旅間一杯酒

きし あきら

一杯目 日本酒「手取川」/金沢市

 (平成三十年八月某日。)

 (はじめて訪れた金沢での「一杯」――)


 「ちょうど降ってきましたよ」

 カウンター越しに店のひとが笑む。見ると、いわゆる木虫籠きむすこづくりの窓の向こうで、桜の葉が濡れていた。

 「金沢はこんなことが多いです」

 付け足された言葉に頷く。わたしはある意味で幸運だと思うことにした。旅に出る前に調べたこと――弁当忘れても傘忘れるな――の実際に遭遇できたのだから。


 ここは金沢市主計かずえまちの一角。浅野川沿いにある、とある町家フレンチ店のなか。聞こえ始めた雨音に合わせて川沿いの桜葉が揺れている。

 時刻は午後五時過ぎ。こんな天気でも、時期柄、外はまだ明るく見える。先ほどまで食事を楽しんでいた二組のお客はそれぞれに席を立ち、店内はわたしとカウンターを挟んだじょ店員てんいんだけの空間になっていた。


 午前中に犀川さいがわ、午後からは浅野川近辺を散策したのち、宿へ戻る前の「ひと息」を求めて立ち寄ったのがこの店だった。

 少し掛けるだけのつもりでいたのに、軽食と加賀かが棒茶ぼうちゃと、それから地酒とを頼んでしまったのは、金沢という土地と、この店の持つ雰囲気が導いた自然だろう……。


 清酒『手取川 大吟醸生酒 あらばしり』


 石川県白山市に蔵を置く『吉田酒造店』醸造。

 グラスに注がれたお待ちかねの一杯。一口いただくと、しつこさのない甘みが喉を通りぬける。飲みやすいだけでない、さっぱり、しっかりとした香りもある。

 金沢を含め、石川県では和菓子などの甘いものが好まれると聞く。実際、旅行中に味わった銘菓は上品なひと時を与えてくれた。このお酒も、そういった位置にあるのではないか……と想像してしまうのは、おともが加賀棒茶だからだろうか。(このお茶も非常に香ばしくて美味しかった)


 疲れを忘れ、店員との話に花が咲く。金沢文学の地を辿りたいと思い時を過ごしたこと、いくつかの記念館や情緒あふれる数々の坂を訪れたこと。……

 聞けば彼女も読書が趣味で、図書館にも通うという。お互いに好きな本を紹介し合い、それを手帳に書きつけ、必ず読むと約束をした。


 しばらくして、雨上がりと新たな来客とを期に席を立つ。ありがとうございました、と贈られる笑顔。こちらこその気持ちで答える、ごちそうさまでした。

 浅野川沿いへ出てみれば、空は半分晴れかかって雲を赤くしている。西の空には三日月まで覗く。好い時間……。金沢の夕暮れのなか、宿への歩をすすめた。

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