第13話 追憶のメッセージ





 水が耳の奥で重く鳴っている。


 コポン。コポリと、腹の底から聞こえてくる音が、耳元まで近づいてきたかの様に。





(「だから大丈夫です!貴女の居場所は、無くなったりしないですよ!」)





 白い仮面から吐く泡が、ぱちり、ぱちりと弾けては、すぐに水に呑まれて消えていく。


 過去の声は、まるで厚い硝子越しに聞く様に、輪郭を失い、低く揺れていた。





(「例え私達がここらか居なくなっても、貴女がこの場所であったことを、他の誰かに伝えれば良いんですから。」)





 それでも、揺らぎの中には、確かにあの日の言葉が声となって混じっている。





(「そうすれば、誰かにとっての思い出が、貴女の居場所になるんです…………!」)





 浮かんでは消えていく記憶と伴に水の中で、青い光が揺れていた。

 触れれば焼け溶けてしまう光の鏃。


 人魚は双方の尾で勢いよく水をかき分け、深みへと身を沈めた。

 過去は浮かび上がらない。けれど、沈めても消えはしない。


 目の前には降り注ぐ光の雨が現実を突き付ける。





(「分からないのか?


 考えることを忘れたお前等はなぁ!


 その時点で他人から支配される為に、自分の運命を他人に預けているって事なんだよ!!!!」)





 断続的に降り注いだ光る矢は人魚の左肩や双方の尾を掠めて赤黒く焼き付ける。


 水を濁らせるばかりの泳ぎは次第に衰えを増していく。





(「ふははははっ!!!!


 地球で自分の居場所を奪われて、異世界で人生をやり直そうとしていても!


 結局、お前の人生は!

 誰かに自分の人生を任せているに過ぎないってことなんだ!!!


 だからお前は勘違いをしているのさ!


 この時間そのものが!お前の為の人生じゃなかったってことなんだよ!!!」)





