468 猫の神様 あのね、猫、貰ってくれない?
猫の神様
どこに行ったの? ほら、怖くないから、出ておいで。
坂下日和と間宮林太郎くん
あのね、猫、貰ってくれない?
「林太郎くん、猫、好き?」
にっこりと笑って、中学一年生の坂下日和は、同じ一年二組の教室に通う(自分の幼馴染でもある)間宮林太郎の座っている机の前で、そう言った。
「別に好きじゃない。普通だよ」
本を読んでいた林太郎はめがねの奥からにやにやしている日和を見て、そう言った。
そんな日和の顔を見て、林太郎はすごく嫌な予感がした。(こういった顔は、日和がなにかめんどくさいことを考えているときにする表情だったからだ)
「『まるとさんかくとしかく』って言う名前の三匹の三つ子の兄弟の子猫なんだ」とにやっと笑って日和は言う。
「まるとさんかくとしかく」と林太郎は言う。(三匹の三つ子の兄弟の子猫の顔を思い浮かべるようにして)
「うん。三匹ともオスの子猫。とっても可愛いんだ。本当だよ」とにっこりと笑って日和は言う。
「うち、猫、これ以上飼えないんだ。いや、一匹だったらよかったんだけど、三つ子だったの。だから、猫もらってほしいの。一匹でもいいから」
「一匹でもいいから?」
「そう。お願い! 林太郎くん! 猫、貰ってくれない?」両手を合わせて、神様にお願いをするようにして、日和は林太郎にそう言った。
すると林太郎は少し考えてから、「その三匹の猫って、三つ子の兄弟なんだよね?」と日和に言った。
「うん。そうだよ。三つ子の兄弟猫。ついこの間、生まれたばかりなの。すっごく可愛いよ」と日和は言う。
「ほかの人は、あんまり貰ってくれそうもないの?」
「うーん。一応、何人か貰ってくれそうな人もいるんだけど、……もし、できたら、林太郎くんに貰ってほしい。それも、……可能なら、三匹一緒に」と日和は言う。だんだん要求が無茶になってくる。(あるいは、本音が漏れてくる)それは日和にはよくあることだった。
「どうして?」日和を見て林太郎は言う。
「林太郎くん。動物に優しいから。それに、猫のこと、詳しいでしょ? あと、家がすごく近いし」日和は言う。
なるほど、と林太郎は思う。どうやら日和は三匹の三つ子の兄弟猫の面倒を、(あるいはその愛らしい姿や表情を)これからも自分でもみたいと思っているようだった。
「一匹だけじゃなくて、三匹一緒に?」
「じゃないと、かわいそうでしょ? 兄弟なんだし。三つ子だし」日和は言う。
林太郎は悩んだ。(それはいつものことだった)
でも結局、最後には日和に三匹の子猫の写真を見せられて、最終的にまるとさんかくとしかくという名前の三匹の子猫を貰うことにした。(林太郎が家に連絡してみると、お母さんは「いいよ。別に。ねこ好きだし」と言ってあっさりと三つ子の猫をもらうことを了承してくれた)
そのことを日和に伝えると、「本当! どうもありがとう!! 林太郎くん。今度、絶対、なにかお礼するね!」と日和は満面の笑みで林太郎に言った。
顔を赤くした林太郎は、「……別にお礼なんていいよ。猫をもらうのはこっちなんだし」と日和に言った。
そんなやりとりが二人の間であったのは、今週の土曜日のことだった。
林太郎の家に三匹の子猫を入れたダンボール箱を持って、坂下日和がやってきたのは、そんなことがあった次の日である、日曜日の午前中の朝の早い時間のことだった。
ピンポーン、と言うチャイムの音を聞いて、林太郎が寝起きの姿のパジャマ姿のままで玄関先に出ると、そこには元気いっぱいの表情をした、三匹の子猫がいる、みかんの絵が描かれているダンボールを両手で持った私服姿(デニムのオーバーオールだった)の坂下日和が立っていた。
「お邪魔します」
そう言って日和は襖の空いた空間を通って、林太郎の部屋の中に入った。
林太郎の部屋にはたくさんの絵が飾ってあった。
それらの絵を描いたのは林太郎のおじいちゃんで、そのたくさんの絵の中にはまだそれらの絵には及ばない、未熟な(と言っても日和から見れば、その絵もすごくうまくて魅力的な絵だったのだけど)絵がいくつかあった。
その絵を描いたのは林太郎だった。
林太郎のおじいちゃんはそれなりに有名な画家で、(全国的には名前を知られていないけれど、地方ではそれなりに有名な人だった)林太郎の夢はそんなおじいちゃんのようにいつか画家になることだった。
久しぶりの林太郎の部屋の中に入って、いつもと変わらない空気と雰囲気を味わいながら、日和はきょろきょろと林太郎の部屋の中を観察した。(子猫たちも同じように見慣れない景色に目を奪われていた)
林太郎の部屋の中には日和の大好きな一枚の絵があった。
その絵の題名は『猫の神様』という名前だった。
