Rowing.5

 「僕の名前は相座良樹あいざ よしき。二年三組でクラス委員をやっている。……負けたら君は僕の奴隷だからね、せいぜい足掻いてくれよ」



 金髪サラサラヘアーに細い濃紺ふちの眼鏡。肩幅が若干広いがそれ以外はほとんど特徴のないような選手。望月もちつきの奴隷の中で一番有能な人物と言うべきか。いや、そもそも一人しかいないのかもしれない。身長は百八十五センチあるらしく、確かに、少し見上げる感じの体勢じゃないと目が合わない。

 


 そんな奴隷先輩と俺は何故か勝負する雰囲気になり、今こうして向かい合っている。内容は千メートルレース。タイムが速かった方が勝ちというシンプルなもの。



 「―――東山翔悟です。一年三組で帰宅部してます。よろしくお願いします」



 俺たちはらしくもない握手を交わした。半強制的にだけど。



 「では両者、三分間だけ練習時間をあげますから準備してください」



 望月の指示の通り、俺たちは並列にされたエルゴに腰を下ろした。






 

 「相座先輩。そろそろ三分経ちますが、準備はいいですか?東山君もいい?」



 望月は三分間きっちり測るためにスタートボタンを押していたストップウォッチを止めて、準備具合の確認をしてきた。俺は体を十分に温めることができ、準備万端だった。相座先輩の方も問題なさそうだ。



 「俺は準備できたよ」「僕もアップ完了です」



 俺と相座先輩はほとんど同時に合図を返した。重なり合った声のせいでちゃんとした言葉には聞こえていないだろうが、望月は理解した様子だった。

 そして、俺たちはエルゴについているモニターのメニュー欄で千メートルに設定をし始めた。すると、相座先輩が唐突に話しかけてきた。



 「君……東山君といったか。少し質問があるのだが、いいかい?」



 「ええ、答えられるものなら答えますけど、なんですか?」



 相座先輩は真面目な顔で僕の顔面に問いを投げかけてきた。



 「君はボート競技が好きかい?」



 一瞬、その問いを答えるのに戸惑った自分がいた。

 「好き」と言いたい自分と「今は好きじゃない」と言いたい自分。天使と悪魔とかそういうたぐいのものではないが、心の中で二人の俺が今にも物議をかましそうだ。ただ、その質問に今現在答えられるかと聞かれたら。



 「すいません。その質問には答えられません」



 そう答えると、相座先輩はプイッと顔を正面にあるモニターへと向けて言った。



 「そうか。では、この勝負が終わった後に君が迷わず答えられるようになっていることを願っているよ」



 そういうと、先輩はエルゴのレールの両端についている足置きにランニングシューズを履いたまま置き、ベルトでしっかりと固定し始めた。

その際、相座先輩は俺に対する宣戦布告まがいのことをしてきた。



 「やはり、今の君に負けることはできない。完膚なきまでに叩きのめしてやる」



 その一言はとても重かった。重厚感があって、俺では耐えきれないような圧も一緒に押し寄せてくるくらいに。だが、俺はその挑戦文に返答しなかった。

すると、望月はその無言を合図に本番の体制に移った。



「では、始めますよ。両者、バーを掴んでください」


  

 このレース前のような緊張。久しぶりの感覚、いつまでも慣れない空気はどこでも同じなのかと初めて知った今、俺の血流のスピードが加速するのがわかる。

 ほぼタイムラグのないほど、俺と先輩は同時にエルゴのバーを握る。



 「―――じゃあ、行きます………………レディ…」


 

 掛け声の違和感が拭えない俺をよそに、いよいよ戦いの火ぶたが切られようとする。



 「…………ゴーッ‼‼」



 そして今、俺と相座先輩の一騎打ちが始まる。


 

 相座先輩は基本的な、七、五、七、九、十というリズムでバーを引くのが一般的。七の時は太ももの真上くらいまで、五の時は膝の上くらいまで、九の時は少し上体を倒した状態で腹の上くらいまで、十の時はお腹にバーが当たるまで、という感じでスタートを切った。回るドラムの音が徐々に大きくなり、その空間を騒音で支配する。俺も同じように引いているが、彼の音には敵わなかった。



 ビィィィィーン、ビィィィィーン…。ローイングエルゴメーター特有の音は二台分しか響いてないボート部室ではほぼ全員が彼らを見守っている。

 



 「相座先輩と彼、意外と互角じゃない?」「あの相座といい勝負だ?なわけねぇだろ、どーせ相座は手を抜いてるに違いない」「え、でも相座君しんどそうよ。かなり飛ばしたみたいね」



 ここは俺からしたらアウェーな舞台。皆が相座先輩が勝つと予想しているに違いない。そう確信するのも無理はない、何故ならこの人はめちゃくちゃ強いから。

 


 「相座先輩。四百メートル通過!…………東山君も四百通過!」



 誤差は一秒足らずというくらいだろうか。息切れしているのは俺も彼も同じだ。ただし、若干相座先輩の方が息切れする声が荒い。



 「がんばれええ!相座センパーイ!一年生なんかに負けないでくださいよ!」



 俺サイドの少し奥にいる男子生徒っぽい、男子にしては高い声。その彼がまず、相座先輩の応援をし始めた。それに釣られ、他の部員も声援を送る。



 「がんばってください!」「まだまだ!もっとイケますよっ」「ファイトオオオ‼」



 アウェー戦である上にさらに応援が入ってくるとやりずらい。日本で行う国際試合で海外選手が応援に圧倒されて戦闘力が若干落ちる気持ちがよくわかるようなシチュエーションだ。