 蝙蝠の様な皮膜の外套を纏い、

 三角帽の左右に大きな耳が襟の様に密接した兜から垣間見えた髑髏の仮面が嘲笑う。


 揺れ動く水面から降り注ぐ光の雨を目の当たりにして突如泳ぎを止めて見上げる人魚は両手を広げた。


 まるで現状を受け入れて、全てを投げ出す様に。

 射し込んできた光に身を任せる人魚に成す術は無く。


 向かって来た光る鏃が水面で小さく弾ける様に、青い粒子を散らして消滅する。


「…………?」


 浮き上がっていく人魚の身体を塞き止める様に、青い光の壁が水上から阻んでいた。


 水から顔を出して見上げる光の壁越しに「こっちだ!掴まって!」と声が掛かった。


 青い水上バイクが彼女を取り囲み、翼を広げて羽ばたく鳥の様な怪人達に銃を向けて光の弾を放つ黒い制服の人々。


「ハヤセさん!早く!乗って下さい!」


 魔法使い達が呼び掛けていた。


 人魚が泳ぎを止めたことで漸く追い付いた遊撃班の面々は手を伸ばす。


 伸ばされた手に対し、徐に震えた手を差し出そうとしたその時――――。



 ズガンッ!と大きな音と伴って水柱が上がったと同時に、

 魚の怪人を囲んでいた水上バイクは一斉に横転した。


「うわあぁああっ!?」


 声を上げて車体ごとひっくり返ったオートバイクの下部、ハルの側面には風穴が開いており、

 隣のバイクのジェットポンプまで槍が貫いていた。


 一見すると古代ローマで用いられた投槍、ピルムの様な形状の槍。


 慌てて横転したバイクにしがみ付く隊員達はその破壊力と衝撃に思わず攻撃が飛んできた方向を見遣る。


 岸辺には金色の部位鎧で身を固めた屈強な馬の戦士が立っていた。


 筋肉を模した銅鎧に、赤い馬の鬣が備わったガレアの様な形状の兜。髑髏の面頬。

 鉄と皮で形成された腕当てと脛当て。赤い外套に、馬の蹄の様な鉄靴。


 既に馬の怪人の右手にはへし折った手摺をピルムの様な投槍の形状に変化させている。


「ま……っ!まずい!逃げろぉおお!!!!」


 そう叫んで魚の怪人を庇う様にして背を向ける男性。


「……ぁ……ぁあ……!」


 狼狽えた様子で身体を震わせる魚の怪人だったが、男性を引き離そうと両肩を掴んで押し返そうとする。


 その時、彼女の首元の宝石が黒く光った。


「逃げて下さい!早くっ!!!!」


 しかし、男性に次いで押し寄せる様に泳いで束になって重なる隊員達に、


「ぁぁ……!ぅぁぁあ……!」と訴えかける様な声を絞り出して彼等を引き剥がそうとする。


 視線の先。馬の怪人が投槍を振り被った様子が目に映ったその時、

 魚の怪人の首飾りは黒く発光し、ハート型の宝石は全身を黒く照らし出した。


「っぁぁああぅああああっ!!!!」


 苦悶するような彼女の声と伴って、人魚の身体は全身を黒く発光させると、

 馬の怪人から槍が放たれたと同時に水路の水は大波の様な激流となって飲み込まれる。


「なっ……!?なんだぁっ!?」


 裏返った声で驚愕する隊員たちは一斉に浮かんだ水上バイクの車体に飛び付くと、

 そのまま波に押し流されて住宅地の方面まで運ばれていく。


 たった一瞬の大波に飲み込まれ、岸に立っていた馬の怪人の姿は疎か、魚の怪人の姿さえ消えていた。





 12時45分。中央区 メル・グランデ橋。


 ザパン、ザプンと波を打ち付け、水面が弾ける水路。

 まるで奥から押しながらされてきたよう波飛沫に視線を移す重騎兵の怪人。


 対峙するアヤと白い怪人は彼との対話に緊張と動揺によって肩の力を強張らせて身構えていた。


「海に……沈む……!?


 まさか……!この街で起こっている災害はその為だったと言うんですか!?」


 未だ経緯ばかりで事情を聞かされていないアヤは話の真相に驚愕する。


「ああ、そうさ。だから彼にもそれを説明していたんだ。


 そして丁度、君を話に巻き込むことが出来た。


 僕はその為に邪魔になる者を足止めしていたに過ぎなかったのだが、

 まさか一番厄介な相手になりそうな君が態々話を聞きにくれたのは好都合だったよ。


 僕たちは君の事を勝手に魔法少女だと呼んでいるが、僕等の立場からしてみれば本当に天敵の様な存在だからね。」


 満足気に話を終えた彼は、ついでの様に白い怪人を見て好きに語る。


「それにしても君も、君だ。

 魔法使い側に味方に付く怪人が現れるとは誰も想像なんてしていなかったからね。


 その様子だと君は余程、信用されているんだな。

 だが少し、この世界に来るのが遅かったみたいだね。


 君は思った以上にこっちの世界の人間に近い価値観を持っているみたいだが、

 大半の地球人達があんなにも身勝手なら分かり合える筈もない。」


 すると彼等の膝の辺りまで冠水していた水がザパァ!ザザザァ!と波を打ち、上半身から顔面に向かって水が飛び散った。


「まさか……これが…………!?」


 まるで波打ち際の海岸の様に波が身体を覆い、飲み込まれてしまう不安定な感覚に身体を揺らす一同。


「……どうやら……いよいよ始まるみたいだ。


 もう君達にはどうすることも出来ないよ。

 例えあの魚の怪人を殺したとしても、地震さえ起きてしまえば街は直に海に沈む。


 全部、知っていてやっていることだ。


 この世界の裏側にいる人間も地球人のことを極端に危険視している人は少なくはない。

 この世界で起きた50年前の戦争で引き起こされた人工地震と同じ様に。


 あとはこの街さえ沈んでしまえば2度とこんな悲劇は起こらない。

 ここで行われていた実験場が次は地球そのものになるのだから。


 この計画が成功すればそういう手筈になっている。

 逆にこの計画が失敗すればどの道、彼等は今以上に計画を進めるだろう。


 魔法の力を得た地球人を利用して、

 この世界と地球の人間達がお互いの星で社会にどのような変化を齎すのかを実験する為にね。」


 立っていることがやっとの2人に対して堂々と対峙する彼にアヤは静かに言った。



「…………そんなにも憎いのですか?


