大雪山十勝岳縦走記

石化

第1話 一日目

北海道は広い。緩やかな平原がうなりながら続いている。




 その大地の真ん中に大きく屹立する山がある。




 大雪山だ。標高二千m弱。




 火山性の山塊が、北海道のへそを形作る。北方に位置するゆえに高山植物も豊富で登山者の人気は非常に高い。ロープウェイを使えば容易に高度を上げられることもあり、観光客も多い。






その南方に十勝山脈がある。富良野平野から見上げる迫力のある山脈だ。噴煙を上げる十勝岳は荒々しくも美しい。




 大雪山と十勝岳。




 その間およそ六十km。


 一応続いてはいるが滅多に行く人のいない縦走路があった。




 そこを歩いた一人の若者の話をしよう。








 彼が北海道行きを決めたのは六月のことであった。所用があって夏休み中だというのに飛ばなくてはいけないことになっていた。


 その前に随分と日程が余っている。それに気づいたのが全ての始まりだった。


 もともと男は山が好きだった。暇はあまりなかったが、機会があれば必ず登りに行った。




 だからこれを思いついたのは必然かもしれない。大雪山十勝岳縦走四泊五日テント旅だ。己の体力に過信を抱く男の無謀な旅の始まりだった。




 彼はこう語る。




「もともとは毎日トレーニングしようと思ってたんですよ。まあ、結局やりませんでしたけど。」




 どうしようもない限りだ。これこそ自堕落の極み。




 とはいえ準備を一応済ませ、彼はついに北海道へと渡った。バスを乗り過ごして二時間以上空港で待つという間抜けな事態にはなったが、芝生の上で昼寝を決め込むなど心の余裕だけは十分だった。










  初日は下のキャンプ場で一泊である。ほかの客が一人しかいないということに危機感を覚えながらも、そのおじさんからワインやらスパゲティやらを分けてもらいそれなりに楽しく1日目の就寝した。時刻は18時。






  24時就寝を常としていた彼としてはなかなかない早寝である。まあ、スマホの電池は生命線であり夜更かししていたずらに消費するわけにはいかなかったのだからしょうがないだろう。






 早寝早起きこそが山登りの基本である。日が落ちたら活動する意味ないよね?














 翌日。五時起きで硬いスパゲッティを食べ、六時に出発。


 ロープウェイに乗って姿見駅に到着し背中に食料とテントの重みを感じながら登り始める。




 周りに展開するのは、本州ならばあと1000mは登らないと見られないような見事なお花畑。ところどころには青色をした池もあって、風光明媚という言葉が一番似合う。




 噴煙をあげる噴気孔に近づいて写真を撮った。




 登山者は多く、5、6人ほどと隊列を離しながら登る。ひときわ速い軽装の人に追い抜かされた以外はだいたい追い抜かしていく。そんな脚力を発揮しながら急な砂礫尾根をゆく。若いっていいな。舐め腐っていたとおりの楽勝のようだ。




 とはいえ、さすがは北海道最高峰たる旭岳へ登る道。休憩も2回ほど取る必要はあった。天気も良くはなく、頂上を見ることも周りの景色を見ることもできない。口の中で悪態を転がし、ついでに行動食として積んで来た飴も転がしていた。






 旭岳山頂は広いもので、登山者がおもいおもいに休んでいる。西側は切り立っていて、噴気孔あたりまで壁のような山肌が落ちている。彼もここで休憩することにした。持ち芸のこれから大変なんですよを発揮してチョコレートを分けてもらっている。彼のたかりかたがうまいのか登山者が優しいのか。おそらく後者だ。




 しばらく休むとさすがの高度に加え風も強くどんどん体が冷えてくる。あとの行程もあるしということで頂上を後にした。




 頂上からの下り道は稀に見る急勾配だった。急勾配のくせにジグザグになってもいないので背中の重い荷物を支えながらの行程はかなり辛い。


 彼がストックを持っていないのも問題だった。手に持ち、地面をつくことで足の負担を軽減させるストックは特にテントを背負うものにとっては喉から手が出るほど欲しいものだ。




 後ろから来た登山者は当然のようにストックを持っていて、お先失礼しますと横を通り過ぎて行った。


 まあしょうがないなと笑って、それでも悔しくて平坦になったところで抜き返す彼。負けず嫌いが過ぎる。




 登り返す。熊ヶ岳の肩への道はなんということはなくてすぐについた。ここからは平らな火口と鋭い岩が積み上がった熊ヶ岳が見える。左の頂上には向かわずに右を通って間宮岳へ。火口縁は歩きやすい。やっぱりすぐに到着した。




 ここから見えるのは北海岳、凌雲岳、北鎮岳と大火口。先ほどの熊ヶ岳火口の十倍はありそうだ。全くもって徹底した火山である。




 分岐で休んでいたら自衛隊の訓練小隊的な人々がやってきた。通信機を背負っている人もいて、かなり重そうだった。






 ここでついに今まで行動を同じくしてきた人たちと別れることになった。やはり、縦走を選ぶ人は少ないらしい。




 とはいえ一人だ。テンションが上がってきている男の歯止めが消えていく。彼は気持ちよくアニソンを歌い出した。歩きながら歌うというなかなか高度なことを行なっている。あっと、また自衛隊の小隊がやってきた。慌てて歌をやめ、こんにちはと挨拶を交わす。相手方は苦笑いだ。




