第4話 四日目
この場所の標高は2000m近い。この山行の中でも一番高いキャンプ地だ。気温は推して測るべし。その上寝袋は雨で濡れている。
必然。彼は目を冷ました。まだ暗い。だが、ひどく冷えている。なんだかお腹が濡れている気がする。寝ぼけ眼で探ってみると、カイロがわりにしていたフリーズドライの容器が破れて、中の水をぶちまけていた。
もはや怒りも湧いてこない。
ただ寒い。
かじかんだ手でライターをつけ、バーナーを燃やした。できるだけ燃料は節約するはずだったが、背に腹は変えられなかった。
スマホを見つけてつけてみる。時刻表示は三時前。草木も眠る丑三つ時。だが、もう眠れる気はしなかった。
寝袋にくるまっているだけで死んでしまいそうなほどに寒い。なら、動くしかない。エネルギーを熱に変換しなくては。
彼はスパゲティを作った。朝ごはんだ。さらに寝袋をたたんで、荷物を整理。外に出る。幸い雨は止んでいた。曇り空で星ひとつ見えやしない。そんな真夜中に彼はテントを解体する。
朝露のおりる前だが、テントは昨日の雨で濡れている。仕方がない。金属製で死ぬほど冷たいペグを引っこ抜き、フライ、テント、グラシを収納。
手早く撤収を済ませ、ちょっとラジオ体操をして体を温める。
四時前。4日目の山行がスタートした。
今日は無理をしてでも美瑛避難小屋を目指すことにする。もうテント泊まりは嫌だった。
美瑛避難小屋まで17.8kmという標識にしょっぱなから戦意を挫かれながらも、彼は小さな一歩を踏み出した。
最初は下り道。雨が降っていない分だけ歩きやすい。じきに南沼が見えてくる。ひさご沼ほどではないが、それでも霧で対岸が見えないほどの大きさがある。少しだけ写真を撮った。
少しだけ登ったり下ったりしたが、基本的に平らな道を歩いてゆく。南側は断崖絶壁、北側は草原だ。大雪山はこのような地形が多い気がする。霧が静かに峰にまとわりつき、幻想的な風景だ。雨風がないだけでこれほど落ち着いて見ることができるとは。
とはいえ、今日の道のりは長い。じっくり楽しむ余裕はなく、考えることはいつになったら三仙台につくのかということばかり。あの登りが終わったらきっと三仙台だ。そうに違いない。
昨日もトムラウシで同じことをしていた気がする。いい加減学習して欲しい。目的地にはなかなかつかないものなのだ。
それでも6時前には三仙台についた。ここでは、トムラウシ登山道が分岐する。朽ちかけた標識があった。
美瑛富士まで15.6km。オプタテシケ山まで10.5km。全然近づいた気がしない。
雨がパラパラと降り始めた。すでにレインウェアは着込んでいる。例に漏れず展望はないが、行くしかない。
三仙台からは下りだ。ここから標高1600mあたりでアップダウンを繰り返す。縦走ならではの道となる。目立った山はないのに、累計標高差はかなりのものになるため気の重い道だ。
すぐに道が笹に埋もれた。なんとか切れ込みがある気がする。足下は見えないが、必死に笹をかき分けて進んでいく。足元が見えないと危険は高まる。道の上に倒れている小さな倒木ですら、姿の見えない凶悪な障害物に早変わりだ。
彼は何度か足を取られ、転んだ。地面はぐちょぐちょでその度にひどいことになる。気落ちしながらも進んで行く。
時々晴れ間ともいえぬ晴れ間が広がる。少しだけ雲が切れているのだ。そうして向かう先の峰が目に入る。特に足を運びたいとは思えない山容だが、道はそちらへ続いている。
ここもまたクマ多発危険地帯だったなと彼は地図を思い返す。なるほど広葉樹が多くて餌も多くありそうだ。ザックカバーをしているとせっかく買った熊よけのベルは鳴らない。濡らさないためには仕方ないとはいえ、無駄な重量だったかもしれない。