 確かに途方も無く、どうしようもない計画だとは思いますが、

 私は先程の怪人や昨日の蜘蛛の怪人の話を聞いて彼等の望みを知りました。


 彼等は人として過った生き方を選んではいましたが、

 心を持った1人の人間として生きていたいと願う想いは間違っていなかったと思います。


 貴方も先程、人間には心があるから幸せの為に生きなくては意味がないと言っていた筈なのに…………。


 貴方は人として生きることも諦めてしまうのですか!?」


 落ち着いた雰囲気で、胸の内の感情を昂らせる彼女。


「…………諦めるだって?


 諦めなくては生きてはいけない世の中に…………何の意味があるっ!!!?」


 青く鋭い真っ直ぐな眼差しに彼も思わず想いを吐き出していた。


「僕たちは操り人形にされてしまっても完璧なロボットには成れない。


 何処までいっても人間なんだ…………。


 人が人らしくいられない社会に人間は必要ない!」


 憤る彼の言葉と同時に、大きな波が彼女等を覆い被さった。


「うわっ!!?」


 白い怪人は情けなく声を上げ、体勢を持ち堪えた。


「……っぅ!」


 しかし、彼よりも身体が小さいアヤは身体をふらつかせて、今にも倒れそうになる。


「……!大丈夫ですか!?」


 思わず背中を支える白い怪人に「くぅ……平気、です!」と虚勢を張る。



「……!な、何故だ!?何故、今ここにいる!?」


 重騎兵の怪人は水路沿いの転倒防止用の柵に掴まりながら、水路に視線を向けて動揺している。


 水路は既に増水した川の様な水流を作っていた。


 そして驚くことに水流に流されることなく、水の上に立って彼女等を見詰める者が居た。


「ぁぁぁ……、ぁぁ……。」


 青い鱗の様なドレスから双尾を揺らし、ペチャ、ペチャとふら付きながら足を動かさずに彼女等へと近寄る。


「ころ……して…………!」


 まるで水の流れが人魚の身体を持ち上げて運んでいるかの様に。


「わたし……を…………、と……めて、ください…………!」


 懇願する様に訴え掛ける魚の怪人は彼女等を見てそう声を上げた。


「どうやら、ここまでみたいだな?」


 すると今度は人魚の頭上から声が掛かった。


 大橋の欄干に立ち、水の上を直立する魚の怪人を見下ろす形で、蝙蝠怪人が何処からか姿を現した。


「黒崎さん!どういうことですか!?


 何故今、早瀬水希がここにいるんです!?」


 柵に掴まりながら叫ぶ重騎兵の怪人に蝙蝠怪人は顔を向けて言った。


「そいつの全身は麻痺している。魔法使い達に強力な麻酔でも撃たれたのだろう。


 放っておけばいずれ死ぬ。」


 唐突な水流に膝で水を掻き分けながら進む白い怪人とアヤは、

 漸く水路沿いの柵に掴まると魚の怪人を見て呟いた。


「やはりハヤセさんを利用して、水害を……!」


 その声に振り向いて耳を傾ける白い怪人にアヤは告げる。


「クドウさん。あの怪人は行方不明になっていた喫茶店の経営者なんです。


 私達はあの人を保護の対象として、助ける為に追跡していました。


 あの人を心配して、捜索を願い出てきた人達の為にも、守らなくちゃいけないんです……!」

「俺も手伝います。直ぐに助けましょう!きっとまだ間に合います!」


 人を助けるという共通の目的がある2人には判断に迷いが無かった。


 しかし、2人の話を聞き逃す筈がない蝙蝠怪人は念を押す様に言い放つ。


「その必要は無い。お前達が手を焼かなくても、こいつには本来の役割を果たして貰う。」


 彼の右手には林檎の形をした白い宝石が握られていた。

 目に見える程に迸る白い電子を帯びた宝石を人魚に向けて掲げる。


 水に流れに耐えながら宝石を注視したアヤ。





(あれは……白いアレセイア!?


