533 教室のはじっこ その場所にはこの世界のすべてがあった。
教室のはじっこ
その場所にはこの世界のすべてがあった。
私が先生と出会ったのは小学校五年生のときだった。
先生は私の隣の家に住んでいる。
でも、隣と言っても、私の家と先生の家は随分と距離が離れている。
森の中にある小さな家。
私は森の中にある小さな土色の道を歩いて、いつも先生の家までお邪魔をしていた。
「おはようございます、先生」
とんとんと木の扉を叩きながら私は言った。
「はい。おはようございます」
ふふっと笑いながら、木の扉を開けて顔を出した先生が私を見てそう言った。
先生はいつものように丸い眼鏡をかけて、にっこりと輝く太陽のように明るい顔で笑っていた。
先生はずっと笑顔だった。
いつも笑っていた。
先生が悲しい顔をしたり、怒った顔をしたりするところを私は今まで一度も見たことがなかった。(私のせいで、先生が困った顔をしたり、悩んだ顔をしたりすることはよくあったけど……、それでもそのあとに先生はいつも笑っていた)
先生の住んでいる小さな家の中はいつもとてもいい匂いがした。
家の中のものは少なくて、清潔で、明るくて、空いている窓からはとても気持ちのいい森の風が吹き込んでいた。
時刻は朝の九時。
キッチンではお湯の沸いている音がする。
先生がいつものようにコーヒーを淹れる準備をしているようだった。
私はいつものように切り株のような形をしたテーブルのところに座って、手に持っていた荷物を床の上に置いた。
先生はキッチンで朝ごはんとコーヒーの用意をしていた。
「では、いつものように朝ごはんにしましょう。今日はサンドイッチとサラダと卵焼きです」
とふふっと笑いながら、兎のえが描かれているエプロン姿の先生は言った。
「ありがとうございます。先生」
そう言ってから私は静かにその場所に座って、先生の動きをじっと見つめていた。
先生はてきぱきと動いて朝ごはんの用意をしてくれている。
白いカーテンが揺れている窓の近くにある箪笥の上には小さな植木鉢が置いてある。
その小さな植木鉢には小さな花が植えられていた。
とても綺麗な赤色をした花。
でも、その綺麗な花の名前は私にはわからなかった。
私は赤色から自分の履いていた赤色の靴を連想した。
森の中は昨日降った雨のせいで、少しだけ濡れていた。
そのせいで森の土は少しだけぬかるんでいて、さっき先生の家まで歩いてくる途中で赤い靴は少しだけ土の色で汚れてしまった。
(そんなことを私は思い出していた)
「はい。用意ができました。では早速いただきますをしましょう」
とぼんやりとしている私の前の席に座って先生は言った。
見るといつの間にか先生の言った通り、切り株の形をしたテーブルの上には朝ごはんの用意がしっかりと出来上がっていた。
「はい。わかりました先生」と私は言った。
それから私と先生は一緒に「いただきます」を言ってから、朝ごはんを食べ始めた。
朝ごはんはいつのようにすごくおいしかった。
「お勉強はできても、できなくても、どっちでもいいんですよ」
とにっこりと笑って先生は言った。
「自分の好きなものを見つけることが目的なんです」
「好きなもの?」
「そうです。将来の夢、と言っても良いです」
お勉強の途中で休憩をして居るときに、先生は言った。
「それを見つけてくれたら、先生はすごく嬉しいです」
と本当に嬉しそうな顔をしてにっこりと笑って、(きょとんとした顔をしている私に向かって)先生は言った。
私は先生のその言葉を聞いて、私の好きなものっていったいなんだろう? と考えてみた。(でも、答えはよくわからなかった)
私はその答えが知りたくなった。
だからそれ以来、私は自分の好きなものを探すようになった。(でもそれは残念なことになかなか見つけることはできなかたのだけど……)
私はお勉強をするために先生の家に毎日毎日お邪魔をしていたのだけど、先生はあんまりきちんとしたお勉強はしなかった。
全然しないわけじゃなかったけど、よく休憩をしたし、一年の間にこれくらいまでのお勉強をします、と言ったような目安のようなものもなかった。
お勉強する科目も、日によってまちまちだった。(先生がその日の気分で決めて居るみたいだった)
