第3話 目黒のさんま
ここ数日でめっきりと気温が下がったのを感じる。柳生が上野鈴本で、昼席のトリを取った初日には半袖でなければ過ごせないほどだったのに、今日迎えた千秋楽では長袖の上着が必要に感じていた。
トリを取る噺家は初日、中日そして千秋楽には出演者や関係者と打ち上げを催さないとならない。全員が出るのは殆ど無いが、それでも親しい者は付き合ってくれる。今日は、見習いの柳星も連れて行く予定だった。
それはこの十日間の間に楽屋に置いてある着物等を持って帰らなくてはならず、柳生一人では持ちきれなかったからだ。それと、柳星に寄席の仕来りとか諸先輩に紹介を兼ねたかった事もある。
楽屋入りしたのは仲入り前だった。一門の二つ目の秋萩亭萩太郎が自分の出番が終わっても残っていた。今日の打ち上げの連絡を任せてあるのだ。
「柳生師匠、今日は都合五名です」
「そうか、こいつも参加させるから数に入れておいて欲しい」
そう言って柳生は柳星を紹介した。
「今度見習いになりました秋萩亭柳星です、宜しくお願い致します」
柳星がそう言って頭を下げた
「おおそうかい、君がそうか噂は聞いてるよ」
萩太郎はそう言って少し嬉しそうな顔をした。二つ目の萩太郎だから自分の下の者が出来るのは嬉しい部分もあるのだ。
「少しこいつに色々と教えてくれないかな」
柳生は萩太郎にそう頼んだ
「よろこんで! じゃあまず……」
萩太郎はそう言って柳星を連れ、楽屋に残ってる者に紹介し始めた。それを見てベテランの古琴亭栄楽が
「最初は大変なんだよね。ウチの小鮒の時も手間が掛かったからねえ」
そう言って目を細める。柳生は
「でも小鮒は評判良いじゃありませんか」
栄楽の一番弟子の古琴亭小鮒は最近評判が良い。それは師匠の栄楽の耳にも入っていて
「まあ、どうなるか判らないよね」
そんな言葉で気持ちを表した。ここで、そのまま喜んでしまえば、柳生以外の楽屋の目が気になる。陰で何と言われるか判らないからだ。そうなれば、ありもしない噂を立てられかねない。そこら辺は柳生も良く理解していて話題を逸した。
「ところでこの前なんですが、贔屓から紹介された店が抜群の旨さでしてね」
この前の「まさや」のことを話だす。
「そうなんだ。今日は都合悪いけど今度紹介してよ」
「お安い御用です」
そんな会話のあと栄楽は高座に上がって行った。どうやら演目は「強情灸」だ。
「強情灸」は「峰の灸」に行った友達が「熱かった」といったので、それを馬鹿にして「俺なら熱いなんて言わねえ」と言って、家中のもぐさを腕に乗せて火を点ける。「石川の五エ門は釜茹でだぞ。それに比べれば熱いなんて言えねえ」と最初は言っていたが、やがて、もくさに火が回ると顔を真っ赤にして悶だした。とうとう我慢出来なくなり、もぐさをはたき落す。友人に「熱かったろ?」と訊かれると「俺は熱くなかったが、石川の五エ門はさぞ熱かったろう」と落とす噺で、その仕草で笑わせる噺だ。一門によってもぐさを乗せる腕の向きが違うと言われていて、演者が上向きか下向きかで誰に稽古を付けて貰ったかが判るそうだ。
そんな栄楽が、大きな拍手で降りて来た。
「お先に〜」
と挨拶をする。この時の楽屋では栄楽が一番上なのでそれだけだが、先輩が居る場合は
「お先に勉強させて戴きました」
となるのだ。その辺りが楽屋の礼儀でもある。
膝の大神楽が始まっていた。柳生は扇子を手にして座って意識を集中させていた。頭の中にはこの前の鯖の旨さが残っていた。あの感覚を噺に生かせないかと考えていたのだ。だから「目黒のさんま」を選んだのだ。
大神楽が終わって出囃子「小鍛冶」が流れていた。いよいよ出番だ。高座の袖まで行って出のタイミングを測る。そして出て行った。途端に客席から声が幾つも掛かる
「待ってました!」「たっぷり!」
寄席や落語会で常に掛かるが正直、ありがたいと感じてる。それは言って貰えない噺家の方が遥かに多いからだ。自分はお客に好意的に迎えられている。声を掛けて貰えない彼らとの差をハッキリとは意識していない。何が違うのか……今は自分にも答えは出せないが、今日の高座で少しでもさんまの旨さが伝われば進歩出来るのではと思っていた。
高座の座布団に座りお辞儀をしてマクラに入る
「え〜いよいよわたしで終わりであります。ありますなんて偉そうな事を言うまでも無いのですが、もう十日経ってしまいました。早いものですね。この分だと来週ぐらいには、暑いですねえ〜、なんて言っていたりして。まあ、それはありませんが……」
客の食いつきも良かった。前のめりになって噺を聴いているのが判った。
この噺の筋を簡単に書くと……
ある藩の殿様が不意に野駆に出かけると言い出し、さっさと馬に乗り出かけてしまう。