 でも、あんな塊のようなものは見たことがない……!)





 独りでに宙に浮かび上がる白い宝石が人魚の怪人に向けて光を煌々と放つと、

 今度は逆に人魚の身体も浮かび上がった。


「これを海の底まで運べば、地盤は崩れ、全てが終わる。」


 まるで、宝石に引き寄せられていく人魚の怪人は、抵抗する様子を見せることも無く、

 手足をダラリと垂れ下げて、全身に帯びた白い電子を飛び交わしていた。


 白い電子が迸ると伴に怪人の身体の首に掛けられた黒いハートのネックレスが白く色を変えて点灯していく。


 まるで、その光が意思を持って移行したかのように。


 思わずホルスターから銃を引き抜いて柵に掴まったまま林檎の宝石を狙おうとするアヤだったが、

 彼の背後には黒い光が直線を描いて白い宝石を貫いていた。



「なにぃっ!?」


 背後から貫いた黒く光る刃。砕け散り、半分に割れた白い宝石。


 思わず振り返った蝙蝠怪人。


「お前はぁっ……!!!!」


 雨の中、不自然にも何もない空間を雨粒が弾いている。


「……へはははっ!」


 独特な笑い声が上がった。


 徐々に、その輪郭を露にしていくその姿。


 白い外套と大きな盾に赤い十字のマーク。

 黒い光を宿した剣の刀身と、ハート型のネックレス。


「へははははははっ!!!!」


 バケツをひっくり返した様な兜に髑髏の彫刻がカタカタと震えて笑い声を上げていた。


「詰めが甘いんじゃないのか!?

 最後の締め括りで油断するだなんて、な!


 これから好き勝手に生きていけると考えている奴等を敵に回しておいて!


 そんな簡単に上手くいく訳ねえだろぉお!!!?」


 そう叫んで黒く光る剣を振るう十字の怪人。


 咄嗟に飛び降りてそのまま滑空し、水路の上で皮膜を羽ばたかせる。


 それぞれの思惑が交錯し、状況が二転三転する中。


「あの怪人は……!?地球でクドウさんを襲った怪人……!」


 林檎の宝石が割れたことで銃を降ろしていたアヤは、十字の怪人を見て言った。


「無駄だぁあ!!!!無駄なんだよぉおっ!!!!


 地球もぉお!この世界の全てもぉお!ぶっ壊れちまえぇええっ!!!!


