Q10 ささやかの詩は何に影響を受けていますか?【形式編】

 【反現実アンチ・リアル】ささやかです(藤原祐っぽい感じに)。最近ちょっと心が乱れているのでよくないですね。


 さて。前回に引き続き詩のお話をしませう。

 現在投稿している詩集は「汚れた靴底で人生の細片を踏みにじる」と「失った人生の細片を指おり数える」の人生の細片シリーズです。ちなみになろうでは「薄っぺらな人生の細片を両の手で掬う」を投稿してました。削除されちったけど。

 この人生の細片シリーズは、小説とほとんど変わらない文章形式であることが大きな特徴の一つですが、最初からこの形であったわけではなく、むしろ前回書いたとおり歌詞から詩に入った人間なので、歌詞調な感じが多かった気がします。

 しかし、それだと自分の思うことを書き切れていないなあという思いを抱えていて、そんなときに読んだのが最果タヒです。

 そう、私の現在の詩の形式は最果タヒの影響を強く受けているのです。彼女の詩を読んだ時、正直何言っているのか全然わかんないけどなんかわかると感じ、こんなふうでいいのか、そして普通の詩の形式にこだわらなくてもいいのかと、蒙が啓けた思いでした。それから私は人生の細片シリーズのような形式を基本として書くようになったわけです。

 もっとも、最果タヒの詩と私の詩を読み比べると形式すら全然似てないんですけどね。近づいたつもりなのに、距離は開いているという不思議。私、文章冒頭はひとマス空けるし。

 たぶん野狐禅とかamazarashiのような陰鬱要素がかぶさっているせいだと自分では思っています。


 今後の目標としては今レベルのわかりやすさを維持しつつ、もう少し詩の要素を強めたいと思っています。ただそうすると詩がぼやけることが多いのでまだまだ精進が必要だなと思ってます。でも考えてみればそりゃ当然のことで、何故なら詩にするということは抽象化するということだから。つまり私がやろうとしていることは明確な抽象化というような感じのなんか矛盾してないってことな気がしますが、とりあえずもうちょっとくらいは進める気がするんだよなー。


 とりあえず今回はこの程度で。

 次回は何にするか未定です。ではでは。

 

 

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