第3話 三日目


 起きたのは前日と同じく四時。




 周りの物音に目を覚まされた形だ。




 伸びをすると、外に出て、トイレと水汲みを済ませる。トイレは台風で壊れたらしく傾いていて、人一人なんとか通れるくらいしか開かない。




 幸い、雨は小降りだ。このままで続いてくれることを願った。




 外国人の夫婦は今日は一日動かないらしい。天候が回復するのを待つとのことだった。彼は山行後に予定が控えていたため、出発することを決意した。今日の行程予定は12時間超。昨日よりも長く、縦走中最長になるはずだった。




 この天気でその距離を歩くのは流石に厳しい気もしたが、とりあえず次のテント場まで行くことにする。できるだけ距離を縮めておきたかった。






 雨は相変わらず降っていた。山に囲まれた地形だからか、そこまで風は吹いて居ないことが救いだ。




 山小屋の人々に別れを告げて、彼は出発する。




 最初はひさご沼の右側をぐるりと回って行く。木道がある上に道もはっきりしていて、昨日の苦労はなんだったのだろうとひとりごちた。




 道が沼から離れる。氷河なのか残雪なのか、大きな氷の山肌が谷を埋めていた。




 そちらへ向かって道は続いている。




 岩には赤い印が転々と付いていて、ロープもある。迷うはずがない。彼はそう過信していた。




 だが、道が途切れた。雪渓の中へ突入するようにケルンを残して、もうどこにも印はない。どうも雪渓上に足跡があるような気もするが、アイゼンを持ってきていなかった関係上、斜度が30度はありそうな雪渓を登れるとは思えない。それに、よく見たら右側に踏み跡がある。なんだか道が続いているような気がする。




 彼は、右に進路をとった。






 右側は大きな岩に中くらいの岩が積み重なった崖となっている。そこを通る道は、岩の上に微かに見える気がした。






 彼はそれを辿って行く。天候は悪く、先は見えない。印もやっぱりない。彼は、先ほどの雪渓で右にそれる道があり、それが正解だったのではないだろうかと考え始めた。思考力が低下している。地図を取り出せばいいものを。しかし、雨は強く、地図を取り出せばすぐにびしょ濡れになって用を為さないこと請け合いだ。




 彼は地図を取り出さずに、カロリーメイトで養分補給をした。できるだけ上部に出れば登山道と合流できるはず。彼の頭の中では、登山道じゃない道を通って大幅ショートカットできる俺カッケーの理論が生まれていた。バカである。




 岩がハイマツに飲み込まれた。少しだけ踏み跡があるような気がしてそこを通る。すでにガスは周囲を取り巻いて、左下にあるはずの雪渓さえ、全然見えなくなっている。




 見える範囲は四方10mがいいところ。それで方角がわかるはずもない。




 その上、いつもかけているメガネも雨で用を為さなくなっている。仕方なく外したが、極端に目の悪い彼の視力は0.1もない。なおさら視界は悪くなる。足元の岩の形でさえちゃんと判別できているか怪しい。




 上がると、石混じりの高山植物が絨毯のように生えている場所に付いた。少しだけ見える石が、登山道のなごりだと信じて彼は行く。いつクマがぬっと現れてもおかしくないような、人造物の見えぬ場所。登山道という痕跡さえ今は見つからない。




 それでも合流することを信じてひたすら高度を上げて行く。ハイマツ、岩場、高山植物地帯が交互に見えてくる。左に標識のようなものが見えた気がして近寄ってみる。残念なことに、ただの偏形樹となったエゾマツだった。力が抜ける。




