Rowing.4
俺はこのマシンと共に育ったと言っても過言ではないくらい、たくさんの思い出を作って来た。そのほとんどが吐いたり、立てなくなったりなど散々ではあるが。
「エルゴメーターか……へぇ。随分綺麗に使っていますね。それも古い型が一台もない……まさか、全部新品とか!」
「さすがボートをずっとやってただけはあるね。でも惜しい!この中の三台くらいは新品だけど、その他はまあまあ使ってるよ。一番古いのは四年前くらいに買ったやつかな。まあ、この部活自体は創部して十五年ちょっとだし」
「え、意外と歴史の浅い部活なんだな。てことはあまり成績もないとか?」
「ううん、それは違うよ。県大会上位を独占したこともあるくらいの強豪校だよ。それに今年も……」
「おうおう‼望月、その男はどこで拾って来たんだ?それにしても随分とひょろっちぃ奴が来たもんだな。なんだ、入部希望か?」
いきなり話しかけてきた屈強な男は図太い声で威圧するように話しかけてきた。筋骨隆々という言葉がしっくりくるような顔の濃い男。黒い半袖のアンダーを身に纏い、その鍛え抜かれた筋肉たちのラインがしっかり出ている。あまりにも大きなガタイは熊と勘違いしそうなくらいだ。
「あ、剛武先輩!お疲れ様です!あ、この男子が今日見学に来るって言ってた例の彼ですよ」
そう彼女に指をさされて二人の目線が俺に集まる。自己紹介しなければならない雰囲気を察知した俺は簡単に挨拶をした。
「は、初めまして。東山翔悟と言います。クラスは一年三組で望月さんとは今朝初めて会ったばかりなんですが……って、俺は見学したいだなんて言ってない」
「……まあ、それはさておき。実はこの東山君は昨年の全中決勝で、あの五十嵐航大を破った選手なんですよ!でも、一年くらいやってないらしくて」
「っておい、バカっ!そんなことここで言わなくたっていい……」
「それは誠か、少年。ということは俺よりも選手歴が長いということだな?それに『全国』という舞台に立ったにもかかわらず辞めてしまったのはもったいないが何か理由があるのだろうな。まあ、人生いろいろあるからな!楽しめっ!少年!」
何十年も生きてきたレジェンドが言いそうなセリフを高校三年生が語りだすことに違和感があるはずなのに、不思議とこの先輩にはしっくりきている。
剛武さんはそう言ったあと、何かを忘れていたかのように、ハッと目を開いた。
「そうだ!まだ自己紹介というものをしていなかったな。ハハハハハハ!すまないすまない。俺の名は
剛武先輩は豪快で勢いのある喋り方で俺に自己紹介をしてくれた。
インターハイ、それはかつて俺が目指した舞台の一つ。もし辞めていなければ、今も目指し続けていたであろう高い高い場所。そこに行ける彼に少し羨ましさを覚えたことは口が滑っても言えない。
「あ、はいっ!よろしくお願いします!……では、皆さんの練習の邪魔になるのでこの辺りでお暇させていただきますね」
「ちょっと待ったああ!東山君!私がただの見学の為だけに連れてきたと思う⁉」
練習が始まる雰囲気を察知して帰ろうとした俺を望月は強めの口調で引きとめた。
「…はい?」
「だーかーらー!君を連れてきたのはね…………勝負させるためなのよ」
俺の心を一気に占有した一言。『勝負するためなのよ』と言われましても。俺はそんな準備もしてないし、聞いてもないし、というかそんな元気とかないし。
そんなことを考えている最中に俺は手を引かれて、いつの間にかとある扉の前に立たされていた。そして、俺の右腕には何か布のようなものが入った紙袋が知らぬ間に吊るされていた。
「東山君。その袋の中にはさっき買ってきた練習着が入ってるから、今すぐ着替えてきてくれる?ここ、ボート部専用の男子更衣室だから」
「いや、ちょっ。待ってくれよ!俺はやるなんて一言も……」
俺の内心全無視の彼女の行動は正直予想していなかった。いきなり勝負をさせるとか横暴すぎる。ただ、ボート部での勝負ときたら大体見当がつく……。
とにかく俺は彼女に言われるままにしぶしぶ更衣室の中へ身を投じる。
♦
―――三分後、俺にしては
俺が更衣室のドアを閉めた直後、閉めた音に反応したのか望月がこちらを向いて手招きをしていた。
「東山君‼こっち来て!」
すると、集まっている人の視線が俺に集中する。
俺は手招きされるがままに彼女の方に寄っていく。しかし、人が彼女の周りに集中していて割り込みづらい。だが、数人の部員のおかげで彼女への道を作ってもらい輪の中に入ることができた。すると、彼女に声を掛けられた。
「東山君、よく逃げずに来たね。まあ、逃げようとしたら先輩たちにヘッドロックでも何でもしてもらって逃がさないつもりではいたんだけど…」
この女はサラッと怖いことを言いやがる。
「まあ、いいわ。監督が来る前にとっととやっちゃいましょう。で、対戦相手なんだけどね。君は一年くらいボートには乗ってないみたいだから……うーん。ん、じゃあ、相座先輩に相手をしてもらいましょうか」
いや、そっちも決めてなかったんかい。用意周到なのかなんなのか。
『相座』と呼ばれた男が彼女のセリフに反応し、こちらに近づいてきた。意外と細身の人という印象をまず受けた。そして、彼女のまえに止まると。
「はいお嬢。この相座良樹。いつでもどこでもどんなことがあっても参上し、お役に立つ所存であります」
