閉じた小説
ともすれば私は閉じた小説を書いてしまう。閉じた小説になってしまう。
ここで言う閉じた小説とは、読者を想定していないような、読者に理解してもらうことを放棄しているような小説だ。最近完結させた人を殺せば幸せになれる(https://kakuyomu.jp/works/1177354054896182877)なんて、まさに閉じた小説だ。
そういう閉じた小説を書くとき、私は、意味を、因果を、理由を、説明しない。説明する必要を感じないからだ。不条理であっていいし、不可解であっていいやと思ってしまう。自分のなかにある何かを適切に加工して、読者に伝わるようにするより、その何かをそのままくりぬいて文章にしたいと思ってしまう。
別に小説は全てが全て読者のためでないといえば、まあそれは道理であるし、自分のための小説であっても良いと思っているが、しかしそれは間違っているとも思う。間違っているという言葉が強いなら、それは行き止りであると言い換えよう。自分をくりぬいた自分に宛てた小説を書くことは、さながら蛸が己の足を齧るようなもので、一時的には満たされるものの、そこに行き詰った飢餓を本質的に解消する突破口は存在しない。
無論、閉じた小説が全く読者に届かないということはなく、私の閉じ方と共鳴してくれる読者は多くは無いがいるだろう。それは喜ばしいことだ。その意味で、閉じた小説を否定することは自己否定にも他者否定にも繋がる行為であり、私は否定を望まない。だが、私は閉じた小説によって認められたいと思っているが、同時にそれは困難だと認識している。
閉じた小説を書き続けると、どんどん自分が閉塞していくような暗い気持ちになる。理解されない、理解できない自分がいるということが嫌になるし、まあそれしかないのだとも思う。別に趣味なんだから閉じてようが開いてようがどっちでもいいだろ、好きにやれよってはそのとおりだが、そうやって進んだ先が袋小路であるとわかっていながら、突き進めるほどの果敢さは私にはない。創作は作り手の人生において如何程の価値があるのだろうか。大抵はコストパフォーマンスに見合っておらず、人生の空費となり、そんなことをするくらいなら創作を止めて普通に適合する努力をしてより社会価値を獲得し、労働とか結婚とかして余暇を過ごす方がよっぽど有意義で相対的な人生になるのだろう。ある意味、私はそういう有意義な人生を過ごす能力がないから小説を書いているとも言えよう。
要領を得ないことを縷々と書いてしまっているが、つまり、私は閉じつつある己を感じている。完全に閉じてしまう前に私は開いた小説を書いてみたいと思う。外に出たいと思う。たとえば恋愛やバトルといったエンターテインメント性は、創作を読者に開く要素であると感じるが、残念なことに私は小説を開くのが苦手だ。だから最終的に私が開くことは難しいのかもしれないな、と少し憂鬱にもなる。
要するにこれは意味のない愚痴の類だと思われるので、畢竟、答えは無い。
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