 それに懲りたかと思いきやまた歌い出した。なんだろう。一人で寂しいんだろうか。わざわざ一人で来たくせに贅沢なやつだ。




 北海岳の山頂にベンチがあった。そこで昼ごはんと称してミックスナッツにドライマンゴーを食べた。これが昼食として適しているのかは議論が待たれる。少なくとも彼はこの山行中、昼ごはんはこれにする覚悟を決めていた。本人がいいっていうんならいいんだろう。




 相変わらず雲が出ていて、その切れ間に少しだけ風景が見える程度だ。黒岳は見えない。彼はすぐそばの孔雀岩を黒岳だと勘違いしているようだが、それを訂正するものは誰もいない。




 存分に休んで、白雲岳へ向けて下り始める。ずっと辿って来たお鉢から離れて、ゆったりとした下り坂を降りていく。本州の山と違って随分と緩やかだ。だが、緩やかで、大きい。




 しばらく歩くと、岩がゴロゴロした場所を登山道が横切って行った。ゴロゴロは上へ続いて、横に広く険しい白雲岳の一部を形成している。






 ピィーッ


 ピィ


 キチィ




 ナキウサギの声がする。高山帯にしかいないこの生物は生息域が狭く日本では大雪山周辺にしか生息していないと言われている。




 彼は鳴き声がするたびにそちらを見るが、結局見つけることはできなかった。




 雪渓を横切って、ちょっとだけ登ればもう白雲岳分岐だ。白雲岳へ行く道に赤岳から来た道。そして白雲岳避難小屋へと続く道。時刻は未だ十二時前、まだ時間はあった。




 これから帰るという登山客から炊き込みご飯を譲ってもらった彼は、ザックをそこのベンチに置いて白雲岳に登ることにした。狐がザックを破って食べるという噂もあったので、マンゴーだけを持って出発した。のちに、財布を持って行くのを忘れたとひとりごちる。ただのバカである。






 ゆるい岩の多い道を登って見えていた山の稜線に着いた。


  思いもよらぬ光景が広がっていた。


 それは小さな楽園だった。


右の岩山、奥の岩山、左の小さな岩。その間に広い草原が存在する。この高所での平原は当然のようにお花畑を伴って、庭園のように美しい。




 すっかりいい気分になって跳ねるように道を歩く。ザックの重みが消失していることもあってその足取りは軽かった。




 最後の急な岩場をひと登りすれば北海道第三位の標高を持つ白雲岳の山頂だ。生憎とやはり天気は悪くて雲に覆われて遠景ゼロであった。




 帰り道はカラスを目撃し、ザックを破られたり財布を取られたりといった妄想を逞しくした。




 幸い無事だった。一安心だ。




 また背負って、今日最後のくだり道だ。徐々に白雲の避難小屋の屋根が見えてくる。




 水場やテント場を過ぎ去ってようやく山小屋に到着だ。




 もともとテント泊をする予定だった男だったが、小屋の管理人の言葉で考えを変えた。なんでも最近キツネが悪さをするらしい。テントを破ってしまうそうだ。




 昨日の1600mでもかなり寒かった。いわんや1800m付近をやという話だ。男はビビリだった。たった千円で泊まれるということでもあったので、男は小屋泊まりを選択した。








 水を汲んで、米をつけてしまえばもう仕事はない。十四時にして何もすることがないのだ。朝露に濡れたテントを乾かしてみる。それでもやはり時間は余る。






 幸い、気になっていた漫画が置いてあった。ゴールデンカムイだ。アニメの後の巻数もしっかり揃っていた。さすが北海道の山小屋である。




 北海道で読む北海道を舞台にした漫画は格別だった。先ほど登ってきた姿見駅あたりに主人公たちが到達する話も有り、手に汗握った。




 一気に読み終えるともう十六時だ。そろそろ晩飯の用意をしなくてはならない。




 米の入った水にレトルトカレーのプラスチック容器を入れて一緒に茹でることにした。ガスが足りるかわからないからである。彼の長期山行の経験はほとんどない。どれくらい必要か、測ることができなかった。




 まあ、節約する方がいいのは確かだろう。






 ガスに火をつけ、ご飯を炊く。夕食は全てカレーに決めていた。考えるのが面倒だったらしい。


 当然のように吹きこぼれた。ついでに焦げ臭い匂いも漂っている。ガスの調整などという高度な機能はついていないのだ。


 男は顔をしかめたがどうしようもなかった。食べられればいいという結論に達したらしく、そのまま掻き出す。ついでに温まったと思しきレトルトカレーをかけた。


 ついで、もう一度湯を沸かす。今度はレトルトスープのためだ。少々焦げ臭いお湯が完成し、固形のスープの元にかけた。


 かくして完成したのが、今日の彼の夕食、オクラスープならびにレトルトカレーだ。こんなのでいいのだろうか。


 もっとも、普段の男の食事はご飯やらオートミールやらの一人暮らし料理作れない系大学生の典型だったので、普段より栄養バランスはいいのかもしれない。




 ご飯は芯が残っていたり焦げていたりと散々だったが、歩き疲れた男にとってはこの上なく美味であった。






 残った焦げ臭い水をペットボトルに注ぐ。北海道では、野生のキタキツネの間でエキノコックスと呼ばれる寄生虫が蔓延しており、どんなに綺麗な水でもそれに汚染されていると思わなくてはならない。煮沸か濾過を行うのが一般的であった。




 つまり、男の使える水はこの焦げ臭いものしかなかったのである。御愁傷様というしかない。自分の体力にあった山を登るべきなのだ。できるだけ荷物を軽くして行こうなどという考え方で快適な登山ができるはずがない。




 昨日と同じく、十八時に眠る男。さすがに寒かった。




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