第5話 五日目

 翌朝。起きて手早くスパゲティを作った彼は、干していた荷物をまとめて、出発した。もう五日目ともなると慣れたものだ。最後にもう一度、小屋にいた人達に感謝の挨拶をして彼は小屋を後にする。




 天気は、雲ひとつない快晴だった。これまでの苦労をお天道様が見ていたのだろうか。昨日降りてきた方も避難小屋の裏手にそびえる美瑛富士も、山肌がくっきりと見える。




 今日は十勝岳に登って下るだけだ。美瑛富士を巻きながら、気分良く歩いて行く。後ろの方にはトムラウシ山に石狩岳がくっきりと見えていた。朝露に濡れた道も、これまでに比べれば天国のようでキラキラと美しい。




 ゆるりと巻き終わると、美瑛富士と美瑛岳の間の鞍部だ。ここから美瑛富士を往復できるが、流石に寄り道できるほどの体力は残っていない。彼は美瑛岳へ登り始めた。


 やっぱり登りはきつくて、途中で一回休憩したが、眺めは今までの登山人生でも一二を争うほど良かった。展望がよければ、足の疲れを忘れてしまう。彼は楽しそうに登っていった。




 登り切ったところは美瑛岳の火口縁。向こう側に、十勝岳がその美しい白い錐のような頭をもたげている。右の方には白煙が立ち上り、現役の火山であることを実感する。




 そして、足元すぐ下には大きく切れ込んだ美瑛火口がその怪異な口を広げている。足元200mは切り立っていて、それが円形に十勝岳の前まで続いている。風化の作用だろう。十勝岳より荒々しい姿を晒していた。






 右に行けば美瑛岳山頂、左に行くと、火口縁を通って十勝岳までいける。そこまで手間でもなさそうだったが、彼は早く降りたかった。




 山頂は無視して左に下る。見た目はなかなか険しいが、歩いてみると、そうでもなかった。昨日のオプタテシケがひどすぎたというのもあるだろう。彼は火口のそばの砂地を意気揚々と歩いていった。






 途中で登山者とすれ違う。トムラウシとの間の昨日の山域と違って、こちらは登山者が多いようだった。さらに4、5人とすれ違う。




 降り切って、十勝岳の上りとなった。木は一本も生えていない。草すらひとつもない。火山という前情報がなければ、火星と思ってしまっても仕方がないほどの荒涼とした大地が広がっていた。




 雪が爪のようなあとをつけている斜面も、谷のような形状が見て取れる斜面も、全てが火山の砂礫で覆われて灰色だ。下りはともかく、登りは滑りやすくて仕方がない。




 それでも空は真っ青で、左を見ればニペッソ山まで見えている。




 平らな砂地を気持ちよく歩いて、最後の登りを登り切れば、岩の積み重なった十勝岳山頂だ。9時だというのにたくさんの人がいて、人気のある山であることがよくわかる。




 彼はホッと一息吐いて、重いザックを岩の上に下ろした。天気はやっぱり最高だ。南に夕張山系、南西に日高山脈。東にニペッソ山。北東に石狩岳とトムラウシ山。


 オプタテシケ山は美瑛岳の上にちょこんと見える。


 そしてその左には、初日に踏破した大雪山系。ひときわ大きい旭岳が西に張り出しているのが見える。あそこからここまで全部歩いてきた。それを痛感した。達成感が溢れ出る。たまらない。歩き続けて、本当に良かった。


 最後に西に目を向ける。美瑛と富良野の平野があるばかりだ。⋯⋯いや、あの富士山に似た山は、日本百名山の一つ。羊蹄山じゃないか。まじか。結構な距離あるぞ。どれだけ天気いいんだ。




 なお、帰ったあと、男が調べた情報によると、十勝岳と羊蹄山の間の距離は180kmほどだったそうな。




 これは一年にあるかないかの好天だなどとベテランらしき登山者がしたり顔で言っている。なんでも、十勝岳は雲がかかりやすく、下では晴れていても山の上では何も見えないことも多いらしい。ここまでたどり着いたご褒美だろうと彼は思った。自分本位だ。これまでの苦労を考えたら、許してあげるべきことではあるだろう。60kmの縦走をこなしてきたのだ。




 20分ほどまったりしていたが、山頂は登山者で混雑し始めた。迷惑をかけるつもりはなかったので下山を始める。ここからは南の尾根を降って、十勝岳温泉に下山する。最終日はそこで疲れをとるのだと、彼は固く決めていた。




 十勝岳からの下りはいきなり急坂だった。これまでの山行で膝に深刻なダメージが入っている。跳ねるように降りることなどできない。ゆっくりと、膝の痛みと戦いながら降りて行く。そこには初日の元気一杯だった彼の姿はなかった。今の彼は戦から帰る疲れ切った兵士のよう。景色を眺めながらゆっくりと歩いていく。自分のペースを守れているのは賞賛されるべきだろう。




