第8話 秋和良温泉

 翌日、神山は編集部のパソコンで、社内の電子化された過去の記事を検索していた。秋萩亭柳生の名前を入力して検索を掛けるとかなりの記事のデーターが表示された。年代順に見出しが並んでいる。その中から更に再検索を掛けると幾つかの記事が出て来た。何れも柳生の心中事件に関するものだった。それを全て閲覧してみる。だが既に知っている情報ばかりで目ぼしいものは無かった。

「やっぱりな」

 そんな呟きを同僚の佐伯が聞いて

「どうしたんだ。何か探し物かい」

 そんなことを尋ねて来たので神山は

「いやさ、柳生の心中事件のことを少し調べていたんだ」

「へ〜今更何で?」

 まさか本当の事を言う訳には行かない。

「先日、心中の相手だった子の命日でさ。柳生が何かしんみりしていたから」

 嘘では無かったが、本当のことを全て語っている訳でもなかった。第一これは仕事ではない。自分の興味本位の作業なのだ。

「そうか、これを作ったのは俺だけど、こんなウチの本来扱う情報ではない記事は、通り一辺のことしか入れなかったよ」

 意外な言葉だった。

「じゃあ記事を書いた時はもっと別な事も書いたのか?」

「ああ、載せなかったけど何か他にも書いた記憶はある。大した事じゃ無かったと思う」

 大した事では無かったかも知れないが、今はそれも知りたい。

「記事のファイルは処分したんだろうな」

「いや、余り古いのは分からんが、それぐらいの年代の記事なら書庫に置いてあると思うよ。時間が来れば処分されるけどな」

「書庫か?」

「ああ」

 知りたい情報がもしかしたら書庫にあると判っても、勤務時間を犠牲にして書庫に入って調べる訳には行かない。これは勤務時間以外の時間にするべきことだった。

「薫に連絡して遅くなると言っておこう」

 神山はそう呟いて本来の仕事に戻った。

 その日の夕方、他の編集員が帰るところだった。カメラマン兼編集員の高梨が

「それじゃ僕帰りますが、後のこと宜しくお願い致しますね」

 そう言って編集部のドアに手を掛けながら神山に声を掛けた

「おう、大丈夫だ。心配しなくて良いよ」

「それじゃ」

 高梨はそう言ってドアを締めた。もうこの編集部には神山しか居なかった。

「じゃあ始めるか」

 編集部の奥のドアを開けると色々なものが置かれていたが、更にその奥にドアがあった。そのドアを開ける。途端に淀んだ空気の重さを感じた。色々なデーターが電子化されてから、過去の記事を調べにこの部屋に入るものは殆ど居なくなった。部屋の明かりを点けると幾つもの背の高い棚が並んでいた。そこには当時の記事を挟んだファイルがバインダーに挟まれて並んでいた。背表紙には何年の何月号かが書かれていた。その中から当時のバインダーを幾つか取り出して自分の机に戻った。

 慎重に記事を捲って行く。その記事のかなりは自分が書いたものだった。残りは佐伯と高梨が書いていた。記事には基本的に署名が入っていたから、何か自分が知り得ない情報があったら本人に尋ねることも出来る。だが今回のことでは、それは期待出来なさそうだった。神山でさえ基本的なこと以外覚えていなかった。

 柳生の心中事件の記事は直ぐに見つかった。殆どは電子化されたものと同じだった。

「無駄だったか」

 ひとつ違っていたというか電子化に際して抜けた事があった。それは現場のお天気だった。

 柳生が心中事件に巻き込まれたのは北関東の秋和良温泉でそこの秋和良渓谷でのことだった。発見が早かったので柳生は助かったのだ。美津子の右手には大ぶりのナイフが握られていてそれが胸に刺さったままだった。状況から心中事件と断定された。

