「Nについて」後記

 正直なところ、「Nについて」に関して何か言及することに悩みがありました。何も言うべきではないかもしれないとも思っていました。

 それでもこうして後記を書くことにしたのは、Twitterの感想や講評を読んで、書いても許されるのではないかと感じたからです。ありがとうございます。


 本作はフィクションです。

 ささやかにはNがいました。

 けれどもういません。

 Nは自ら死を選びました。

 ささやかにはNをとめられませんでした。

 そもそもとめる機会すらなかったし、たとえ機会があっても見逃してしまっていたでしょう。機会をつかめたとしてもとめられなかったのでしょう。

 葬式。いつもへらへらと笑っていたNの弟が、遺族して神妙な顔をする大人になってしまったのを見て、ささやかはふざけるなと思ったのです。ああ、もしも機会があれば、なんとしてでもNをとめてやりたかったと。だけどそんなことは現実になりませんでした。お願いだから生きていてほしかった。そうしてささやかは「Nについて」という小説を書くことに決めました。

 だから本作はフィクションです。


 少し私事を語りすぎたかもしれません。小説的な話をいたしましょう。

 本作の構造は、①Nのところに向かう、②Nと対面する、③その後の三幕に分かれているといっても、まあいい気がします。書き出しを思いついた時点で、私が仕事をぶっちしてNのところに向かう、なんやかんやでNをとめる、減給処分を受けて安い買い物だったと満足する、という流れはおおよそつかめていました。

 

①Nのところに向かう

 私もNも設定は色々勿論フィクションで、作中において私が仕事を放り出して行動することは願望が多分に反映されています。元々、自身の損得勘定をかなぐり捨てて他者のために行動できる愚かさが理屈を超えた結果を掴みとれるのではないか、そこに人間性の価値があるのではないかと感じていたところではあり(拙作「失った人生の細片を指おり数える」の「愚かでありたい」参照)、そういうのが合わさっての展開かなと思ってます。

 地味に苦労したのが、社用車の鍵の管理ってどうなっているのか全く知らなかったので、色々インターネットで調べました。便利ですね。財布と免許証は私の行動をなぞったら無理だなと持参を諦めました。

 順当に苦労したのは、私とNをどうやってもう一度つなげるかと、Nがどういう返答をするか、でした。

 それと講評で指摘された「社会労務士」は完全にケアレスミスの脱字なので、悔しい。本作はそういうところが整っていた方がよい小説なので。


②Nと対面する。

 私とNをどうやって対面させるか、つまりどうやって私がNをとめるかは悩みました。最初は、今まさにNが首つりとか自殺行為をしているところを私がとめるという展開を考えたのですが、あまりにタイミングがよすぎる、とめてそれで話が終わってしまうので小説的に望ましくないということと、結局それでは何も解決してないというか、Nを救うことにはならないのではないかと感じたので却下しました。

 となれば、Nが行為をする前に対面してとめるしかない。けれどNが玄関を開けてくれるはずもない。ならばもう庭から侵入するしかないとわかりました。

 この時点で、まだささやかは、私が何か素晴らしいことを言ってNをとめるのだと考えていました。しかしいざ私がNと対面したとき、私がNにかけられる言葉など何一つありませんでした。そもそも私は何故Nが自殺を選んだのかすらろくにわかっていないのです。思い出のない空虚な私は人生の素晴らしさを説くことなどできやしないのです。人生が素晴らしいかどうかすら疑問で、私は私すらろくに生かせやしないのに、Nの人生に責任を持つことなどできない、Nが何を感じ何を思ったのか知らないし、たぶん話して貰ったとしても理解できない。私には何もなかった。

 だから私は自分勝手にどうでもいいことを言うよりほかなかった。自分を話すしかなかった。まるで連載を引き延ばすため間延びした展開が続く漫画みたいに、だらだらと話すしか。だけど私はそれすらも独力じゃできなくて、借り物ばかりを話しました。まあ、ただ作中のギミックとして、私の話は、逃げてもいい(海外旅行)、恋愛にこだわらなくていい(純愛青春モノ批判)、好きなことでもすればいい(YouTubeでラップを聴く)とNがくみ取れるに配置し、後にNがワーキングホリデーでニュージーランドに行く布石としてはいます。

 正直、こんなことで私がNを救うことができるのか、ささやかには自信がありませんでした。けれど、あほ面していつもどおりにぺちゃくちゃ喋ってくれる人間がそばにいてくれるだけでも、暗がりから少し出ることができるのではないかと思ったのです。

 ちなみに、それからご飯のチョイスが焼肉なのは、ミドリカワ書房の「ごめんな」のオマージュです。やっぱ、こういうときは肉でも食って元気ださなきゃ。ですよねと思って。


③その後

 だいたい予想どおり書きましたが、私とNの関係だけはかなり悩みました。かつての親友に戻ることはありえないだろうと思い、最初は今までどおり疎遠のままとしました。それが私に相応しいだろうと。しかし、私とNにとっても大きな出来事があったにもかかわらず、何も変わらないのはかえって不自然でそぐわない。まあぼちぼち会うこともあるくらいが順当なのだろうと翻意して、二人の仲はプラス方向に動きました。それにあわせて私はNの写真をみて微笑みました。






 この物語を、ひいては私をどのようにとらえるべきか、書き終えてなお葛藤がありました。Nに死んでほしくない、生きてほしいという思いは確かであれ、それは単に私のためであるのか否か。もちろん私が純粋無垢な人間ではなく、エゴと心の間を揺れ動く人間であることはわかっていますが、私の語りをそのままストレートに受け入れるなら、私は確かで綺麗な思い出がほしく、Nに生きてほしいのは綺麗な思い出を手に入れるためとも捉えることができるから。

 けれどもTwitterの感想や講評を読み、私を肯定してもよいのだと、ささやかもわかりました。特に講評を読み、それまでの感想とあわせてようやくホッとしました。ホッとしたというか間違ってなかったと思った。この小説を書くことは、自身のエゴの発露にすぎず書くべきでは公開すべきはないのではなかろうかというどこかにあった罪悪感がぬぐえた気がした。この小説は届いてくれていて、ささやかはNをとめることはできなかったけれど、もしかしたら誰かにとってのNを、いつか誰かが救えるのかもしれないなら、手をのばすことができるかもしれないのなら、それは意味があることだと、価値があることだと、そう思ったのです。

 だから皆さん、ありがとうございます。そう思わせてくれて。


 

 もちろん小説を書いて賞に出した身としては、大賞とれなくて悔しいって思いも勿論ありますが、それはそれ、これはこれで、これまで書いたとおり、ささやかのNへの弔いとしては、別にそこまで必要なく、もう十分なのだとわかりました。それでいいのだと思います。

 満足です。まあ欲を言えば、これで賞とかを取れれば、ばーんと胸を張って言えるかなとは思っていましたが(笑)。

 と最後に小説を書く人間としてのエゴを出してみたところで、後記はこれで筆をおきます。 

 以上、ささやかでした。

 

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