登って降りて、道が笹の中に埋もれてを幾度となく繰り返す。普通の道ならばあるはずの赤テープすら一つもなくて、本当にこちらでいいのか疑心暗鬼に陥ってしまう。
ハイマツ帯に出ると、やはり風が吹いている。昨日ほどではないが、やはり厳しい風だ。
標識も一つもない。ピークはいくつもあるのだが、名前はついていないようだ。次の目的地は双子池キャンプ場になるのだろうか。コースタイムでいえば6時間半。12時前に着いたら御の字だろう。
何度目ともしれぬ下り道。
正面に大きな岩が見えた。高さ5m、横幅10mはありそうな岩だ。これは確かカブト岩。言われてみればカブトみたいに尖った形をしている。
地図には大岩の基部を巻くと書いてあった。どちらから行くのかわからなかったが、右を進むと岩を乗り越えて暗い地面の露出したところに着いた。先も笹が密集していたが、続いていそうだった。
ここを越えたらあとは双子池キャンプ場まで下り道だけだ。彼は途端に元気になった。
とはいえすでに10時前。6時間は歩いている。笹が覆っているのもあってなかなかスピードは上がらない。その上、道もわかりずらい。カエデ類の木本が心持ち少ないように思える方向に行く。下の溝もその方向に曲がっている。多分。大丈夫だ。
笹の上からでは、もうどこが正解なのかわからない。全てが平等に笹の海の中だ。
笹の背丈も大きくなって今は腹のあたりまで伸びている。歩きにくい。
もちろん霧が取り巻いていて、展望でどこにいるのか知ることもできない。今日いちにち誰にも会っていないこともあって、ひどく不安だった。
そして、さらなる悲劇が彼を襲う。踏み出した足が地面に着かない。いつもの段差だろうと、無理やり先に出す。ばしゃり。嫌な音がした。
この気持ち悪さは、水だ。笹を掻き分け下を覗くと、溝にたっぷりと水が溜まっていた。笹の上からではわからなかった。これは本当に登山道なのだろうか。
仕方なく避けて歩く。だが、そこすらも滑る上に、適切な道がない。なんども水の中に落ちて、彼は諦めた。水の中を進む決意をする。彼の装備は決して沢登り用というわけではない。ひどいことになるのは目に見えている。それでも、行くしかなかった。
だが、そうして歩き始めた途端、溜まった水の深さが変わる。ついに足首まで完全でつかるほどの深さになった。これはさすがに無視するわけにもいかない。
難儀しながら進んで行くうちに、彼は嫌な予感に見舞われた。ひょっとして、これ、迷ってないだろうか。そんな予感だ。
登山道を表す赤色のテープはどこにもなく、登山道のはずのこの道は、道というより沢だ。途中で本当の登山道が別れていることに気づかないまま進んでしまったんじゃないだろうか。一旦悩み出すと、もう、そうとしか思えなくなってきた。
だが、ここまで7時間近く歩いてきている、今更引き返す元気はない。彼は、沢の横のしっかりした地面に上がって、地図を見ることにした。そこらの笹を折ってスペースを作り地図とコンパスを付き合わせる。
地図の道の方向とコンパスで判断できた方角は信じられないことに一致していた。彼は首を捻った。どう考えてもこれは道じゃないのだが。
それでも方角が同じなら、いつかは登山道につくはずだ。致命的な間違いにはなり得ない。
そう判断して、笹に覆われて見えない沢の横をなんとか通って行く。昨日今日と雨が降っていなければもう少しましだったのだろうが、天気のことをぼやいても仕方ない。
降って降って、下り切ると、ひらけた場所に着いた。そこにあったのは川だ。今まで辿ってきた沢はその川に合流している。ここでようやく、人の痕跡を見つけた。誰かの足跡だ。川の中洲を横切るようについている。本当に正解の道だったのだろうか。まだ、わからない。
その足跡を辿って行くと、沢の登り口へと続いていた。
