Rowing.2
全国を制覇して一年が経とうとしている夏頃。俺は直射日光を浴びながら、自転車で帰宅する途中だった。汗が無限に湧き出てくるのか、外に出て五分も多々経たないうちに新調した制服はびしょびしょになっていた。
「あれから一年。というか、よくこんな暑い中で部活やってたよな。今考えると信じられんわ」
「何言ってんだよ?あの時こそお前の真の姿だろうが。全国の頂点を獲ってよ。まるでヒーローみたいじゃないかよ、羨ましいぜ」
隣でチャリを漕ぐ少し長身の細身の男は中学時代からの友人である松尾健介。黒ぶちの眼鏡をかけ、夏だというのに真っ白な肌をした超インドア系男子である。
「それにしても。まさか一躍ヒーローになった翔悟が……帰宅部になるとはねぇ」
「いやあ~。やっぱ遊びたいじゃん?高校って中学みたいに堅い規則とかないし、自由にやっとかないと損だろうなって思ったわけよ」
「で、その様がこれか?俺みたいな陰キャラとつるんで一緒に家でゲーム三昧。やっぱ部活した方が翔悟には合ってると思うんだけどな~」
「まあ、そう言われてもね。………やる気がないんだよ。前みたいに勝つっていう強い気持ちみたいなのがポッキリ折れたんだよ」
そう、俺はとある出来事があってから一度も船に乗っていない。というか、あの白い船体を視界の中に映してすらいない。
何回も自分に言い聞かしてきた。もう一度、漕艇をすることはない。あんな競技に面白さの欠片もないし疲れるだけ、という風なことを繰り返し。仕方ない、やりたくないことを強要されることが一番楽しくないからな。
「でさ健介、今日は何のゲームすんの?前みたいなクソゲーだけはやめろよ。時間の無駄になっちまうだけだから………」
こんな非生産的な日常を俺は送り続けていた。無意味でなんの為にもならない、ただ退屈な日常を誤魔化していくように。そして、逃げるように。
暑い夏というものはまだ始まったばかり。梅雨が明けてからというもの、この日本特有の蒸し暑さに耐えながら生きていく俺は心のどこかにポッカリと穴を開けたまま七月に突入しようとしていた。
♦
次の日、俺は暑過ぎて死にそうな顔で教室がある教棟に自転車置き場から向かっていた。いち早く暑さから逃れようと走ろうとするにも、朝から疲れるのは嫌なので少し暑さに我慢しながら歩いて行った。グラウンドを見ると、年中暑苦しい野球部の連中が大会予選の為に必死こいて朝練習をしていた。
「俺もしてたなあ。毎朝、よくもまあ懲りずに学校で朝練してたよな」
ぶつくさと独り言を呟く俺。周りは友達との会話に夢中になっており、俺の虚しい呟きを耳にするものはいなかった。有難いことに好奇の目を向けられることもなく涼しい教棟内に入ることができた。
俺の教室があるのは第二教棟の一階のど真ん中の教室。一年三組ホームルーム。
入り口から手前に一組・二組。奥に四組・五組とある。ついでに言えばこれが学年全クラスで、総勢二百名弱。二階が二年で三階が三年生という学年と階が比例する仕組みになっている。
そして、俺は教室に足を踏み入れた途端。冷房という文明の利器に感謝する。この機械がなければ、俺はアイスクリームのように溶けていたかもしれない。と、思えるくらい教室内は涼しかった。さらに、現在俺以外にいるのは一人だけ。このクラスになって三カ月、あまり見覚えのない人ばかりで曖昧な所がある。ただ、今いるのは女子生徒で、見覚えは………。
「君が東山翔悟君?へぇ、意外と体つきいいのね。もっと筋肉ないかと思ってたわ………あ、挨拶遅れてた。初めまして、私は
「…………教室間違えたな。失礼しま……」
「待ってよ‼私、君に用があって来たんだけど?ていうか、君があの東山翔悟君よね?『ハイレートモンスター』っていう異名が付くほどの……」