 登山道というものは登山者の道しるべだ。そこをたどりさえすればどれだけ遠くても目的地につけるという安心感がある。




 だが、今の彼が行くのは道なき道。こちらの方が歩きやすいと自分で考え、選択し、踏み出す。そのプロセスはひどくエネルギーを消費する。




 高山植物に覆われていると見えた地形が沈み込む。穴がぽっかりと空いていた。幸いそこまで深くはなくことなきを得る。




 雨はまだまだ降り続く。徐々に思考力を鈍らせて、レインコートの上をうつ。風がそこまで強くないのが救いだろうか。




 休憩することが増えた。体力が削られているのがわかる。




 雨の中なんとか地図を取り出してみる。彼は自分の都合のいいように解釈しようとした。分岐は越えているはず。今登っているのはロックガーデンと呼ばれる場所への道だ、と。






 ロックガーデンというくらいなのだから、岩がたくさんあるはずだ。岩のある方に登ろう。




 すでに中腹で、他に選択肢がない。彼は心持ち右を意識して、歩き始めた。






 1時間ほどたっただろうか。彼はようやく登りきった。広い大地が広がっていた。中くらいの石がゴロゴロと、ガスって見えない100m先まで続いている。方向感覚がおかしくなりそうな場所だ。




 彼は覚悟を決めて、歩き出した。




 目印となるものがない。急に風が強くなって、体温を奪う。広大な石の大地を一歩一歩歩いて行く。この方向に登山道があると信じて。






 それを見つけたのは本当に偶然だった。


 岩という目印を目指した彼の前に、突然ロープが張られ区切られた登山道が出現したのだ。


 それは彼の目の前を右から左に横切っていた。登山道と交差したのだ。




 彼の気が抜けた。風が強くなった。




 このままでは体温が奪われるだけだ。どちらに進めばいいのかもわからない。体半分も隠れない岩の影に座って休憩を取ることにした。






 この岩では風はしのげても雨はしのげない。それでもなんとか行動食を口に入れた。濡れるのも厭いとわず、地図をだす。ここは日本庭園のはず。どこかは判然としないが、左に行けばトムラウシだ。右に行ってひさご沼に戻るという手段もあるにはあるが、まだ、やれないわけじゃない。左に行こう。




 確認した男は立ち上がった。正直なところ雨風は少しも弱まっていない。それでも進むしかなかった。




 しばらく大地の上を歩いた。進む方向がわかるだけで、疲労は桁違いに少なくなった。登山道の偉大さを実感する。




 下り道に入った。男は首をひねる。地図では日本庭園の先に下り道などなかったはずだ。嫌な予感がした。




 ハイマツ帯の砂礫道を降って、たどり着いた鞍部には標識があった。ひさご沼分岐という朽ちかけた標識が。本来なら30分で来れるはずだったここに、彼は1時間半かかってたどり着いた。そんな事実に頭が追いつかない。




 力が、抜けて行く。本当なら雪渓の先にルートがあって、そこを行けばよかったのになんてひどい遠回りをしてしまったんだ。疲れた。登山道についた時、左を選ばなかったのは幸いだったかもしれない。




 思考は後ろ向きと前向きを交互に見せてくる。だが、後ろ向きの方が強い。生来楽天家のこの男をして、この度の失敗は堪えた。




 ひさご沼に行くか。


 疲れた頭でそう考える。トムラウシ方面はまたも登り。ひどい登りだ。そちらに立ち向かう気力は湧かなかった。


 あの外国人の夫婦も停滞すると言っていた。なら全然悪い行動じゃないさ。


 彼は決めた。そして、ひさご沼に向けて出発する。


 最初の道は大岩がゴロゴロする谷の中。ちゃんと存在するペンキ印に安堵しながら歩く。




 ついで、草原。水で冠水している。その中の踏み跡を歩いて行く。




 また、大岩地帯を通って、キラキラと輝くものが見えた。ひさご沼だ。男は歓喜する。割と近かった。これならゆっくりできる。




 だが、近づいた男は自らの不明を悟った。遠目には池の水かと思ったそれは雪渓だった。




 彼は完全に理解した。あそこで避けた雪渓の最上部こそ、今ここで見えている雪渓だ。あの時、雪渓の上を歩くのは無理だとしても、雪渓の近くの岩を使って登っていれば、今頃はトムラウシのすぐ近くだっただろうに。思い返すと腹が立ってきた。




 もう、いいや。




 彼は、意味がわからない行動に出た。なんと、元来た道を引き返し始めたのだ。トムラウシに行ってやる。男の目の中にはそんな決意が燃えていた。やけっぱちというやつだろう。無駄な反骨心が芽生えている。