 右手は爆裂火口跡となっていて、切り立った崖となっている。特徴的な鋭い岩なども多く、飽きさせない。




 遮るもののない尾根道は、縦走の醍醐味とでもいうべきもの。彼は満喫していた。




 上ホロ避難小屋でトイレを借りて、道の続く上ホロカメトック山を見上げる。見るからに急な坂道だ。巻道もあるのでできれば登りたくはない。だが、彼の父が、あの山の頂上から見る十勝岳の写真が欲しいと連絡してきていた。




 最後の最後だ。彼は元気を奮い起こして、登り始めた。




 思っていたより登りは短かった。斜度が急すぎて、手を使うことができたのが短く感じた要因かもしれない。足はもう限界だが、腕はまだまだ元気だ。




 上ホロカメトック山から見る十勝岳は彼の父が言うだけあって、見事だった。まあ、彼は内心、美瑛岳からの方が良かったなどと考えていたのだが、ご愛嬌というやつだろう。時間が経って、雲が湧いてきたというマイナス要因もあった。


 上ホロからは降って、少しだけ登れば上富良野岳だ。当初の山行計画ではこの先の富良野岳まで足を伸ばす予定だったのだが、流石に体力の限界が来ていた。時刻は11時前。全然時間はあるが、これ以上登る元気は湧いてこない。






 登山靴を脱いだ。相変わらず水に濡れた靴下が現れる。気持ち悪いことこの上ない。時間もあるしということで、彼は靴と靴下を日光に当てて乾かし始めた。その間は日向ぼっこをしながらの昼寝だ。もうあとは下るだけということもあって、なんの憂いもない。非常に気持ちが良さそうだ。








 彼が起きたのは12時を回った頃だった。1時間も昼寝をしたことにショックを受けたが、気持ちよかったからということで納得する。




 靴下もかなり乾いたようだ。準備運動をちょこっとやって、D尾根を降り始めた。


 のっけからかなりの急坂で、奇岩もたっぷりある岩尾根だ。十勝岳山系ならではというやつだろう。すぐに膝の痛みがぶり返す。1時間の休憩程度では4日間の疲れが取れるはずもなかった。


 少しだけ緩やかになった場所もあったが、そこを過ぎると今度は木の階段が急傾斜の登山道に取り付けてある場所を通過した。こんなに整備をするのなら、双子池のあたりをもう少し何とかして欲しい。そんなことをぼやきながら膝の痛みに耐えつつ下る。






 富良野岳からの下りと合流してしばらくすると、崩落跡とでも言うべき白い砂地が山の上から続いてきているのが見えた。ここが一般観光客が来る最奥地。ここから十勝岳方面の噴煙を眺めて火山の力ってすげー見たいなことを言うのだろう。




 彼の思考はすでに山に毒されている。5日間も山の上で過ごしたのだからある意味当然かもしれない。




 とはいえ、あれが見えたと言うことは、下山口まであと少しだ。








 此処を先途せんどとばかりに、非常食として持っていたカロリーメイトさえ食べ尽くして、彼は最後の力を振り絞る。もう緩やかな下りに過ぎないが、それでも疲れ切った身には酷だった。




 ようやく、着いた。十勝岳登山口。その看板を確認した彼は無言で片手を天に突き上げた。誰もわからなくていい。彼だけの勝利宣言だった。






 降りたからにはいいところに泊まるぞと、十勝岳温泉凌雲閣に宿泊することにした。




 いつでも温泉に入って構わないと言うことだったので、部屋に落ち着く間も無く風呂へ向かう。




 露天風呂は山の方に向かって大きく開いていて、今日歩いていた山が、雲に覆われているのが見える。あれから天候は崩れたらしい。




 思う存分手足を伸ばした。山の後の温泉は通常の十倍は気持ちいい。彼の持論であり、多くの登山者も同意するだろう。夜ご飯を食べたら、また入ろう。




 そう決めて、部屋に戻った彼だったが、余りに疲れていて、夕食後は布団に直行していた。18時前就寝が癖になってしまったらしい。





 翌朝。いつものように5時に起きた彼は温泉に直行した。いつでも入っていいと言っていた割に、この時間には対応していなかったらしく風呂はぬるく、普通に入っていたら風邪をひきそうだった。




 昨日の夕方にもう一度入らなかったのを後悔しながら、彼は朝ごはんを食べた。しっかりとした食事は五日ぶりだ。とても美味しかった。






 8時にはバスに乗って、上富良野駅へ。実習は12時に富良野駅集合だ。なんとか間に合わせることができた。予備日くらい取っていたらよかったかも。そんな反省をする彼を乗せてバスは出発する。








 後ろの十勝山脈は、昨日の快晴が嘘のように白い雲の中だった。








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大雪山十勝岳縦走記 石化 @sekika

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