 これからは俺達が自由に暴れ回る時代だぁあああっ!!!!」


 黒く発光する剣を頭上に掲げて宣言をする十字の怪人。


「へはははははっ!!!!はははははははっ!!!!」


 高らかに笑う十字の怪人を他所に、人魚の怪人は突如、浮かせていた身体を落下させると、そのまま水面にボチャリと飛沫を上げる。


 未だ、人魚の怪人は白い電子を纏った状態で再び水面の上に着地し、そのまま四つ這いになった。


 迸る電子が白い発光現象に移行すると、

 チカチカと点灯する瞬きと伴に水面には断続的な波紋が広がる。


 広がる波紋はまるで心臓の鼓動の様にドクン、ドクンと周囲に音を響かせる。

 地響きの様に地面が低く脈を打つ様にドッ、ドッ、ドンと唸る様な突き上げる振動。


 周辺の住居や建造物から伝わる震動が建物の骨組みをカタカタと、ミシミシと軋ませた。


「な、何か……振動が、強くなっている……!」


 声を上げる白い怪人と、異変に辺りを見渡す一同。


 水流に身動きがとれずに柵に掴まる2人と静観する重騎兵の怪人。


 十字の怪人は欄干の真後ろに建てられたアーケードを背にして柱に密着している。


「このままでは、ハヤセさんが……っ、危ない……!どうすれば……!」


 水に飲まれながら衝撃に耐える2人。


 災害という脅威に対して成す術も無く、治まるまで見守る他ならなかった。


 そして、水面は大きく上下に揺れ始めた。



「始まったか……!」


 蝙蝠怪人の声に反応する様に黒く光る剣を振るう十字の怪人。


 刀身から振るわれた光はまるで黒い刃の様に宙を切り裂き皮膜を広げた背に向かって飛んで行く。


「無駄だ。お前達にはもう何も変えられやしない。」


 空を割き、通り過ぎる黒い光の刃。


 まるで、予想していた様に背を向けながら回避した蝙蝠怪人はその場にいる者達を見渡しながら捨て台詞を吐く。


「自分達の最後ぐらい大人しく受け入れるがいい。」


 素早く翼を広げた蝙蝠怪人は胸元から放たれる紫色の光を全身に纏うと、菫色の旋風を纏って人魚へと向かう。


 水面の上で四つ這いになった身体を抱きかかえると即座にその場から飛び去って行く。





(アレセイアは砕けたのに……!


 まだハヤセさんを利用しようとしている!?)





 様子を窺っていたアヤもすかさず蝙蝠の翼を狙って三回発砲した。


 光の弾は見事、第一指付近の前膜に1つと指間膜に2つの風穴を開けるが、

 飛び続ける蝙蝠怪人は空中でよろめきながらも高く飛んで人魚を連れ去っていく。


 遠くで、雷のような低い轟音が膨らみ、やがてそれは空気を押し潰すような圧力となって街全体を包み込む。


 ゴオオォォォ……と街全体に反響し合った様な籠った音が響き渡った。


 大橋の向こう側、中央区の大運河から黒い壁のような水が立ち上がる。


 音の正体は海鳴りだった。


 まるで立ち上がっていくかの様に波頭は白く泡立ち、光の加減で一瞬だけ深い青に輝く。


 その高さはビルの屋上をも越え、まるで空から落ちてくるかのように迫っていた。



「あんなのに飲み込まれたら!街がぁっ!!!!」


 白い怪人の声が掻き消されるより早く、

 波は大運河の港を呑み込み、ゴンドラや桟橋を木の葉のように舞い上げた。





(――――もう逃げようがない!)





 アヤは息を呑み、喉の奥がひりつくのを感じた。

 逃げられるのならば逃げなくてはならない。


 だが、身体は柵を握ったまま動かない。動かす訳にはいかない。


「……っ、まだ……諦めてはいけません……!


 今はあの波をやり過ごしましょう!」


 彼女の言葉はまるで自分に言い聞かせる様だった。


「……っぅ!はい!」


 白い怪人は、アヤの横顔を一瞬だけ見る。その瞳に宿る決意は、彼の胸の奥に重く響いていた。


 反射的に白い怪人はアヤの肩を引き寄せ、背中で水飛沫を受け止めた。


「俺も最後まで諦めません!掴まっていて下さい!」


 励まし合い、声を張り上げるが轟音は全てを飲み込む。


 互いに身を寄せ合い、アヤは必死に柵を握り締めると視線を空の向こうで煌めく紫色の光に向けた。





(この状況で連れ去って行ったのならきっと、……まだハヤセさんは無事な筈…………!)





