第7話 小肌とカワハギ

 新宿末広亭のトリが終わってから数日後、神山は柳生と「まさや」で酒を呑んでいた。

「下席は浅草だっけ?」

 神山は今は柳生が何処に出ているのか確認した。

「そうですね。浅草の夜席です。出番が早いので今日も終わってから来たのです。浅草だとここも近いですからね」

 店主の雅也が言うと柳生はかなり頻繁に店に訪れているらしい。その時

「小肌の酢の物です」

 カウンターに座っている二人の前に黒塗りの平たい小鉢がそれぞれ置かれた。中を見ると下に黄色いものが敷かれており、その上に平たく筒の形をしたものが置かれていた。真ん中が黄色でその周りが緑。更に一番外側が魚によって巻かれていた。

「小肌の内側に胡瓜を小口に切り塩をして揉み、塩気を抜いて絞ったものを置き、その内側に食用菊を酢を入れた湯で茹でて冷したものを置き、巻いたものです。下に敷いてあるのは、卵と砂糖、出汁と酢で作った「黄身酢」です。上にかけても良いのですが、それだと菊の鮮やかさが失われてしまうので、敢えて下に敷きました」

「これは美味そうですね。実は光り物は好きなんですよ」

 柳生がそう言って、早速箸を着ける。

「うん。これは旨い! 小肌の仕事ぶりが素晴らしいですね」

 柳生の言葉を聞いて神山も箸を着ける。

「確かに素晴らしい出来だね」

 神山も箸が止まらない感じだった。

「小肌は三枚に卸して腹骨を削いで、塩をします。水が出たら酢水で洗って、お酢に昆布と少しの砂糖を入れて作った調味液に漬けます。ここまでは普通の〆るやり方と変わりません。塩をしてる時間の違いで〆鯖なんかも同じです。違うのは三時間ほど経ったら、調味液から出して今度は昆布で巻くんです」

「え、更に昆布で巻くの?」

「はい。そうして旨味を小肌に浸透させます。これは一時間ほどですけどね。それから巻きました」

 雅也の説明に神山は

「旨いはずだよ手が掛かってるもの。何でも素晴らしい仕事にはそれなりの手が掛かっているんだよな」

 そう言って柳生の方を見た。無論今の言葉は雅也と柳生に向けた言葉でもあった。

「助(助演)は気楽?」

「まあ、主任よりかはですけど、持ち時間がその日で変わって来るので根多選びが意外と難しいですね」

 柳生はいま出ている浅草の事を話していた。柳生クラスになると必ずと言って良いほど、都内の寄席から声が掛かる。それは人気者としては当たり前の事だった。

「浅草って毎日来てくれる人がいるんですよ」

「毎日? 招待券でも持ってるのかな」

「まあ、そこは判りませんけどね。それと高座の噺家の似顔絵書いてる人も居るし、寄席で一番変わった人がいますよね。面白いです」

 柳生の言葉を聞いて神山は今度「よみうり版」でも寄席ごとの特集を組んでも尾も白いと思った。寄席にはそれぞれ歴史があるから特色もある、それを噺家の証言を元に書いても面白い記事になると考えた。そんな事を考えていたら柳生が雅也に向かって

「この黄身酢というのは和風マヨネーズとも言うものなんですか?」

 そんな事を訊いていた。和風マヨネーズとは面白いと思った。訊かれた雅也は

「そうですね。油を使ってませんからね先程言った材料を鍋に入れて、ゆっくりと火に掛けるんです。杓子でゆっくりとかき混ぜます。そのうち少し温まって来たら片栗粉を水で溶いたものを少しずつ入れるんです」

「このとろ味は片栗粉ですか」

「そうですね。卵だけでは固まりますがトロミは付きませんから」

 それを聴いて神山は見かけは同じ様でも、実質は全く違うのだと思った。そんな事を考えていたら、ある疑惑が神山の心に浮かんだ。

『心中だったがそれは結果論で実際は違っていたのでは無いか』

 勿論、柳生に尋ねる訳には行かない。それに一番先に刺されたのは事実だからその後の事情は判らないだろ。

 それに……判っても言う訳には行かないと思った。

 でも、何処から調べれば良いのか、時間が経ってしまった今では調べようが無いのも事実だった。

 それに……今更調べて事実が判ってもどうするのだと思った。単なる自己満足に過ぎないのではとも思った。でも……他に事実があるなら、知りたいのも事実だった。例え口に出す事が出来なくてもだ。

 酒を飲みながら神山はそんな事を考えていた。すると次の料理が目の前に出された

「カワハギの刺し身です。肝を溶かしたタレで食べて下さい」

「カワハギって鍋に入ってる奴?」

 柳生が驚いて尋ねると雅也は」

「カワハギは三浦の先で採れるんです。鮮度の良いのは刺し身になります。肝を溶かした醤油ダレで食べるとふぐより美味いですよ」

 妻と大葉の上に綺麗に並べられたカワハギの身は半透明で白くキラキラ光っている。黙っていればふぐと間違いそうだった。

「じゃあ早速」

 柳生がそう言って箸で摘んでタレに着けて口に運ぶ

「ん! これは美味しい! 神山さんも食べて御覧なさい」

 神山も言われて口に運ぶ。確かにふぐに負けない美味しさだった。だが神山はここでも考えてしまう。それは黙っていればふぐにそっくりなカワハギはやはり柳生と美律子の事件を思い出してしまうのだった。

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