「ちょっと、待ってくれ。俺は東山翔悟であってるけど、その、何。はいれーともんすたーっていう異名は知らないよ。あと、あのって何のこと?」
俺は出会い頭に聞き覚えのない異名を突きつけられて固まってしまう。
でも、この女子は何なんだ。茶髪のセミロングで、瞳が大きくて綺麗な白い肌の身長はさほど高くなくて、唇がふっくらしていて何ともキスのし甲斐が……じゃなくて、一体この子はなんなんだ?突然俺の名前を当ててくるし、おまけに変な異名まで知ってるみたいだし。
「ねえ。君でしょ。去年、全中のボート競技で優勝した人って」
「…………」
「それも、中二から二連覇なんだそうね。でも、中一は三位だったか」
「…………」
「あ、それから………」
「………あのさ、その話はやめてくれないか?」
「―――君の栄光を語っちゃダメなの?」
「あんまり触れて欲しくはないかな。それらは確かに事実だけどさ、俺はもうその競技とは無縁に生きたいんだ。だから……」
「五十嵐航大。―――覚えてるよね?彼、今年のインハイ注目の新生なの。それでインタビューの時に君のことを話してた。唯一勝てなかったライバルだってね」
俺は何故だか罪悪感に襲われた。彼と昨年の決勝戦の直後に決勝の舞台で会おうって喧嘩別れした………あれから続けていたと思うと少しホッとすると同時に胸を締め付けられるようだった。
「―――私と五十嵐は当時のクラスメイトみたいな感じでね。まあ、五十嵐自身は勝利以外に何も興味がなかったからさ。あんまり話したことは無いんだけど……」
彼女はどこか寂しそうな顔をしていた。その理由なんて全く興味は無いが、その理由に俺が絡んでそうな予感がしてならない。
「彼が唯一話しかけてきたことがね、『愛媛に引っ越すんだって?だったら、東山翔悟っていうやつに言っておいてくれよ。次は勝たせてもらう』って言っといてって言われたの。何にも興味がないと思ってたからさ、それがなんか悔しくて。だから君を探したの、その言葉を言うためだけにね。超大変だったんだから!」
やっぱり、俺に結びつく理由だった。そのことを話す彼女の顔はあまりに淡々としていた。彼女が想っているのであろう彼の興味をくすぐった人物が目の前にいるのだから。そして、いつの間にか最初のようにフレンドリーな空気を発さなくなった彼女は俺をじっと見つめて話を再開した。
「だから驚いたよ。ボート辞めて、しかも同じ高校で呑気に帰宅部をしてるなんてね。だから、最初は半信半疑だった。だけど、君がよくつるんでいる松尾君に話を聞いてみたら全部話してくれたよ。まあ、辞めた動機だけは言ってくれなかったけど」
―――情報源は健介だったのか。でも、辞めた理由を伏せるとはなかなか気の回る配慮じゃないか、と感嘆する。俺は彼女の方に視線を向けると、彼女の眼は真っ直ぐこちらを見て何かを訴えかけていた。嫌な予感、背筋に悪寒が走りまくる。
「君の辞めた理由が何なのか。そんなのは別に教えてもらわなくたっていいけどさ。一つだけ言わしてもらうね」
突然、冷汗が全身を覆う。折角クーラーの効いた部屋で真夏の炎天下で出てきた汗を抑えたと思っていたら、もう一度濡れてしまうとは。
彼女がこれから放つ一言は俺のこれからの生活を大きく狂わせるものになる気がした。俺は身構えて、彼女の口の開く瞬間を待つ。額から汗が床に零れ落ちた瞬間。
「播崎高校漕艇部に入部してよ。――もう一度。全国の舞台に立ってくれる?」
その場はなんとも形容し難い空気に包まれていた。
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