描いた人はもちろん、林太郎のおじいちゃんだった。
その絵は一匹の年老いた猫を描いた絵だった。
年老いた猫は古い家の縁側にいて(その家は林太郎の住んでいる家だった。その絵に描かれている縁側ももちろん今もちゃんと家の一階にあった)目を瞑り床の上に、うずくまって小さくまるまっていた。
ただそれだけの絵だった。
でも、日和はその絵が子供のころからなぜかずっと大好きだった。
猫の神様の中に描かれている年老いた猫を実際に日和は見たことがなかった。(それは林太郎も同じだった)
年老いた猫は林太郎のおじいちゃんがずっと可愛がっていた猫で、林太郎が生まれてから、すぐに亡くなってしまったそうだった。(林太郎のおじいちゃんはそのことを、とても悲しんでいたようだった)
「どうぞ」
と言って林太郎は日和におまんじゅうとお茶を出してくれた。
「どうもありがとうございます」
そう言って、丁寧に頭を下げてから、日和は遠慮せずに、林太郎の出してくれた小さな餡のたっぷりと入った甘くて美味しいおまんじゅうを一口でぱくっと食べた。
林太郎は自分の椅子に座ると、そこから段ボール箱の中にいる三匹の小さな子猫たちを見つめた。
その目はいつもの穏やかな林太郎の目とは少し違った。
絵を描くときの、対象となるものや風景を見るときの、研ぎ澄まされた、少し攻撃的な雰囲気のある(林太郎らしくない)目だった。
「林太郎くん。この子達の絵を描いたりもするの?」
と日和は言った。
「ううん。描かない。僕が描くのはおじいちゃんと同じ風景画だから」と優しい目をした林太郎は言った。
林太郎のおじいちゃんが描いていた絵はどれも風景画ばかりだった。
人物の絵は一枚もなくて、動物を描いた絵も、猫の神様をのぞけば、一枚もなかった。
林太郎のおじいちゃんが描いた唯一の生き物の絵。
それが猫の神様だった。
この絵はいろんな意味で、林太郎のおじちゃんにとって、特別な絵だったようだ。
実際に猫の神様はほかのたくさんの絵とは別にきちんと傷まないように工夫がされて、保存されていた。
「林太郎くんはおじいちゃんに憧れて画家を目指しているだよね」と日和は言った。
「うん。そうだよ」と林太郎はいう。
最初は興味津々と言った感じで、林太郎の部屋を眺めていた三匹の兄弟の子猫たちはいつの間にか段ボール箱の中で眠ってしまっていた。
日和はそんな子猫たちを一度見てから、林太郎を見て、「林太郎のおじいちゃんは猫の神様っていう題名の絵を描いているでしょ? なら林太郎くんも一枚くらいは猫の絵を描いてみてもいいんじゃないかな?」と聞いてみた。
すると林太郎はうーんと言って、少しだけ考えて、それからなにかを言おうとしてから、やっぱりまた口を開かずに黙り込んでしまった。
開いた古い木の窓からは、とても気持ちのいい風が吹き込んでいる。
その風が、林太郎の部屋にある白いカーテンを小さく揺らしていた。
あ、こら、待て。逃げるな。
「来週の今度の日曜日はさ、久しぶりにお出かけしようか?」と日和が誘って、日和と林太郎は近所にある小さな地方の遊園地に二人だけで遊びに行くことにした。
天気は晴れ。
真っ青の晴天。風は少しだけ吹いている。
「お待たせ」
と言って、遊園地の前で待っていた林太郎の前に日和はやってきた。
日和は水色のスカートを履いていた。日和の私服姿でスカートを履いている姿を見るのは、林太郎はすごく久しぶりのことだった。
林太郎はそのことを素直に日和に言った。
すると日和は「林太郎くんの私服姿は相変わらずだね」と言って、いつもと変わらない冴えない普通の格好をしている林太郎のことを笑顔で見ていた。
遊園地はすごく空いていた。
でもそれはこの遊園地ではいつものことで、日和も林太郎もやってくる前からそのことはわかっていた。
日和と林太郎は一通り、いつも通りのデートコースを通って(子供のころからあまり変わらない道のりだった)いつもの売店でソフトクリームを買って食べて、それから近くにあるカラフルなステンドグラスみたいな模様の屋根のある白いテーブルの上でお昼ご飯を食べた。
二人が食べたお昼ご飯は日和の手作りのお弁当だった。(相変わらず、すごく美味しいお弁当だと林太郎は思った)
「はい。あーん」
と言って日和は箸で摘んだ甘い卵焼きを林太郎の口の(本当にすぐ)前まで持ってきた。
仕方なく林太郎はその卵焼きを「いただきます」と言って、ぱくっと食べた。(すると日和はすごく幸せそうな顔をした)
日和は背負ってきた今は自分の座っている白い椅子の隣にある空いている椅子の上に置いている水色のリュックの中から銀色の水筒を取り出した。
その水筒にくっついているカップを二つ取り出して、そこに日和は飲み物を注いだ。