 


 「相座先輩…東山君、六百メートル通過!残り四百弱ですっ」



 さすがの俺も呼吸が大分荒れてきた。今日の朝に漕いだ時の疲れがじわじわと出てきたのか、いつもよりも早く息があがってしまっている。

 条件は全く同じ。だが、そんな陳腐な言い訳をしている暇など、この戦いの中では一切ない。…………勝つ、絶対勝つ‼



 




 彼はどうしてこんなにも強いんだ。僕にはない、何かを彼は見ている。そんな、経験の差だと言われんばかりに追い詰められている。

 あまりの強さに圧倒されることがこんなにも苦しいのか。息は僕の方が上がっているし、レートも微妙に僕の方が高い。レートが僕より低く、かつタイムに誤差がほとんどない。コンマ一秒だけ僕が勝っている状態。これは屈辱だ、あれだけの啖呵を切っておいて全力を出して敗北、というのだけは僕の面子にも関わるから避けたい、避けたいのに……………避けられそうにないピリピリした空気を隣から感じる。―――思いたくもなかった。すぐにでも僕は猛烈に逃げたい、だなんて。



 「東山君、残り三百メートル。相座先輩も三百切ります!」



 とうとう、僕が追い抜かれる番になってしまうとはね。でも、この勝負は男と男のガチンコバトル。手を抜くなんて絶対にありえない。

 今日は担架で運ばれてもおかしくないくらいまでドラムを回そう。汗の一滴をも残さないレースを、今ここで‼




 



 「ハッ。うおあああああああああああああああああああ‼」



 貴公子の雄叫び、というにふさわしい叫び声。



 「相座先輩が吠えたぞ!これは本気で引きちぎりに来るぞ……。がんばってくださああい!先輩っ」



 もう、勝ちにくるのか⁉まだ二百五十メートルもあるのに、これは俺の誤算だ。今から全力で行けば間違いなく嘔吐して迷惑をかけてしまう…………が、勝負には四の五の言ってらんないな。そっちがその気ならば……。



 「おらあああああああああああ!だあああああああ‼」



 挑戦者チャレンジャーの雄叫びもまた、先ほどの叫びと呼応しているように、熱い感情が詰め込まれている。



 

      「「絶対、お前には負けねええええええええ!」」



 重なる声がこの勝負の緊張感を十倍にも膨らまし、周りが気圧されて座り込む者が出てくるほどだった。あまりにも白熱し、絶対に逃げられないこの最上級のバトルは誰の手によっても止めることはおそらくできない。





 一時は落ちていたレートは、彼らがヒートアップしたことによりぐんぐん元の以上の数値をたたき出している。曲げ伸びを繰り返す脚はとっくに限界を迎えているはずなのに、その脚はまだ動きを止めない。本能の赴くままに、身体が反応し続けている。バーを引き切り、次のモーションへと移るコンマ数秒も気が抜けない。



 「両者、残り百五十メートルですっ‼」



 そう言った望月の顔は彼らに感情移入しかけているのか、微かに息切れをしている。見入ってしまうギリギリのラインを彼女は行ったり来たりしており、自分の本来の仕事を忘れそうになっている。汗ばむ額、力のこもる手のひらは彼らと同じくらい力が入っているに違いない。そんな彼女は先ほどから残りの距離を言う以外、他言を発していない。それほどこの勝負に集中しているということだと見て取れる。





 俺の心に「思考」という動作は完全に消えていた。相座先輩のペース配分とか、周りの反応だとか、そんなことを考える余力が一切ない。切れかけの電池みたいに一気に消費していく体力。勝負が終われば抜け殻となっているであろうこの身体はアドレナリンの助力もあり何とか保っている状態。いつ切れるか分からない集中力を保ち続けるだけでも精一杯だ。



 「ぬおおおらあああああああ‼…………だああっ!」



 「残り百メートル‼ラストスパートっ!」



 気が付けば、目の前に映る残りの距離を表したメーターが見えなくなっていた。残りの距離のことは今の望月の言葉を耳で聞いて初めて知った情報だった。





 最後のスパートをかけていく両者。歓声に包まれたトレーニング室。何事かと勝手に入って来た他の部活の部員がその雰囲気に流されて応援し始めていた。誰がどちらを応援しているかなんて分からない。それでも、このライブ会場にも似た空間は競技中の二人にとって心地いいモノであったことには間違いない。最高の舞台とは程遠いがエルゴを引く彼らにとっては忘れられない勝負となるだろう。



 「むあああああああああああああ!ぐああああああああああ!」

 「おおおおおおおおおおおおお‼らああああああああああああ‼」



 絞って、絞りまくる。そして、最後に絞り切った方がこの勝負を制する。



 「残り五十ぅぅぅぅメートルぅぅぅぅ‼限界までええええ!」



 望月が一生懸命、喉が張り裂けるまで叫んだ。それはこの盛り上がっている空間の中で二人にちゃんと届くように。







 二人は既に三十メートルを切っていた。どちらが先に切ったとは言いにくいほどに拮抗していた。



 「勝ああああああつ!」「俺が勝ああああああつ!」



 無意識に彼らは声を張り上げていた。互いが負けたくないオーラを察知した結果なのかもしれない。最初の賭けをも忘れるくらいに勝負を楽しんでいる二人。

 だが、その時間に区切りをつける時がやって来た、決着の時間が。




 

 


★ボート用語


・ドラム…エルゴについているチェーンを巻き取る部分。(詳細はローイングエルゴメーターで検索してください‼)




 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る