少しだけ天気が良くなって、向こうの山肌が見える。あの山を越えなくちゃいけないんだから、登るのは間違いじゃないだろう。足跡を信用して彼はそこを登り始めた。
そこもまた、沢の上を笹が覆い隠すいつものスタイル。いい加減嫌になってきたが、ワープができるわけでもないのだから、何も考えずに歩いて行くしかない。歩いていさえすれば、どこかにつくことはできるのだから。徒労感をそんな考えで覆い隠して、彼はまだまだ終わらない道を進んで行く。
ついに、沢を抜けた。着いた場所は、ひらけた岩場と砂地で、その上を水が流れて沢の中に入っている。下を見下ろすと、双子池と思おぼしき水がキラリと光っていた。
休憩にして地図を取り出す。オプタテシケの山肌と、双子池。その材料から推察できるのは、このひらけた場所が双子池キャンプ地だということだった。何一つ看板はなくて、確信はできなかったが、おそらく正しいだろう。
こんなところにテントを張るのか⋯⋯。彼はそんなことを思いながらそこを見渡す。お世辞にもいい場所とは言い難い。地面は傾いてるし、水が近すぎて大雨のあと浸水するのが目に見える。
本来であれば三日目はここをキャンプ地とする予定だった。彼は、これまでの道のりを思い出して昨日の無理をしないという判断が正しかったことを確信した。長くて辛い道のりだった。暗くなってあの沢の道を行くことになっていたらと考えるとゾッとする。
「さて。」
彼は元気を奮い立たせるように声に出した。目線を向けた先には険しい山肌。オプタテシケ山の登りだ。上の方は雲に覆われて見えないが、見えてる部分だけでもその傾斜のほどがわかってしまう。地図で確認すると高度差ゆうに600m。等高線の間隔は非常に狭く、どれだけの急登なのか簡単にわかってしまう。
この疲れ切った体で登れるのか。一瞬気弱になる彼だったが、ここを越えないと、山小屋にはたどり着けない。一歩ずつでも進むしかないとわかっていた。
歩き出す。のっけから急登だ。ナキウサギの声がする。岩の折り重なった部分と高山植物の草原がモザイク状に山肌を彩っていた。一応の晴れ間もあって、1日目に次いで眺めがよかった。きつい登りも休憩しながらだと苦にならない。疲労仕切った体をだましだまし登って行く。
雲の領域に入ってきた。視界が閉ざされる。あいも変わらず登りはきつい。その上、西の方から酷い風が轟々と吹いてきた。雨が伴っていないぶん昨日よりはましだが、風の強さ自体は昨日より強い。疲れ果てた体に追い討ちをかけるようだ。
見えている限界の高さまで登っても、まだまだ続きはあるようでいつ果てるともしれない。
登り続けてようやく山頂らしきところについた。途端に風が強くなる。山で遮られていた向かい風までもが吹き付けているからだろう。先の方は釣り尾根が続いている。左右に切れ落ちていて、少しでも足を踏み外したら下まで真っ逆さまだ。
そんな場所を風が吹き抜けて行く。ハイマツは不安になる程大きく揺れ、ガスもあっという間に流れて行く。風でバランスを崩したら最後だ。滑落死というシャレにならない結果が待っている。
彼は身を屈めながら歩き出した。重心を下にして吹き飛ばされないようにという構えだ。その目論見は正しく、よろけることはなかったが、当然、歩くスピードは落ちてしまった。
釣り尾根は続く。てっきりさっきの場所が頂上かと思っていたのだが、まだまだ高い場所はあるらしい。体力はもうほとんど残っていない。そのなけなしの体力でさえ、容赦のない風が奪い取って行く。彼は気力を振り絞って歩いた。
ようやく登りきった。オプタテシケ山という標識がある。だが、山頂らしく風が強い。証拠写真とばかりに雲を背景にしたものを一枚撮ると、彼はさっさと歩き出した。