それでも午前中の時間は椅子に座って、切り株のテーブルの上に教科書とノートと筆箱を出してお勉強をした。
でも、お昼ごはんを食べてから、午後の時間になるとだいたいいつも、先生は私を家の外に連れ出して、二人で一緒に森の中でよく遊んだりした。(それはとても、本当にとても楽しい時間だった)
私と先生は森の中で散歩をしたり、近くにある川で川遊びをしたり、ときには絵の具と白いスケッチブックを用意して森の中にいる動物たちの絵を描いたりした。
あと雨の日には家の中で二人で一緒にピアノを弾いたりもした。(先生の家には小さなピアノがあった)
私はピアノが全然弾けなかったのだけど、先生が教えてくれたので、簡単な曲なら、一応、一人で弾けるようになった。(嬉しかった)
それから料理をしたりもした。
掃除もしたし、植木鉢に咲いている赤い花に水をやったりもした。
「お料理も掃除もお花に水をあげることも立派なお勉強なんですよ」
とふふっと笑って先生は言った。
私はそんな風にして先生と過ごす時間が大好きだった。
そんな大好きな時間の中で 私が一番大好きだった時間は先生といろんなお話をする時間だった。
先生は私に本当にたくさんのいろんな魅力的なお話をしてくれた。
それらのお話はどれも私の知らないことばかりで、本当にわくわくするような魅力に溢れていた。(世界には私の知らないことがとてもたくさんあるのだと私は知った)
そうやって私は先生と一年間、この森の中で一緒にお勉強をした。
森では春には気持ちのいい風が吹いて、たくさんの花が咲いて、夏には真夏の太陽に照らされた木々がとても綺麗で、夜には星が輝いて、秋には木々は色を変えて紅葉をして、虫の鳴き声が聞こえて、冬には川が凍って、それから森にはよく真っ白な雪が降った。
森の四季はどれも魅力的だったけど、私は冬が一番好きだった。
雪が降ると、森は真っ白な色に染まった。
「どうですか? 自分の好きなものは見つかりましたか?」
卒業式の日、(それは二人だけのいつもの最後の授業の日だった)温かいコーヒーを淹れてくれたあとで先生は言った。
「本当は見つけたした、って先生に報告したいんですけど、でも見つけることはできませんでした。ごめんなさい」と私は言った。
「別に謝る必要はありませんよ。時間はたっぷりとあります。焦らず、じっくりと自分の好きなものを見つければいいんです」
と優しい顔をして先生は言った。
その日も、森には雪が降っていた。
その森に降る雪を見て、そのあとで先生は私の顔を見直してから、「卒業本当におめでとう」と私に言った。
その言葉を聞いて私はずっと我慢していた涙を流した。
「……一年間、本当にありがとうございました。先生」
と泣きながらにっこりと笑って、私は先生にそう言った。
私はその場所でとてもたくさんのことを学んだ。(のだと思う)
私は来年から街にある小学校に通うことになる。
みんなと一緒に。
昔のように、あの見覚えのある登下校の道を歩いて、見慣れたおんぼろの校舎の、土色の広い校庭のある小学校に一年間通うことになる。
それから私は小学校を無事に卒業して、中学生になる。(予定になっている)
その日の夜、私の体は小さく震えていた。
それは怖くて?
それとも、今までの(まるで長い、とても長い夏休みのような)とても幸福だった、楽しかった先生との森での生活が終わることが寂しくて?
私は願う。
どうか無事に小学校を卒業できますようにって。
そう星に祈る。
窓の外に見えるとても綺麗で、きらきらと輝いている星たちに願う。
……先生。
私は先生の顔を思い出す。
先生の声を。
先生との思い出を。
いろんなことを思い出す。
先生。
本当にどうもありがとう。
私は、たぶん、きっと、もう本当に大丈夫です。(なんだと思います)
私は目を瞑る。
眠るために。
明日の朝。
みんなのいる小学校に行くために。
すると世界は真っ暗になった。
真っ暗の世界の中で、私の中には先生の優しい声と先生の明るい笑顔と先生との楽しい思い出だけが残っていた。
人は誰かに褒められて伸びるんだよ。成長するんだよ。(きっとね)
教室のはじっこ 終わり
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