第2話 二日目

 幸い途中で目を覚ますこともなく、男が起きたのは四時だった。外に出てトイレを目指す。一面の霧で何も見えない。そういえば、明日明後日の予報は雨だったなと思い出す。嫌な予感がした。


 スパゲッティを作って食べる。やっぱりちょっと焦げ臭い。一応洗ったはずなのだが、洗剤がないため完全に取ることはできなかった。


 出発したのは五時だった。少しだけ霧が少なくなったように思える。


 先行する老夫婦に追いつこうと心持ち足を早めながら彼は歩く。


 ハイマツに氷河に似た残雪。なおも降ると石ころにまみれた広い広い尾根。こんなスケールの大きな尾根など、本州でも九州でも見たことがなかった。ほとんど大地とよんでいいほどの大きさの尾根が永遠と遠くまで続いている。先は霧で見えない。雨でないことを祈りながら、彼は歩き続けた。




 横はすっぱりと切れていて、そこは深い森の中。青い池が3、4個キラリと小さく光っている。クマがたくさんいると有名だった。なんだか黒い動くものが見えた気がした。




 あと少しで先行の二人に追いつきそうだ。


 そこで彼は休憩を取った。焦ったら負けである。ついでにスマホを取り出して電波を探す。不幸にも白雲避難小屋には電波が入って来なかったのだ。


 やっているソシャゲの連続ログインキャンペーンの情報を仕入れていた彼はせめてログインだけでもと思っていた。


 4Gが一本、立っていた。彼は歓喜する。


 すぐさまそのソシャゲを開いて、アップデートしなくてはなりませんと言われた。電池を食うのはわかっている。だが、こんなに石を配ってくれることなど滅多にない。彼は覚悟を決め、ダウンロードを開始した。バカである。

 結局ダウンロードは二十分ほどかかった。ようやく追いついた老夫婦の姿はもう影も形もない。


 休めたからオッケーだとポジティブに考えた彼は、ドライマンゴーを口に含むと、出発した。


 広い尾根はまだ続く。笹の茂った登山道もあったが、基本的には石ばかり。大きな池のそばを通って興奮したのは一度だけ。ポツポツと雨が降り始めた。




 雨合羽を着込み、ザックカバーをつける。寝袋が濡れたら終わりだ。




 歩いて歩いて忠別岳山頂についた。先行の二人もここにいた。これから戻るらしい。彼としてもここで半分だ。強くなる雨風に追われるように、山頂を後にした。




 忠別岳直下は急な下りだ。ハイマツ帯である。もうここら辺は火山ではないのだろう。緑が多かった。ムクロジ科のカエデがポツポツと現れ始めた。




 ようやく、忠別岳避難小屋分岐だ。雨はまだまだ強い。今日の宿泊予定地であるひさご沼まで6kmと書いてあった。⋯⋯長すぎる。もうここでいいんじゃないだろうか。彼は一瞬弱気になったが、この後も悪い天気が続くことを思い出して行くことにした。




 登り切って、五色岳。看板はないので、本当なのかはわからない。雨で何も見えない。本来ならば見事な草原の後ろにトムラウシが見えるはずなのだが。




 歩く。そろそろ水が溜まってチャプチャプと登山道を満たしてきた。雨が長すぎる。申し訳ないと思いながらも横の草を踏んで行く。だが、全てを避けていけるはずもなく、水の中に落ちることが重なり、登山靴も靴下もぐっしょりと濡れそぼった。




 草原の中の崩れ始めた木道をゆく。ここは濡れないからありがたい。もちろん、雨も風も横殴りに流れているのだが、レインコートのおかげで大丈夫だ。




 ゆったりと高低差はない道だが、とにかく長い。晴れてさえいればどんなに気持ちのいい道だったことだろうか。男はため息をつきながらひたすら足を動かす。




 随分と経って、ひさご沼分岐についた。もう一つ先の方がわかりやすいとのことだったが、男にはそこまで行く元気が残っていなかった。この判断が次の日の不幸に繋がるとは、彼は予想していなかった。




