539 小さな誇り 愛があるならそれでいいよ。

 小さな誇り


 あるところに泣いてばかりいる女の子がいました。


 愛があるならそれでいいよ。


 きらりがその人に出会ったのは本当に偶然のことだった。

 いつものように、ふらふらとあてもなく街を歩いていたきらりは、その人とすれ違った瞬間、強い運命のようなものを感じた。

 ……似ている。とても。本当によく似ている。

 きらりは足を止めて後ろを振り返ってみた。

 もう消えてしまっているかもしれない。

 今見たあの人は私の見たただの幻想なのかもしれない。(あるいは、今が私の見ている夢の中なのかもしれない)

 そう思ってきらりが振り返ると、その人は街の風景のどこかに滲むようにして、消えてしまったりはしていなくて、ちゃんとした、しっかりとした輪郭と形を持って、あの人に似ている人は、まだ確かにその場所に立っていた。

 その人はじっと大きなビルに設置されている巨大なディスプレイを眺めていた。そのディスプレイには暗いニュースの速報が流れている。

 その人の横顔はあの人に、……いなくなったきらりのお姉ちゃんの横顔に本当にそっくりだった。

 だから、今度こそ、……お姉ちゃんがいなくなてしまう前に、きらりはその人に声をかけなければいけないと思った。

「あ、あの、すみません」

 そう思って、きらりはお姉ちゃんい似ているその人に、……三つ葉にそう声をかけた。

「え? ……あれ、私?」

 自分に声をかけてきたきらりを見て、きょろきょろと周囲の様子を観察しながら三つ葉はいう。

「はい。そうです。突然、すみません。えっと……」

 ときらりは自分が三つ葉に声をかけた理由を話そうとして言葉に詰まってしまった。

 なんて説明したらいいのか。とっさにきらりにはわからなかった。

「あれ、もしかしてナンパ? 君、おとなしい顔してるのに、ナンパとかするんだね」へーと言う感心したような顔をして三つ葉はいった。

「あ、いや、違います。えっと私は……」

 ときらりが事情を説明しようとすると、三つ葉は「わかった。いいよ。その勇気に免じて普段なら絶対についていったりしないんだけど、君の誘いに乗ってあげる。あ、でもちゃんと食事はおごってよね。君のおごり。ね、それくらいはいいよね?」

 ときらりにウインクしてから、きらりの手をとって街の中を歩き始めた。

 その行動や言動が、あまりにもお姉ちゃんとそっくりだったから、きらりはなんだか思わず、その場所で少しだけ、泣き出しそうな気持ちになった。


 きらりのお姉ちゃんが亡くなったのは、今から二年くらい前のことで、きらりが十歳のときのことだった。

 お姉ちゃんが死んでしまってから、きらりは小学校に行くことができなくなって、家の中から外に出ることができなくなって、自分の部屋からも、あんまり外に出ることができなくなった。

 今のように街の中を歩くことができるようになったのも、本当につい最近になってのことだった。

 それからきらりはよく散歩をするようになった。

 気分転換にもなるし、いいことだよね、とお母さんは言ってくれた。

 できるだけ、遠くにはいかないように、気をつけてね、とお父さんはきらりに言った。

「はい。わかりました」

 そう言って、きらりは家を出て、いつものように街の中を散歩した。

 そして三つ葉と出会った。


「未来はどこあると思う? 私は未来はきっと(自分の胸を指さして)ここにあると思う」と三つ葉は言った。

「ここに」

 きらりは自分の胸を見ながらそう言った。

「そう。きっとそこにあるんだよ。君の未来がさ」

 ふふっと笑って三つ葉はいう。

「ここに、ある」

 きらりはそっと自分の胸の上に自分の小さな両方の手のひらを当てる。(その小さな手は両方ともかすかに震えていた)


 窓の外ではいつの間にか雨が降り始めていた。

 その雨はだんだんと勢いを増していき、今では窓の外の風景をよく見ることができなくなった。

 きらりはテーブルの上にあるオレンジジュースの入ったコップを見つめる。

 からん、と氷の音がした。

 見ると、三つ葉がゆっくりと自分の注文したアイスコーヒーの入ったコップの中を長いストローを使って、ゆっくりとかき混ぜていた。

「君は強い子だよ。きらりちゃん」と亡くなったお姉ちゃんの話を三つ葉にしたとき、きらりのことをぎゅっと抱きしめて三つ葉はいった。

 その瞬間。まるで呪いもで溶けたかのようにして、きらりの止まっていた時間は動き始めた。

 本当にお姉ちゃんがまだ生きていて、お姉ちゃんからそう言ってもらえたような気がした。

「私って、そんなにきらりちゃんのお姉ちゃんに雰囲気が似ているの?」

 ときらりの亡くなったお姉ちゃんに三つ葉さんがとてもよく似ている、という話をしたときに三つ葉は言った。

「はい。本当によく似ています」

 と少し照れながら、きらりは言った。


「でもさ、きらりちゃん。どんなに似ていたとしても私はきらりちゃんのお姉ちゃんじゃないよ」

 と三つ葉は言った。

 きらりは無言。

「きっと誰もきらりちゃんのお姉ちゃんの代わりにはなれない。きらりちゃんのお姉ちゃんは世界にただ一人だけしかいない。それは生きていたとしても、死んでしまったとしても変わらないんじゃないかな」

