「あれ? ちひろ、ペンダントなんてしてたっけ」

「これ、父さんの結婚指輪なんだ。母さんが持って行けって」


 父は指輪をしておらず、家に置きっぱなしだったそうです。

 それを、旅立つ直前に、母に無理やり持たされたのでした。母からすれば、お守りのつもりだったのでしょう。

 ただ、ちひろの指にはサイズが少し大きかったので、紐を通して首からかけているのです。


「へえ」

 なくすなよ、とカズマが笑いました。




 ちひろとカズマがこの海辺の町へ来てから、そろそろひと月が過ぎようとしています。


 その間、特に何事も起っていません。

 町はいたって平和で、窃盗や放火などといった犯罪も起こっていません。

 ましてや助けを呼ぶ声など、聞こえてきたことはありませんでした。


 それはつまり、ふたりがヒーローとして活躍する機会がないということです。


 毎朝トレーニングをし、昼間は体力増強と社会勉強のためにアルバイトをこなす。

 夕方にまたトレーニングを行って、夜は町のパトロールに出かける。

 これがふたりの日課でした。


 自分たちは、本当にこの町に必要なのでしょうか。

 活躍の場もなく、ただトレーニングを重ねるだけ。

 このまま二年間が過ぎてしまったら、その先もヒーローを続けていこうと思えるでしょうか。


 もちろん、平和であることに越したことはありません。

 それはちひろだって分かっています。分かってはいるのです。


 けれど、平和を守るヒーローは、平和の中では必要ない。そんな現実を目の当たりにして、ちひろは少しだけ疲れていました。


(ヒーローが混乱した世の中を望むなんて、まちがってるよね)


 ちひろが小さなため息をこぼした時、カズマが急に立ち上がりました。


 自分の弱気を見透かされたようで、ちひろはぎくりとしましたが、カズマはそのまま波打ち際まで走ると、ありったけの大声で叫んだのです。


「あー! どっかに悪の組織、いねえかー! なんちゃって」


 カズマはカラカラと笑っています。

 ちひろは少しあっけにとられた後、苦笑いを浮かべてカズマに歩み寄りました。


「いつもそれだね、カズマは」

「へへ。あ、今のは烏丸に報告するなよ」

「分かってる」


 寄せては返す波の音が、海岸通りに満ちています。

 太陽はさっきより高く登り、空をカモメたちが渡っていきます。


 沖のほうから真新しい風が吹いてきます。

 ちひろは深く息を吸い込みました。


「悪の組織、いないかー! いたら返事しろー!」

「そうだー! 返事しろー、この野郎ー!」


 ふたりは大声で叫び、それから笑い転げました。


 その時です。

 波音の隙間を縫って、遠くで悲鳴が聞こえたのは。

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