飲み物は冷たいお茶のようだった。
「どうぞ。粗茶ですが」と言って日和は林太郎のカップを渡した。
「どうも、ご親切にありがとうございます」
と言って林太郎はそのカップを受け取った。
林太郎がそのお茶を飲んでいるときに、少し強い風が遊園地の中を吹き抜けた。
その風の吹いてくる方向を日和は見る。
そこにはなにもない。
それから日和は青色の透き通っている美しい空を見た。
その空の中には赤い風船があった。
きっと遊園地に遊びにきていた家族連れの子供たちの中の誰かが、風の中で手放してしまった風船だろうと日和は思った。
「猫の絵なんだけどさ、描いてみようと思うんだ」
と林太郎は言った。
「絵って、あの子たちの絵?」
と林太郎を見て日和は言った。
「うん。まるとさんかくとしかくの絵。描いてみようと思った」と小さく笑って林太郎は言った。
「そう思った理由は?」日和はいう。
林太郎は少し考えてから、「実は最初からまるとさんかくとしかくと出会ってから、ずっとあの子たちのことを絵にしてみたいって、そう思っていたんだ。自分でも不思議なくらいに強い気持ちでそう思った。寝起きだったけど、意識も一瞬で覚醒したし、こんな気持ちになったのは初めてのことだった」
と珍しく饒舌な口調で林太郎は言った。
「ふんふん。それで?」
と身を乗り出して日和は聞く。
「でも猫の絵っていうのは、僕にとってすごく特別なものなんだ。日和はもちろん知っていると思うけど、おじいちゃんが唯一残した風景画以外の絵が猫の絵なんだ」
「猫の神様だよね」日和はいう。(林太郎はうなずく)
「そう。猫の神様。だからどうしても、猫の絵っていうのは僕にとって特別で、まだ未熟で自分の絵のスタイルも、目指す場所も、技量も、数も、失敗も、なにもかもが足りていない今の僕が描いてはいけないような気がしていたんだ。でも、それでもまるとさんかくとしかくと毎日を過ごすようになって、この子達のことを描きたいって、そう思い続けてしまうようになったんだ」
と林太郎は言った。
「そう思うなら、描けばいいじゃん」と当たり前のように日和は言った。
「うん。お母さんもそうすればいいんじゃないって、そう言ってた」と日和を見て、にっこりと笑って(すごく吹っ切れたような表情をして)林太郎はそういった。
その林太郎の笑顔を見て、日和はその顔をほんのりと赤く染めた。
二人のいる遊園地には観覧車があった。
それも遠くからでもその姿を確認できるくらいに大きくて立派な観覧車だった。(その観覧車はもちろん、この遊園地の一番人気のアトラクションだった)
観覧車に乗っている間、珍しく二人は無言のままだった。
後日、林太郎はその言葉通りに三匹の子猫の絵を描いた。
みかんの絵の描かれた段ボール箱の中にいる三匹の眠っている子猫の絵。
その絵はとても素敵な絵だった。(少なくとも日和にはそう思えた)
素朴で、素直で、優しい感じのする林太郎みたいな雰囲気を感じる絵だった。(その絵の題名は『まるとさんかくとしかく』という子猫たちの名前をそのまま題名にした名前だった)
その絵を林太郎は日和に十四歳の誕生日の贈り物として、プレゼントしてくれた。
日和はそんな大切な絵はもらえないと言ったのだけど、林太郎は日和にもらって欲しいと言って、日和にその絵を手渡した。
その日以来、日和のこの世界で一番好きな絵は猫の神様からまるとさんかくとしかくに変わった。
「林太郎くんは、猫の神様って題名の由来、知ってる?」と日和は言った。
縁側に座っていた林太郎は、三匹のとても可愛らしい(生意気そうな)子猫の兄弟の頭を撫でなら、「いや、知らない」と日和に言った。
「でも、あの絵は実際にあった風景を見て、描いた絵じゃなくて、猫が死んでしまってからおじいちゃんが生前の死ぬ直前の猫の姿を思い出して描いた絵なんだってことは知っている」
と林太郎は言った。
「そうなんだ」と日和は言った。
まるとさんかくとしかくという題名の絵を描いてから、なんだか林太郎が急に大人になってしまったような気が日和はしていた。
なんとなくだけど、子供のままの自分をこの場所に置き去りにして、林太郎一人だけが先に大人になってしまったような気がしたのだ。
そのことをお日様の照らす明るい光の中で、ひなたぼっこをして居る日和は少しだけ寂しく思った。
「どうかしたの? 日和」
自分の顔をじっと見ている(猫みたいな)日和を見て林太郎は言った。
そんな林太郎に日和は突然、自分の体と顔を林太郎に近づけて、人生で初めてのキスをした。
どこに行くの? そっちは危ないよ。
猫の神様 終わり
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