 先ほどの鞍部まで戻った。トムラウシへの道は見るからに急だ。霧で上は何も見えない。それでも行くしかない。彼は、一歩を踏み出して、再び登山が始まった。




 思ってたより、その坂は簡単だった。ただ、吹き付ける風雨が強まっただけだ。




 登り切ると、そこには奇怪な形をした岩が生えていた。ガスのせいでうっすらとしか見えないが、奇岩と呼んで差し支えない大きさと形だ。




 さらに木道の上を進むとまたひとつ。さらに二つ三つ。どれも特異でどこか心惹きつけられる形だった。なるほどこれが日本庭園というやつなのだろう。




 もっとも彼は、風雨を防ぐ盾としてしか認識していないようだった。無理もない。彼の精神はすり減っている。景色を楽しむ余裕はあるまい。その前に景色すら見えないのだから。




 ひさご沼分岐からトムラウシまでのコースタイムは2時間。昨日はコースタイムを2時間縮めて小屋に着いた男だが、予告しよう。今回の道は桁違いに厳しい。彼がトムラウシに着くまでにかかった時間は3時間半だ。




 吹き付ける風と雨に体力を奪われながら、壊れかけた木道を行く。ほとんど用をなしておらず、水に満たされた登山道が続いていく。なるべく避けながら、歩く。




 残雪の溶けてできた沼。晴れていたら非常に綺麗であろう光景。だが、今気にしなくてはならないのは、その沼の増水で道が川となっていることだけだ。




 どう見ても登山道を使用することはできない。両脇の岩を伝ってなんとか歩く。






 またひとつ、そんな沼を見つけた。晴れていればどれだけよかったことかと繰り言を繰り返す。




 沼から道は南へ伸びていた。沢のようになった道を登って行く。尾根の上だというのに沢ができている。




 それに気づくこともなく彼は進む。




 徐々に、人の手が入っていないような道になる。岩と岩が折り重なって積み上がって、続いている。ロックガーデンという場所だ。




 こういうところではペンキの丸印を探すのが鉄則だ。そうしないと先ほどのようなひどいことになる。




 絶対に確信が持ててから行く。彼はそう決意した。












 だが、ペンキ印探しは難航を極めた。まず、ガスが視界を奪う。10m先がギリギリ見えないくらいの立ち込め具合だ。遠くのペンキを手がかりにすることができない。そして、黄色の苔がなぜか丸い形を作っている。それは黄色のペンキそっくりで、彼はなんどもなんども間違えた。








 近づかないとペンキか苔かわからない。近づいてダメだったら、もう一度戻って探さなくてはならない。岩の上を移動するのは神経を使う作業だ。








 かなりの時間と体力が奪われていった。








 もちろん適宜休んで行く。だが、その回数は1日目や2日目と比べても目に見えて多かった。








 岩の上を降って、岩の積み重なったゆるい鞍部へ。これまで谷に似た岩石地帯を行っていたため、右側にひらけた谷の方に道があるのではないかと思ってしまう。途中までは確かにペンキ印があった。だが、次の目的地と定めて行った場所にあったのはいつもの黄色い苔の丸。辺りを見渡しても次のペンキ印は見当たらない。




 これはミスったな。




 一回迷ったことで彼はひどく謙虚になっていた。一旦確実にあったところまで戻る。道を外れたら帰っては来れない。慎重の上に慎重を期す。




 探ると、正面の斜面にうっすらと道が続いていた。また登りが始まることにうんざりしつつも彼は足を踏み出した。




 斜面の中腹では風はさほどきつくない。登りで奪われる体力は風で奪われる体力とトントンといったところだろう。本来なら風雨による消耗は考慮しなくてもいいはずなのだが。




 低い広葉樹林帯の急な道を直登する。まっすぐに上に向かう道は水が流れていて例に漏れず沢になっている。




 風がないので、昼ごはんにした。いつものミックスナッツとドライマンゴーだ。取り出す端から雨で濡れて行くのでさほど快適とは言えないが、それでもエネルギー補給は大事だ。