 当時、若手噺家で人気抜群だった噺家の心中事件ということでマスコミを賑わせた。連日ワイドショー等でも取り上げられた。

「その日の天気は雨だったのか……。それは抜けていたな」

 それ以外は電子版と同じだった。

「11月の15日の秋和良渓谷ってかなり寒いんじゃないか。そこに観光客が行くのか? しかも雨だと記録されている。もしかしたら氷雨かみぞれだったかも知れない」

 そこがどうにも腑に落ちなかった。

「一度行ってみるか。季節的にも丁度良いからな」

 神山はそんなことを呟いていた。


 次の休み。神山は助手席に妻の薫を乗せて関越道を秋和良温泉に向かっていた。

「しかし良く休みが取れたな」

 神山は忙しい薫は一緒に行くのは、正直無理だと考えていた。だが、薫が今度出演するドラマの脚本が出来て来ず、撮影が延期になったのだ。だから自然と時間が出来たのだった。

「思いがけない温泉で、正直私は嬉しい」

 そんなことを言いながら助手席の薫は飴を小袋から出して神山の口に入れた。

「でも、遊びじゃないからな」

「昔の事を調べるんでしょ」

「まあ、そうだが……」

 旅館は美津子と柳生が泊まった旅館を取ってあった。当時の従業員が居れば幸いだと思ったし、居なくても同じ時期なので少しはあの時と似た環境を見られると考えた。

 旅館の駐車場に車を停めてチェックインすると、仲居さんや従業員が色めき立った。女優の薫が現れたからだ。早速色紙を持って来たので。薫はペンを走らせていた。それを横目で眺めながら神山は従業員に

「今の時期は思ったより混んでないんだね」

 そんなことを尋ねると

「今は中途半端なんですよ。紅葉も終わったし、雪景色には早いし、この温泉の売りが何も無い時期ですからね」

「じゃあ今の時期は大体空いてるんだ?」

「そうですよ。おまけにお客さんは覚えて無いかも知れませんが、10年近く前に事件もあったし」

 恐らく柳生と美津子のことだと思った。警察では無いから当時の宿帳を見せて貰う訳にはいかないが、恐らくその日も空いていたのだろう。週末の今と違って当時は平日だ。更にお客は少ないと思った。

「ここだけの話ですけどね。その事件の日は一組しかお客さんが無かったんですよ」

 人の良さそうな中年の仲居さんが小声でそんなことを言った。

 神山としてみれば、それが判っただけでも収穫だった。部屋に案内される。部屋からは秋和良渓谷が見ることが出来た。

「ここの旅館はどの部屋も渓谷が見えるの?」

 薫の質問に仲居は

「そうなんです。それが売りですからね」

 そう言ってお茶を支度してくれている。そっと薫がポチ袋を渡した

「あらまぁ。本当は受け取っては駄目って言われているのですが、すいません」

 そう言って懐にしまった。

「今日は雪や雨の心配は無いね。後で渓谷を散策しよう」

 そう言った神山の言葉に

「事件の時のお客さんもそう言ってました。あの日は雪が降っていたんですよ。だからおかしな人だと思いました。あら余計な事を……それでは」

 仲居さんはそう言って下がって行った。神山はここまで収穫があるとは思わなかった。だから一層疑惑が浮かんで来た。

 第一に今の時期は閑散期で平日はほとんどお客も来ないこと。

 第二に当日は雪が降っていたこと。

 第三に部屋から渓谷が見えるということは旅館から現場も見えるということ。そんな環境で心中を行うのは不自然な気がしたこと

 それらを考えて見る。最初から発見される事を望んでいたような節も感じられる。もしかしたら、旅館から誰か見ていた可能性もあるのではないか。それを判った上で行ったとすれば

「まるで心中に見せかけた自殺みたいだな」

 思わず考えていた事が口から出てしまった。すると薫が自分の考えを口に出した。

「孝之さんの考えている事が大分判ったけど、私もおかしいと思う。心中するなら見つからない所でやると思うんだ。まあ、ここは繁盛期では無いから観光客が少ないけど、だから目立つと思うんだよね。隠れるなら人の中だよね。まるで芝居で心中するみたいだよね。造りすぎというか、出来すぎというか」

 薫も同じ考えだと言う事は自分の思い過ごしではないと神山は自信を持った。

 部屋から見える渓谷は紅葉は終わっていたが、それでも美しかった。

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