……この人は本当に先輩?なんか望月に対して
「あの、相座先輩。その口調はやめてくれますか?ちょっと選んだことを後悔しそうなので」
「―――すまない、つい癖でね。君に呼ばれるといつもああなってしまうんだ。許してくれ。ところで、僕に何か用かい?お力添えをするよ」
切り替え早っ‼いきなり先輩感を出してきたよこの人。
あまりのスイッチの速さに驚愕しているのは俺だけだろうか?と思わせるくらい周りは動揺の欠片も見せなかった。これは所謂、日常茶飯事というやつなのだろう。
「じゃあ、先輩。今からこの東山君と勝負をしてもらおうと思います」
「いや待ちたまえ。いくら僕をこき使っていいとはいえ、さすがにこんな奴には負けそうもないのだが………ところで、どうして僕なんだい?」
「東山君が強いからですよ、先輩」
「だからといって、こんな一年生相手に負けるはずないじゃないか!実力なさそうな帰宅部の分際にこの僕が敗北する?あり得ない、絶対にあり得ない」
「―――先輩の目がそこまで節穴だったとは、思ってもいませんでした。正直残念ですね。でも、ボート歴半年足らずの私でも見ればわかりますよ……彼の脚、おかしいですよ。先輩は彼の下半身をしっかりと見ましたか?」
―――望月はどうやら最初から理解していたみたいだった。俺が出会ってから隠していたことその一を完璧に見抜いていた。
その望月の一言にその場にいた人間が俺の脚をじっとみる。太ももから膝にかけて引き締まった筋肉をまじまじと見られる。一般的に見ても太い俺のふくらはぎはあまりにも太い太ももによって細く見えてしまっている。
今俺が着ているのは青空色のトレーニングTシャツにサイドに青のラインが入った黒の短パン。脚が完全に露わになってしまっている。制服ではいつも長ズボンであるため見られることがなかった生身の脚。それを見れば運動しているかしていないかなんて一瞬でわかってしまう。
望月の指摘に納得した一部は俺の脚を興味深そうに見ていた。こうしてじっと見つめられることにはなれていないので、脚を隠すという乙女っぽい反応をしてしまった。
「見てわかりましたか?先輩、東山君は侮れないですよ。この筋肉を見ても分かる通り彼は何故か練習をしているんです。だから、ボート自体にブランクがあっても、エルゴに関しては別格であると私は思います」
たかだか勝負。もはやそんな空気はこの空間には漂っていなかった。
「……いいだろう、その勝負を引き受けてやる。ただし、一つ条件がある。もしもこの勝負に東山君が負けたら僕の配下について、僕専用のリギングのヘルパーとしてこの部に入ってもらおう」
「では、先輩。もし彼が勝ったら、彼のサポートとして残り一年間の部活動を過ごして貰いますが、よろしいですか?」
そうか、俺が勝てばこの先輩がサポート役に……って、いや待て。
「というか、俺はこの部活の部員じゃないしっ!かつ、この勝負をする気なんてさらさら……」
だがこの時、俺はとある絶対に触れてはいけない引き金を引いてしまっていたということに気付かなかった。
「東山翔悟‼‼」
部屋の空気を大きく振動させたその声はキレていた。その主はおそらく女性で、すぐ近くにいる人物。そして、そいつは俺を凝視していた。
「東山翔悟!良いからこの勝負に乗って。さもないと、問答無用でこの部に入部させるから。覚悟は……決まったね?」
冷たい視線、その場が凍てつきそうな怒声。せっかくの美人が台無しになりそうなくらいの鬼の形相。俺は完全に逃げ道を塞がれたと思った瞬間だった。
「では、改めて。ルールを言いますからよく聞いてください。形式的にはレースの感じでいきます。エルゴを千メートルにセットして、先にゼロメートルになったタイムが早かった方が勝利。ということでいいですね?お二人から何か質問はありますか」
相座先輩は手を横に振って、ないという合図を。だが、俺は一つだけあったのですかさず手をあげる。
「東山君、何?」
俺はあの時の言葉を思い返しながら、質問を口にした。
「スタート合図は……『アテンション・ゴー』だよね?」
彼女は言った。ボートの上でしか聞けないスタートの合図であると。
「…………ええ、もちろん。その合図は使わないよ?」
今の会話をしたとき、誰もそのことに触れなかった。ということは、このボート部に関しては普通のことらしい。というより『暗黙の了解』というやつなのかもしれない。
★ボート用語
・クォード…正式名称はクォードプル。舵手付き、舵手なしなどがあるが高校では舵手付きが主流。四人が漕ぎ手、一人が舵を操作する。ちなみに操舵する人をコックスといい、五十キロを基準として、それを下回ると不足分の重り(デッドウェイト)が乗せられる。基本的には軽く、しっかりしている人物が適任な役職。
・バウ…ポジションの名称。ダブルスカル(二人の乗り)ではゴールに近い方をバウ。スタートラインに近い方を
舵手付きクォードの場合はゴール側からバウ、ミドルクルー(×2)、整調、コックスという順になる。さらにミドルクルーはバウに近い方をバウを含めバウペア、整調側に近い方を整調と合わせてストロークペア(整調ペア)という。
因みにバウ、二番、三番、整調、コックスという風に呼ぶところもある。
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