 登り切ると広い大地についた。要所要所で尾根が広くなる。




 左に大きな峰が見えた。あれがトムラウシ山に違いない。




 だが、道は右の平らな方へ伸びている。首を捻りながら、彼はそちらに向かった。




 どうもさっきの峰は違ったらしい。水に浸された草原を歩きながら彼は理解した。もはや先ほどの峰はガスに紛れて見えず、ただひたすら道が前に続いて行く。






 岩山についた。これを越えたらもうひとつ向こうにトムラウシがあるはず。もはや彼に考えられることは山頂に早く着くことだけだった。それ以外の望みはない。いや、できることならこのひどい嵐がやんでくれることを祈る。






 少しだけ印を見失った。幸いすぐに見つけることができたが、ますますガスが濃くなって印を見つけるのは困難を極めている。無駄に体力を消費している気がする。




 標高が高くなって遮るものがなくなったからだろう。吹き付ける雨も風も強くなっている。遮るものもほとんどない。フードを被った中にも侵入してきて髪がひどい有様だ。






 ちなみにこのような悪天候のトムラウシ山は8名死亡の山岳遭難が起こったこともあるそうな⋯⋯。


 彼は知らないみたいだが。




 岩の斜面を登っていく。相変わらずペンキは見えないし、展望なんてもってのほかだし、雨風は強い。






 岩陰に隠れて休憩するも、動いていないと寒くてたまらない。とりあえずエネルギー不足にならないようにとリュックに入れた非常食を食べつくす勢いで口に入れて行く。








 ポケットに飴を常備して、口に含み、絶えずエネルギー摂取ができるようにする。彼は必死だった。そして、必死になって然るべきだった。生存本能という奴がそうさせたのだろうか。




 今度こそと思ってたどり着いた山の上はやっぱり平らで先にもうひとつ山がある。右側に大きな池があるみたいだが、よく見えない。ふらふらと幽鬼のような足取りで彼は進む。




 そして、たどり着いた。南沼分岐。トムラウシをトラバースしてキャンプ地まで続く見るからに平らな道だ。こちらに行く選択肢もあるな。彼は吹き付ける豪雨の中、考えた。




 だが、ここへきて山頂を踏まないなど、登山家としてありえない。謎の誇りを胸に、彼は進路を上にとった。




 やっぱり岩がゴロゴロした道だ。ペンキ印はやっぱり見えなくて、なんども迷う。その上かなりの急坂だ。そこを張り出した岩が塞いで積み重なって、どちらに行けばいいのかわからない。ガスで5m先も見えない状態。標高が上がって風も強くなる。大きい岩が増えて体を隠せる場所が増えたのだけが良いニュースだ。




 ひところにとどまって休んでいると、体が冷えてくる。低体温症だ。少しだけ風が弱まったのを見てすぐに出発した。




 考えることはただひとつ。少しでいいので晴れ間をください。


 トムラウシの神様。山頂ではしばしの晴れ間を。温まりたいのです。どうかどうか。


 献本します。文章を捧げます。帰り着いたら貴方への感謝の言葉を必ず書き上げます。だからどうかお願いします。




 風は強く雨も強く、岩場の間を必死の思いで通り抜けながら彼の頭にあるのはその思いばかりだった。








 山頂に着いた。何も見えない。ただ雲が視界の全てを覆っている。だが、雨は、上がっていた。いや、上がっているというよりは、ギリギリ降っていないと言う方が正確だろう。だが、それでも彼にとっては、自分の祈りが通じたのだと、そう思えた。