なおも風は強い。東斜面を行けばいいものを、西斜面の風の吹き付ける方に登山道は続いている。ぼやく気力もなくて、のろのろと足を前に出し続ける。ザックの重みが肩にかかっていることを意識してしまう。
いつの間にか道は下り坂になった。あとどれくらいだろうか。もうそろそろ美瑛富士避難小屋についてもいいんじゃないだろうか。地図を取り出す気力もない。降ったことで少しだけ風が弱まったことが救いだった。
平地になる。白い石が散らばった草原だ。平坦になったことに安堵した。このまま、これで行けさえすれば。
しかし、道は登りに変わった。急な坂が上へと続いて行く。もう、登りたくない。そう思っても、逃げ道はない。
暴風の中、全ては閉ざされて灰色。一日中、一人の人間の姿も見えない。圧倒的な孤独が彼を包んでいた。
朦朧とする意識の中で、それでも足を前に踏み出す。いつしか登りは終わって、ベベツ岳という標識が目に入った。今度こそ登りは終わりだ。祈るようにそう信じた。
先ほどと同じような道をだらだら下ると、また、平地についた。ゆっくりと歩いて行く。水が溜まっていないことだけが幸いだろう。
そして、また、登りが目に入る。先ほどのベベツ岳の登りと類似した道。それを見た彼にはもう、感情がなかった。絶望でも怒りでもなく、ただ淡々と登って行く。だが、それはやはり最後の登りだったらしい。山の横を巻くようにして、道はなだらかになり、平坦になり、ついには下り坂になった。
彼の瞳に希望が宿った。最後の最後であることが保証されたのだ。下り道は岩が多くて膝に多大な負担をかけたが、それでも彼の表情は明るかった。
下りきってようやく標識が見えた。三仙台以来、実に8時間ぶりの分岐標識だ。
そこを右にとる。草原の道を辿って行くと、美瑛富士避難小屋の姿が見えてきた。
小屋に上がって、大きく息を吐いた。中には10人くらい人がいて、こちらを見つめてきたが、気を使う余裕はなかった。濡れた服や靴下を干して行く。寝袋はなおも濡れたままだ。
ポタリポタリと水滴が垂れる。そのまましばらくぼうっとしていた。
いつの間にか、彼は小屋の中にいた人たちと打ち解けていた。事情を話したところ、それは大変だっただろうと、食料や水を分けてくれた。カップ麺に、惣菜、パンの丸々一個。嬉しくて、涙が出そうだった。寝袋が濡れているのを見てカイロやシュラフカバー、小屋の中にあった寝袋も融通してもらえた。無理を通してここまで歩いた甲斐があった。彼はひたすらお礼を言った。
「気にすることはないさ。もともと余っていたものだからね。」
そう言って80歳近いというおじいさんは笑う。彼は、歳を重ねたら、この人のように無謀な山行をしている若い人に食料を快く分けることができる人になりたいという憧れを抱いた。将来の夢というにはささやかだが、それでも彼の中に確かに宿った光だった。
泥のように眠った彼だったが、夜中、物音がして起こされた。
誰かが入ってきたらしい。今頃山小屋に着くなんて、無計画にもほどがある。内心バカにした。彼自身を棚に上げている。本当なら、もっと食料を持ってくるべきだったのだ。どれだけ分けてもらったと思っているのだろう。
食料を分けてくれたおじいちゃん達のパーティが対応しているようだった。何とは無しにそれを聞いていた彼は、その内容に驚く。
その夜中に山小屋に入ってきた男は、旭岳からトムラウシを通ってここまで1日でやってきたのだという。テントを担いでいないとはいえ、彼が4日かかった道のりを1日で、だ。世の中には信じられないほどの体力を誇る人もいるということを痛感した。
トムラウシからここまで先行者の足跡に助けられたという話に誇らしさを覚える1幕もあったが、最後まで聞くことなく彼は意識の闇の中に落ちていった。
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