第4話 白ワインと過去

 小料理「まさや」で打ち上げをしてる噺家達を眺めながら神山は数年前の事件の事を改めて思い出していた。

 それはワイドショーや週刊誌では「落語心中事件」などと呼ばれ騒がれたのだった。経緯を簡単に書くと、人気噺家の秋萩亭柳生と若手人気女優の石川美律子が心中未遂事件を起こしたのだった。この事件はかなりの話題になり暫くテレビではこの話題で持ち切りだった。美律子が二十六歳、柳生が三十三歳の時のことだった。

 結果として、柳生は一命を取り留め、美律子は助からなかった。警察が介入して柳生は殺人を疑われたが解剖や検死の結果、その疑いは晴れたが、この事実が一層マスコミの餌食になったのだった。

 結果……柳生は休養する事になった。本当は廃業するつもりだった。傷が癒えて病院を退院した柳生の所に神山が訪ねて行ったのだった。柳生のマンションを訪ねた神山は

「この度は災難だったね。まさか相手から刺されるとは思っても無かっただろう?」

 室内はベランだから入る明かりだけで室内の明かりは点けていない。神山がベランダを背にしてるので柳生からは逆光になっていて表情は良く判らなかった。反対に神山からは柳生の表情は良く伺えた。

「あのまま死んでるハズだったんです。刺されて『これで死ねる』と思いました。そして意識がなくなりました。気がついたら病院のベッドの上でした」

 柳生は淡々と事実だけを語った。

「だから正直、彼女が亡くなったという実感が無いんですよね」

 それも事実なのだろう。心中は彼女から持ち掛けられたという。

「そんなに親しかったのかい?」

「一緒だったんです」

「一緒?」

「はい。彼女の事は生後間もなく施設にやって来た日から覚えています。私が小学校一年の時でしたから七つの時でした。施設の前に捨てられていたんです。名前も判らず。だから本名は園長先生が付けてくれました。私の場合は事故で両親が亡くなってしまったので名前はあったんです。そんな違いを彼女は最後まで気にしていました」

 柳生が施設で育った事は知っていた。中学を卒業して施設に居られなくなると落語家、秋萩亭惺生(せいしょう)の門を叩いた。理由はその頃の噺家で惺生だけが内弟子を取っていたからだ。施設を出た彼には夜露を過ごせる場所が必要だった。

 一度目では入門は叶わず数度目で許された。後で判った事だがこの時惺生は本気かどうかを見ていたのだと言う。

 入門を許されて、「てん生」という前座名を貰う。どうして噺家になったのかを尋ねた時に当時のてん生は

「一人で出来る仕事ですから、自分向きだと思ったのです」

 そう言ったという。当時の「よみうり版」にインタビュー記事が残されていた。

 柳生が施設で美律子と一緒だったとは神山はこの時初めて知った。

「だから愛だの恋だのじゃ無いんです。もっと深い悩みだったのです。でも私はそれを救えなかった」

「その内容は語っては貰えないよな」

「今は言えません。体と心の傷が癒えるまではそっとしておいて下さい。噺家は廃業します」

 その時に廃業届を神山に協会に持って行ってくれるように頼んだのだ。だが神山は協会に

「体と心の傷が治るまで休ませて欲しいそうです」

 届け出まで「休養届」として偽造して嘘をついたのだった。彼にしてみれば、その芸を惜しんだのだ。

 それから柳生は高座に上がらなくなった。十六で入門して見習いを二年。前座を三年過ごし二十一で二つ目に昇進。そして二十九の時に二十六人抜きで真打に昇進した。それも数少ない「一人昇進」だった。

 この時の五十日間の真打披露昇進興業で、全て違う演目でトリを取ったのは話題になった。そしてそれが切っ掛けで人気が爆発して一気に売れっ子になって行った。色が白く一見優男に見え、しかも役者顔負けのイケメンでもあった。高座での所作姿も美しく、落語界にとっても久々に寄席に客を呼べる噺家の登場だった。

 そして真打昇進して四年目の事だった。人気は最高で、芸と色気に脂が乗りきって何処でも会場を超満員にしていた。だからこのスキャンダルが一層騒がれ、驚きでもあったのだった。

