第9話 秋和良渓谷

 神山は夕食の前に渓谷に降りてみることにした。幸い、旅館から見える位置にあり歩いても訳はない。

 旅館の脇にある階段を下りて行くと程なく渓谷の入り口に到達する。暫く歩いて行くと渓谷の河原の脇に、二本の牛乳瓶が置かれていた。神山はここが心中の現場だと直感した。花が置かれていた跡も確認された。恐らく命日には誰かが花を供えているのだろう。

「ここが現場なら旅館からも見えるわね」

 薫がグルッと周りを見渡して呟く。

「人の来ない時期の観光地を選んだ割りには随分近間でやったという印象だよな」

 閑散期を選択し、平日というわざわざ人の来ない時期を選択しておいて、直ぐに見つかるような場所を選んだのが納得出来なかった。

「あの時、病院では無くここにも来れば良かった」

「それどういうこと?」

 神山の言葉に薫が尋ねる

「事件を聞いてすぐに柳生が収容された病院に行ったんだ。だけどここには来なかった。あの時帰りにでも寄っていれば何か判ったかも知れない」

 だが、それを出来る状況では無かった事も事実だった。

「あの頃って未だスマホとかタブレットとか普及して無かったから情報を伝える手段が限られていたわよね」

 薫の言葉通り、今なら現場から簡単に原稿を送れる。当時も手段が無くはなかったが、今よりも大変だった。事件が起こって緊急で駆けつけた神山にはそんな準備は出来なかったのだ。不意に薫が疑問を口にした

「ねえ、美津子さんは柳生さんのことを、どう思っていたのかしら?」

「はあ? どうって兄弟みたいに思っていたんだろう」

「兄弟なら心中なんかしないと思う」

 その言葉を聞いて神山はハッとした。そうだ、何処の世界に兄弟を道連れに心中する者が居るだろうか。

「普通なら兄弟が困っていたら、精神的にせよ金銭的にせよ援助して支えてあげるんじゃ無いかしら」

 薫の言う事も一理あると思った。同情して行動を共にするのは筋違いな気がした。

「これは私の直感で、何も確信は無いのだけど、柳生さんは、ああいう人だから判らないけど、美津子さんはきっと柳生さんの事を好きだったのじゃ無いかしらと思ってるの」

 薫は渓谷の景色を眺めながら

「好きな人だけど、相手は自分のことを何とも思っていないと判った時って、女は何を考えるか判らないと思う。私だって孝之さんに同じような素振りをされたらショックだったと思う。歳が少し離れていたから」

 神山は薫の告白を聞いて口角を上げながら

「そんな事はないな。俺はスケベだから最初から好い女だと思っていたさ」

「そうなの? それにしては最初に二人で伊豆の温泉に行った時に抱いてくれなかったじゃない」

「あれは仕事として熱海に行ってそのついでだったからな。だから、その後直ぐにモノにしただろう」

 神山は女って昔の事を良く覚えているものだと改めて実感した。

「そうか、石川美津子はかなり前から柳生の事を意識していたのか!」

 神山の言葉に薫が

「帰ったらちゃんと確認しておいた方が良いと思うな」

 そう言って神山の方を、向き直して言った。

「柳生があいつの言葉通り、妹としてしか見ていなかったら」

「その時は可愛さ余ってとか」

「あるかもな。そうなれば心中というのか。殺人未遂じゃないのか?」

 神山はそれを隠す為に柳生は嘘をついてるかも知れないと思った。

「兎に角、来て良かった。色々と整理出来たよ」

「さ、部屋に帰って夕食食べよう!」

 全ては東京に帰ってからだと思った。

 夕食には地元の食材を使った料理が沢山出された。中でも落ち鮎を薫が気に入って神山の分も食べてしまった。落ち鮎は卵を持っていてそれを唐揚げにしたのを随分気に入ったのだった。

 神山は、酒に口をつけながら、先ほど薫が言った言葉を思い出していた。柳生が何故一緒に死んで行くことに納得したのかと言う理由が「同情」だけでは心許ないと思っていた。人間が幾ら親しくしても、同情だけで死を選択するだろうかと思っていたのだ。だから薫の言葉には納得する部分があった。

 では真相は心中で無ければ何なのだろうか? 自分を振り向いてくれない相手に対して殺意を覚えるかどうか?

「何考えているの? それ食べなければ私が食べちゃうよ」

「あ、ああ食べるよ。食べる」

「ねえ、さっき言った言葉ホント?」

「え、何のことだい」

「私と最初に逢った時の印象」

「ああ、そうさ、俺のモロ好みだと思ったよ。だから後で見かけた時に声を掛けたんだ。その話はもう良いだろう」

「うふふ。何回でも聴きたい!」

 薫はそう言って神山に近づいた。夜がゆっくりと過ぎて行った。

 東京に帰って来て通常の勤務に戻る。本当はすぐにでも柳生に尋ねたいところだが、生憎と柳生は寄席の出番が終わったので、地方公演に出かけていた。北海道から下って青森、岩手、秋田と回る興行だった。何れの会場でも前売り券は完売状態だと言う。

「暫くは無理か」

 神山はその間に柳生に尋ねる質問を整理しようと思った。

 第一に、柳生の美津子に対する気持ち

 第二に、美津子の柳生に対する気持ち

 第三に、当日二人の間でどのような会話がなされたのか。 

 そして、一番大事なのが、美津子に殺意があったのかどうか、だった。

 それを確認しても美津子が亡くなってしまった現在ではどうする事も出来ないが、真相だけは知って置くべきだと思った。そして柳生の心の内も……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る