Rowing.6
気が付けば、視界には白の天井が映っていた。身体は限界を突破し、歩行不可能の状態る。呼吸は大荒れで、汗の濁流が皮膚の表面を流れている。
「もう……疲れたわ。ハァ、ハァ……でもなんか、やり切った感あるな…」
この一言を話すのにもかなりの力が消費される。口を動かすのが精一杯な自分、その横にはこの勝負の発端を作り出した人物がいた。その人物は頭が影になるように覗き込んで話しかけてきた。
「………少しやり過ぎたよ。本当にごめんね、ここまでやるつもりはなかったんだけど」
ふんわり香るローズの香り。その匂いは俺の意識を刺激し、近くに女子がいるということを確認させられた。彼女の表情は逆光で見えないが、口調からして不安そうな顔をしているだろう。
「―――勝負。まさか、君が勝つなんて思ってなかったんだけど。おめでとう、東山君」
激励の言葉にしては少し失礼な言い方。
「……あの先輩。相座先輩は一応、県大会と四国大会でシングルスカルの選手として三本指に入った
……全く知らなかった。まさか、あの先輩がそんなに凄い選手だったなんて。確かに他の二年生の部員の方々とは風格が違うような気はしていた。だから、全中でてっぺんを獲ったとは言え、そこまでの実力者に勝ってしまった俺が少し怖くなった。
「それでどうよ?この部活に入る気になった?」
この状況でまだ勧誘するつもりかよ。大した精神をお持ちで何より。
でも、すでに答えは決まっている。こんな部活に……。
「入らないわけがないだろうが」
うんうん。これで勧誘がストップするはず…………ん?今なんか言葉を間違えたような気がしたんだけど。
「ええっ‼入ってくれるの‼本当に⁉本当に⁉」
彼女―――望月は急に立ち上がり、その喜びを全身で表現する。満開の笑顔で、まだ立ち上がれない俺と向き合った。
「本当に入ってくれるんだよね?今の言葉忘れないよ。絶対入ってよね」
「いや、ちょっと待ってくれ……今言葉を間違えたんだが…」
「ねぇねぇみんな‼東山君がこの部に入部することになりましたああああ!」
本決まりじゃない事案を大っぴらにされてしまった。だがこの部活、ノリが良すぎて。
『いえええええええええええええええええええい‼ようこそおおおおおおお‼』
部員(約八割)が声を合わせて、まるであらかじめ仕組んでいたかのように揃っている声。だが、この時点で少しチキンなところがある俺は「入りませんよっ」って言うことが困難な状況に追い込まれてしまった。俺を
するとそこへ、絶対に顔を合わせに来ないと思っていた人物が尋ねてきた。
「東山君。すこしいいかい?」
一番の特徴である金髪が汗に濡れ、風呂上がりのような状態になっている望月専用の奴隷。彼の顔の一部と言っていい眼鏡は汗で滑り落ちるため外していた。その人物は先ほどまで熱戦を繰り広げていた相手。
「相座先輩……あ、どうぞ。時間は全然余裕です」
先輩は見るからに疲弊していた。俺よりも力を出し、本当ならフラフラで立てないはずなのに、既に立つことができている回復力の速さ。俺にはない素質だ。
「僕に勝った君に何かをあげようと思ったんだが、それはまた今度にしよう。―――数分間、質問に答えてくれないか?」
「ええ。構いませんよ」
先輩は知りたそうな顔をしている。【何を?】そんなの決まっている。
「どうして僕は君に負けたんだ。最後まで
「……それは多分。想いの強さだと僕は思っています」
「想いの強さとは具体的にどういうことだ?」
具体的に述べようとすると少し心が痛む。それは俺がボートをやめる原因となった出来事に直通してしまいそうだからだ。
「―――すいません。その質問には答えられないです。ちょっと辛い思い出に結びついてしまうので、その質問はいずれということに出来ませんか?」
「すまない。そのようなことを思い出させてしまうとは……悪かった」
「そんな!謝んないでくださいよ。これは俺自身の問題ですから」
「そうか。悪かったな、また次回にでも話そうか。君がこの部活に入ってくるみたいだしな、時間はたっぷりあるからまたいつでも話かけに来させてもらうよ」
そう言って、何も持ち帰らないまま去ってしまった。せっかく聞きに来てもらったのに、何も言えなかったことが残念でたまらなかった。
相座先輩はああ見えてプライドが高そうな人間に感じている。皆の前ではムードメーカーを演じながらも、本当はもっと高みを目指すために貪欲に学び、努力していく人なのだと思う。そのプライドの高さと裏で一生懸命ボートと向き合うストイックな姿は今回試合したからこそ見えた点。でないと、最後の失速からの追い上げは不可能だっただろう。普通の心持ちでは耐えきれない強度が先輩にはあった。それが自分の中のどこかに、知らぬ間に刺激を与えられてしまっていたのかもしれない。でないと、入部したいなどと間違っても言うはずがない。
♦
―――俺と相座先輩の激闘が終わって一時間半後。
「では、今日の練習は終わりです。各自、クールダウンを怠らないでください」
望月は選手とマネージャーを兼任している異色の存在。だから、本来ならばキャプテンなどがする終礼も、別メニューでいない日などには彼女が仕切っている。そして、その美貌と実力が認めてられるからこそできるポジションにいる。
「ねえ、奏。明日の練習のこととか言わなくていいの?今日、先生は職員会で遅いらしいから言っといた方がいいんじゃない?」
明日のことについて話をして欲しいと口添えをしたのは、確か二年生の安芸加奈子先輩っていう人だ。インハイが終わったら新副キャプテンに就任するらしい。
「そうですね。一応言っておいた方が……」
と、言いかけたところで突然勢いよくドアが開いた。
「みんなごめんねええ!遅くなっちゃった。えーっと、ミーティングは終わっちゃった系かな?」
高めに結ばれたポニーテールに、夏だというのに白すぎる肌。その豊満なボディは男子生徒たちを釘付けにしかねない。黒のスーツに白のTシャツを着ており、いかにもできます見たいな風格が出ている。俺は少しその姿に動揺する。
「神無月先生!お待ちしてました。一応は形としては終わっちゃったんですけど。まだ、全員残ってます」
「おっけー!じゃあ、明日の連絡をしようかな……っと、ところで一つ気になるんだが―――君は何故ここにいるのかな。翔悟君?」
―――実はこの教師を俺はよく知っている。多分、この中の誰よりも近い距離で接することができる。
「………どうしてここにいるのかって?それは俺にもわかんないんだよな」
「翔悟‼ここは一応学校内だから、言葉遣いには気を付けなさい」
「そういう神無月先生も俺を呼ぶときの呼称が『翔悟』になってますけど、そんな親密そうな感じに呼んでもいいんですか?なにせ、『生徒』と『教師』の関係ですもんね」
その女は俺を睨らんでいるようでいない、そんな顔をしているその女は俺がこの世で最も話をしたくない人物。
「―――翔悟。こんなところでする気はないけどアレ、やる?」
「ふふん。姉さんが望むなら、別にやっても構わないけど?」
「「「「………………」」」」
今の俺の発言により、その場にいた部員が硬直してしまう。
そして三秒が経過した。
「「「「ええええええええええええええええええ⁉
相座先輩との勝負といい、部顧問が実の姉さんといい。俺は高校で初めて強烈な一日を送ったなと実感した日だった。
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