 身長の三倍近くある岩陰で風を凌ぎながら、ミックスナッツとドライマンゴーを食べる。これももう、食べ尽くしても構わないと思っていた。




 ゆっくりしていると反対側から夫婦らしき登山者が登ってきた。今日会った初めての登山者だ。写真を撮ってくださいと言われたので快く応じた。




 二人はすぐに降りるようだ。彼はもう少し山頂に留まることにした。






 だが、すぐに雨が降ってきた。望みを聞いてやったのはお前だけで、他のものには許可していないと言われたように彼は感じた。仕方がない。下りよう。






 二人が降った方へ彼も降る。先ほどの岩だらけの道と比べれば段違いに歩きやすい。調子に乗っていると転んだが、無問題だ。じきに先ほどの二人に追いついた。




 少しだけ先行しながら降る。




 足は疲れ切っていて、ザックが肩にのしかかる。




 やっとの思いで南沼キャンプ指定地に到着した。




 壊れそうなトイレがあった。その中に立てこもって風雨をしのぐことにした。薄い屋根は少しずれていて、雨が入ってきていたが




 現在時刻十一時。次の双子池キャンプ場が今日の予定だが、どうする。


 彼は迷った。




 地図を取り出して確かめる。気が遠くなるほどに遠い。8時間ほどはかかる。体は冷え切り足はボロボロ。これは無理だろう。長い葛藤の末、彼は諦めることを選択した。




 明日、美瑛避難小屋まで行こう。二回の小屋泊まりで彼はテント泊に耐えられない体になってしまったのだ。せっかく背負ってきたテントが泣いている。




 とはいえ、今日の宿泊はここでテントを張るよりない。雨が止むのを待ってから張ることにしよう。幸い時間はたっぷりある。




 ⋯⋯雨が止んだのは十三時になってからだった。2時間近くトイレに篭る男になっていた。まあ、登山者は誰一人通らなかったので誰の迷惑にもなっていない。




 せっせとテントを張る。二日ぶりのテントだ。誰もいないので一番いところを確保する。グラウンドシートを広げ、ついでテント本体を起き、そこにポールを二本通す。抑えていないと風でテントが吹き飛んでしまう。




 ポールを立てれば、ようやく膨らんでテントが住居として成り立った。


 その上からフライシートをかぶせる。やっぱり風で飛んでいく。小雨も降ってテントが濡れる。それでもなんとか完成した。ザックを押し込んで重しとする。




 ペグを取り出した。これを地面に打ち込むことでテントを固定する。だが、木槌を持ってきていなかった。硬い地面に押し込むことができない。やむなく周りの石を持ってきて置いて固定する。風が入り込みそうなところにも配置して、囲いを形成する。これで一安心だ。彼はテントに潜り込んだ。






 若干は覚悟していたが、やはり寝袋は濡れていた。こんなものをかぶって寝てはかえって危ない。外に出して寝袋を絞ると水がジャーっと出てきた。これはひどい。




 寒すぎる。彼はとりあえず火を炊くことにした。これで少しは落ち着くはずだ。




 だが、ここで問題が発覚する。ライターがつかない。昨日までは確かについた火が、出てこない。このままではバーナーが使えない。








 仕方がない。誰かがこのテント場に来るはずだ。その人にライターを貸してもらおう。




 幸いキャンプ場には4Gが入っていた。ソシャゲにログインして、なろうを機内モードで読む。だが、雨の音がするばかりで、誰かが横でテントを張っている気配などない。




 十六時まで粘って、彼は人を待つのを諦めた。今日このキャンプ場にいるのは自分ひとりだけだ。覚悟を決めよう。




 なんとかライターがつかないかやってみる。




 カチッと回す。ぼっ。小さな炎が上がった。




 慌てて横にすると炎は消えた。




 何度か試してみて、どうなったのかを理解する。このライターは上を向いた状態でないと使えない。そういう風に壊れたのだ。








 仕方がないのでバーナーの方を横向きにして火をつける。こうすればライターは上向きでも大丈夫だ。


 なかなかガスと火が混ざらなかったが、何回かの試行ののち、ようやく火がついた。これで一安心だ。暖まる。


 炎は真上が一番熱い。中学校の時に習った知識を思い出して手をかざす。火傷しても構わない。そう思ってしまうほどに彼の体は冷え切っていた。




 しばらく暖まって、のろのろとご飯の用意をする。水を近くの沢から汲んで、沸かす。レトルトカレーの素を温めるのを忘れたが、それでも、そのカレーとスープは腹に染み渡った。こんなに美味しい食事は滅多に食べられるものじゃない。極限の疲労によって食事の美味しさは何倍にも跳ね上がる。



 昨日のカイロ作戦を思い出して、フリーズドライのご飯を腹のなかに入れる。もうそろそろ、眠る時間だ。眠気が、ひどい。




 濡れたまんまの寝袋に彼は入っていった。死んだように眠る。

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