中目黒あたり迄来たのだが、弁当を持ってこなかったので、昼時になると腹が減ってしまう。その時どこからか、魚を焼くいい匂いがする。聞くと秋刀魚と言う魚だと言う。供は
「この魚は下衆庶民の食べる下衆魚、決して殿のお口に合う物ではございません」
と言うが、殿様は「こんなときにそんなことを言っていられるか」
と言い、供にさんまを持ってこさせた。これはサンマを直接炭火に突っ込んで焼かれた「隠亡焼き」と呼ばれるもので、殿様の口に入れるようなものであるはずがない。とはいえ食べてみると非常に美味しく、殿様はさんまという魚の存在を初めて知り、かつ大好きになった。
それ以来、寝ても覚めても秋刀魚の事ばかり。
ある日、ある親戚の集まりで好きなものが食べられるというので、殿様は
「余はさんまを所望する」
と言う。だがさんまなど置いていない。急いでさんまを買って来て、焼くのだが、脂が多く出る。それでは体に悪いということで脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜くと、さんまはグズグズになってしまう。こんな形では出せないので、椀の中に入れて、餡掛けにして出す。
殿様は見ると、かって秋刀魚とは似ても似つかぬ姿に「これは秋刀魚か?」と聞きます。
「秋刀魚にございます」という返事に食べてみたが、不味いの何の。
「いずれで求めたさんまだ?」
と聞く。「はい、日本橋魚河岸で求めてまいりました」
「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」。
と落とす噺でかなり有名だ。だから演者もそれを承知で演じなければならない。百人居れば百人のさんまがあるからだ。柳生は、最初の殿様がさんまを食べるシーンではその仕草を 綿密に演じて行く。まるで細かい骨のまで感じるほどだ。醤油を掛けて
「ジュー」
という描写や
「アチ、アチ!」
「ふう、ふう」
とやり殿様が猫舌であることや、焼き立てのさんまの暑さも表現していく。客席からは生唾を飲み込む音が聞こえて来るようだった。
サゲを言って頭を下げると拍手が降るように被さって来た。そして客が口々に
「今夜はさんまだ。さんまに大根おろしをたっぷり添えて食べようじゃないか」
そんな声が耳に届いた。それを感じて柳生は今日の高座は成功だったと感じた。
楽屋に戻ると打ち上げに参加するために待っていた噺家が
「お疲れ様でした!」
と声を揃えて迎えてくれた。
「師匠、今日は気合入っていましたね」
そんなことを言う後輩も居た。荷物を片付けてタクシー二台に分散して「まさや」に向かう。連絡は萩太郎がしていた。
道も空いていたので直ぐに到着して店に入る
「いらっしゃいませ! お待ちしていました」
女将の声に迎えられて椅子席に座ると何と知った顔が二人カウンターに座っていた。
「あれ? 神山さんじゃありませんか?」
柳生が声を掛けたのは落語情報誌「東京よみうり版」の記者の神山孝之(かみやまたかゆき)とその連れ合いだった。ちなみに彼女は女優の橘薫子(たちばなゆきこ)である。本名は結婚したので神山薫となっている。
「おや柳生師匠。今日は打ち上げ?」
「そうなんですよ。でも神山さんがどうしてこの店に」
「だって俺のマンションここから歩いて十分ぐらいだもの」
言われて柳生は理解した。神山のマンションも幾度となく訪れていたが、下町の土地勘が無いのでこの「まさや」と神山のマンションがイマイチ結び付かなかったのだった。
以前、柳生が問題を起こして引退同然の暮らしをしていた時に、その芸を惜しみ力を貸して再起させたのが神山だったのだ。それ以来親しくしているのだった。
「でも師匠はどうしてこの店を知ったの?」
神山の連れ合いの薫から言われて
「贔屓のお客さんからこの前連れて来て貰ったんですよ」
そう言うとカウンターの中の雅也が
「丁度、良い秋鯖が手に入りましてね。それを幾つか食べて貰ったんです」
そう事情を説明した。
「そうそう。そのお陰で今日は噺が上手く行ってね。感謝してますよ」
柳生はそう言って今日の高座の出来を説明した
「それは良かったです。でもそれは、わたしのせいじゃありません。師匠の感受性が高かったからですよ」
雅也はそう言って謙遜した。
「その鯖俺も食べたいなぁ」
神山がそう言うと雅也は
「今日は、あの日ほど良いのが無いんですよ。それでも良いですか?」
そう言った。神山は
「じゃあ今度良いのが入ったら連絡くれる? 仕事放おって来るからさ」
そんなことを言って店の中の人を笑わせたのだった。
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