 ほとぼりが冷めた頃に神山に美律子の墓に連れて行って貰い、線香と花束を捧げた。墓は神山に頼んで作って貰ったものだった。資金だけは柳生が出した。逆に言うと柳生には、それぐらいしか出来なかったのだった。

「そろそろ理由を聴かせてくれないかな」

 美律子の墓に手を合わせながら神山は柳生に問いかける

「彼女追い詰められていたんですよ。私も芸のことで悩んでいましたし」

「彼女追い詰められていた?」

「色々な事でね……それ以上は勘弁して下さい。神山さんには何もかも世話になっておいて今更ですが……」

 事件の事では色々な噂が流れていた。神山はそれを一つずつ調べていたが、殆どは実態の無いものだった。だが大凡のことは掴めて来ていて、簡単に言うと業界内でのパワハラやセクハラが行われていたみたいだった。芸能界は古い体質の業界で、古い因襲がまかり通っている。それは神山も理解していたが、その上でもかなり酷い事が行われていたフシがあった。

 美律子は恐らく同じ施設で育った柳生に色々と相談したのだろう。柳生も妹同然と思ってる美律子のことなので真剣に向き合ったのだろう。

 そこら辺までは調べはついたのだがパワハラやセクハラの詳しい実態までは判らなかった。あくまでも噂の域を出なかったのだ。

 デビュー当初に美律子が枕営業を強制させられたとか、プロデューサーに体の関係を求められたとか、まことしやかに言われていた。但し、それを実証するような証拠は見つけられなかった。

 柳生としてみれば、責任を取って廃業するつもりだったのだろう。そして、それから連絡を一切絶ったのだった。


 打ち上げは楽しく終わり、店の前で解散となった。同時に神山夫婦も腰を上げた。表に出ると柳生が店の外で待っていた。

「何となく待ってると思ってた」

 神山の妻の薫がそう言って嬉しそうな顔をした

「すいません。ここから神山さんの家まで徒歩で十分ほどだと聞いたので一緒に歩いて道を覚えようと思いまして」

 それは嘘ではなかった。但し、それ以外の想いもあった。

「じゃあウチでもう少し呑んで行く?」

 薫の言葉に柳生は

「良いのですか? では」

 恐らく最初からそのつもりだったのかも知れないし、誘われ無かったら次の機会でも良かったのかも知れない。神山から見た柳生はそんな感じに思えた。

 神山の家に着いて薫が

「何もないけど」

 そう言ってワインとチーズを出した。寝酒として少し摘まむつもりだった。

「それじゃ乾杯」

 グラスを合わせると柳生は

「来月、新宿で夜席のトリを務めるのですが、中日が美律子の命日なんです」

 柳生の言葉を聞いて神山は指を折り

「九年目か……」

「そうですね十三回忌までは間があります。勿論、昼間に墓には行きますが、この日は彼女の好きだった噺をやろうと思いましてね」

 柳生はワインのグラスに手を掛けたまま身動ぎもせずに語った。

「何をやるんだい」

 神山は若手人気女優だった石川美律子が落語好きだった事を知った時に驚いたものだった。だが冷静になって考えると、兄とも思っていた柳生が噺家になったのだ、自然と落語に興味を持ったのも頷けた。それが彼女が芸能界に入る一因になったのだった。だから柳生は

「美律子が芸能界に入ったのも全て私と同じ景色を見ていたかったからだと思うのです。だから私が違う道に進めば今でも美律子は誰かの奥さんになって元気な子供が居たかも知れないのです」

 そう言ってグラスに残った白ワインを口にした。

「命日には何をやるんだい」

「『たちきり』をやろうと思います」

「『たちきり』かぁ……」

 神山はそう言って遠い目をした。

「確か私の記憶が確かなら、神山さん嫌いな演目ですよね」

 柳生の言葉に隣で二人の会話を聴いていた薫が

「私は好きな噺だけどな」

 そう言って空になった柳生のグラスに白ワインを注いだ。神山はそのグラスが飲み干されるのを待ってから

「何はともあれ当日は聴き洩らせない訳だ」

 そう言って柳生の顔を見る

「神山さんには本当に世話になりました。紛いなりにも今日こうして噺家をやっていられるのも全て神山さんのお陰です」

「ま、それだけ師匠の芸に惚れていたんだよ」

 そう言って柳生を復帰させた時の事を思い出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る