 三つ葉はそう言ってからアイスコーヒーを一口飲んだ。

「私、お姉ちゃんのこと、大好きだったんです」

 ときらりは言った。

「わかるよ。きらりちゃんは嘘を言っていない。きらりちゃんは本当にお姉ちゃんのことが大好きだったんだって、私にはわかる」

 と三つ葉は言った。

「お姉ちゃんとは少しだけ年が離れていて、私はいつもお姉ちゃんにいじめられていて、よく喧嘩をして、泣かされてばかりいました。私はいつもお姉ちゃんのことなんか大嫌い。死んじゃえ。とかよく言ってました。お父さんとお母さんはきっと私たち二人の姉妹が仲の悪い姉妹だって、思っていたんだと思います」

 きらりはいう。


「でも、本当は違った。二人はとても仲のいい姉妹だった」

 と三つ葉は言った。

「はい。その通りです。私はお姉ちゃんのことが大好きでした。生まれたときから、ずっと、ずっと、お姉ちゃんのことが大好きでした」

 ときらりは言った。

 ざー、という雨の降る音が聞こえる。

「……お姉ちゃんが死んでしまった日のことを私は今もよく覚えています。あの日から、私の中でなにかが変わってしまいました。きっともう、私はあの日の前の私には戻れないんだなって、そう思いました」

 きらりはいう。

「私にはね、二つ下の妹がいたんだ。名前は二葉。でもね、私が小学校六年生のときに二葉は事故で死んでしまったの。ちょうど、今のきらりちゃんと私は同い年だった」

「え?」

 その三つ葉の話を聞いて、きらりは本当に驚いた顔をした。

「きらりちゃんはちょっとだけ二葉に似ているところがあった。だから私はきらりちゃんとお話がしないなって、さっき声をかけてもらったときにそう思ったんだ。顔には出さなかったけど、内心、すごく驚いていたんだよ。最初はね、二葉に声をかけられたんだと思ったの。きらりちゃんのことを見たときに、一瞬、二葉に見えた。それくらい驚いたんだ。本当にね」と三つ葉は言った。


 きらりは真剣に三つ葉の話を聞いている。

「私はきらりちゃんのこと、大好きだよ。すごく好き。まだ少しの時間しか私たちは共有することができていないけど、こんなに少ししかお話をしていなくても、私はもうきらりちゃんのことが好きになっている。

 できれば友達になりたいと思っているし、連絡先を交換して、これからも、こんな風にどこかに二人でお出かけをして、デートをしてさ、もっと、もっといろんなことを話したいと思っている。とても楽しい思い出をいっぱい作りたいって、そう思ってる。心から、思ってる」

「はい。私もそう思っています。三つ葉さんとお友達になりたいって、これからもこうして、三つ葉さんと一緒にいたいって、思ってます」

 きらりはいう。

「……でもね、それはできない。それはきっと『あまりいいことではない』って、そんな風に思うんだ。私はね」

 木の椅子の背もたれにもたれかかりながら三つ葉は言った。

「それはあまりいいことではない」

 と真剣な顔をしたままできらりは言った。


「だから、……ばいばい。きらりちゃん」

 と優しい顔をして、笑って、三つ葉は言った。

 きらりは少しの間、無言だった。

 言葉を話さずに、ずっとなにかを自分の頭の中でよく考えていた。

 それから時刻は三時になって、喫茶店の中にある時計から鳩が出て、ぽっぽーと鳴いて時間を知られてくれた。

 そのあとで「……はい。ばいばい。三つ葉さん」と小さく笑ってきらりは言った。

 それが二人の本当に人生で最後の出会いと別れの瞬間だった。

 それ以降の人生で、二人はどこかで偶然出会ったりすることはなかった。

「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしてます」

 お会計は三つ葉が払った。

(きらりは自分が奢るつもりだったから、小さながまぐちの財布を取り出したのだけど、それを三つ葉は断った)

 喫茶店の外に出ると、雨は上がっていた。

 別れ際に三つ葉はもう一度、きらりのことをぎゅっと抱きしめてくれた。それから、三つ葉のおでこに優しいキスをしてくれた。

「少しの間だったけど、妹に会えたみたいで嬉しかった。きらりちゃんに会えて本当によかった」

「私もお姉ちゃんにまた会えたみたいで嬉しかったです。三つ葉さんと出会えて、私は本当に幸せでした」

「……ばか。そんなこと言うから、泣いちゃったじゃないか。せっかく絶対に泣かないって、そう決めていたのにさ」

 とにっこりと笑って、泣きながら三つ葉は言った。

 その三つ葉の涙を見て、同じように絶対に泣かないで、笑顔で三つ葉とさよならをしようと思っていたきらりは泣いてしまった。(でも、それでよかったときらりは思った)


 その日、きらりはお姉ちゃんの夢を見た。

 夢の中できらりは泣いていた。

 そんなきらりの手をしっかりと握ってくれているのは、お姉ちゃんだった。

 どうやら夢の中できらりは迷子になっていて、そんなきらりのことをしっかりとお父さんとお母さんのところまで連れて歩いてくれているのが、お姉ちゃんみたいだった。

「お姉ちゃん大好き」

 と泣きながら、きらりは言った。

「私も、きらりのことが大好き」

 とにっこりと笑って、お姉ちゃんはそう言った。


 君はさ。ちゃんと幸せになりなさい。  


 小さな誇り 終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る