 後少しだ。そのことだけが彼を突き動かす。途中で見つけたクマのものと思しき巨大なフンにも反応することなく、彼は降って行く。




 道は木道の壊れた後と表現するのが正確で、雨で沢のように水が流れる中、木道を支える部分だけが転々と残っていた。滑りやすい木枠だが、雨が降っている現状、下を行くのは自殺行為だ。


 ほとんどわからなくなっている道をなんとか見つけながら彼は歩く。沢の上を歩けというような無茶な道もあった。木枠で滑って、水に足を突っ込んだこともあった。


 だが、彼はたどり着いた。


「湖だ⋯⋯。」




 彼は圧倒される。湖畔だった。霧で向こう岸は見えない。ただ、ひたすら大きくて、綺麗だった。高山植物とハイマツに囲まれた大きな大きな湖。これが、ひさご沼だった。⋯⋯沼でいいのかは定かではない。


 左に進路をとると、避難小屋がようやく見えてきた。


 息を切らしながら小屋に入る。外国人の夫婦と、日本人の男がいた。


 少し戸惑いながらも、挨拶をして荷物を下ろす。


 大丈夫だと思っていたが、下に着ていたTシャツまで思いっきり水に濡れていた。ポタリポタリと水滴が落ちる。乾いた小屋に持ち込むことに申し訳なさを覚えつつも、干すことにした。


 ザックの中身を確かめる。ビニール袋に入れていた着替えは無事だった。すぐに着替えて人心地つく。そうして、もう一度ザックを探る。ぐっしょり濡れた布の感触。引っ張り出して、しまったと叫ぶところだった。寝袋をビニール袋に入れるのを忘れていた。一番大事なのに。このままじゃ、夜に寒さに震えることになってしまう。どうしよう。


 とりあえず、干すことにした。二階に上がって、針金に掛けておく。ポタリポタリと落ちる水が、もうこの寝袋で寝ることはできないと告げていた。


 男の人に相談すると、小屋に備蓄してある寝袋を引っ張り出してくれた。


 なんでも、避難小屋という名の通り一通りのものは揃っているらしい。よく見たらガスやら食料やらも備蓄されていた。


 寝袋にくるまって人心地がついた。


 話をする余裕も出てくる。外国人の夫婦はもともと医者で、リタイアした後に山を登っているらしい。とても気さくな人で、彼も拙いながらも英語で会話した。


 もう一人の男の方は英語が上手で、もっとうまくコミュニケーションができていた。この頃大学で英語を習っていないとはいえ、あまりにもだらしがない彼だった。もともと人見知りをする性質とはいえ、山でならある程度いい感じに話せると自信をつけていただけに、ショックだった。


 出発した時間を伝えるとコースタイムよりもずいぶん速いと感心された。まあ、まだ若いですからね。などと謙遜している。


 それからもう一人、白雲岳避難小屋から来た人がやって来てひどい目にあったと言っていた。まだ雨は収まる気配を見せないようだ。


 最後に慶應のワンゲルという男女半々くらいのグループがやって来た。男は、自らの身に引き比べて悲しくなった。


 自分から属しないと決めた一年の時の決意を忘れたらしい。一人は心細いから、仕方ないのかもしれない。

 雨が小降りになった。


 彼は外に出る。ひさご沼の対岸が見えた。対岸はすぐに山となって急峻な山肌を見せている。岩場の白か残雪の白か、判然としないが、緑ではない何かが覆っているようだった。



 今日もまたカレーとインスタントスープである。


 疲れ切っていたので、非常食としておくつもりだったお湯を入れるだけでできるパック味付けご飯も食べてしまう。


 閃いたそぶりで、食べずに寝袋に入れてカイロとして使い始めたが、頭がおかしくなったのだろう。




 とはいえ、だいぶ暖かそうなので、間違いではない。




 風がガタガタと小屋を揺らす。寝袋の中で男は時折薄く目を開けた。ひどい天気になりそうだった。


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