 一瞬にして押し流される街並みと、目の前まで雪崩れ込む様に接近する高波。


 次の瞬間、ゴォゴォゴォと立て続けに迫り来る轟音が伴った水の壁が街へと雪崩れ込み、道路を、車を、家々を、何もかもを押し流していく。


 濁流は建物の壁をギシギシと震わせて、窓ガラスを粉々にし、家具や看板を水の中へと引きずり込む。


 遠くで鳴り始めたサイレンの音も、すべてが水の咆哮に呑まれていく。


 高波は一度も速度を緩めることなく、街の奥へ奥へと侵入し、二階建ての屋根を越えて更に進行する。


 その背後には泡が混じり合った汚泥と、瓦礫が散乱し、かつての街の面影を失っていた。





 真っ暗い情景の中。


 白い怪人。久遠彼方の視線には木製の棚に並ぶ鉢植えや、吊るされたドライフラワーが、静かに揺れている。


 店先の鉢花や店内に並んだ切り花が色とりどりの束となって並んでいる。


 カウンターの奥の壁には、白いアヤメが自生する写真が飾られていた。


「ここは……?何処だ?何で今、花屋にいるんだ…………?」


 呆然と見渡す景色は水の中でなければ、汚泥や瓦礫の中でもない。花屋の中で立っていた。


 店内には、朝の光が斜めに差し込んで、その花弁が光を受けてやわらかく透けている。


 会計台の奥。額縁に収められた一枚の写真の前には少女と男性が立っている。


 黒に近い焦げ茶色の長い髪に紫色の瞳。

 ミドルスクールの制服を着ており、まだあどけなさを残した少女。


 花の香りと微かな土の匂いに包まれた空間で、2人はその写真を見詰めている。


「どうしてだろう……。あの娘は何故か、見覚えがある…………。」


 ――――白いアヤメ。


 窓辺の光に照らされた白いアヤメの写真は、どこか遠い世界のもののように見えていた。


 花弁の白さは、景色の中で少しずつ色を失っていく雪景色に似ている。



「カメラマンを目指すきっかけになったのが花だったんだ。


 戦争で何もかもなくなったこの世界の復興を目指して皆が一丸となってまちづくりを始める中で、


 父さんにとっては……人と自然が共生しているのは平和の象徴に見えたんだ。」


 その花を見つめていると、胸の奥がじんわりと温まっていく感覚を言葉にする男性。


「だから、色んな街を回って人が自然に寄り添う姿を沢山撮った。


 お金にならなくてもそれが自分の今やらなきゃいけないことだ、って。

 その時は何かに憑りつかれた様に。毎日、無我夢中だった。


 でも、どうしてかそれが幸せだったんだ。


 単純に、生まれて初めて広い世界が新鮮だっただけかもしれないけれど……。


 何も無い世界でも、世界中の人達がお互いに支え合って生きていること。

 お金も。水も。食べ物も。土地や自然も。生きることに必要なもの全部を。


 まるで家族みたいに分かち合って生きていることが。

 とても暖かくて、幸せだったんだ。


 その分、人と分かち合うということは、時間や手間が掛かるからとても不便だけれどね……。」


 少女の父は、会計の壁に飾ったアヤメの写真を眺めると、また少女に視線を移して言った。


「人と支え合えること。ただそれだけが楽しかったんだよ。


 お腹は満たされなくても、心が一杯だったんだろうね。

 その時から家族で花屋を営んでいた母さんと出会ってね。


 母さんは、特にこの花が好きだったんだ。


 それから地域ごとに街がどんどん復興して、世界は戦後から数十年でずっと便利に成っていったよ。


 でも。たとえ世界がどんなに便利になっても、人を思いやる優しい心を持ち続けて欲しい。


 もしもこのまま……戦前みたいに技術革新が進んで、人が人を必要としない世界になったとしても、

 人の優しい心だけは信じていてほしい、ってね。


 アヤ。君の名前は、この花の由来からとったんだ。


 子供の未来が誰かを幸せにすることになるのなら、

 父さんと母さんにとって、アヤは過去と未来の人達の心を繋ぐ、メッセージになるんだよ。」


 父の優しい微笑みと伴に情景が再び暗闇の中へと包まれる中。


「アヤさん…………!」


 何故、白い怪人は少女に見覚えがあるのかを理解した。彼女の名を知ることによって。


 闇の中に、射し込まれた陽だまりの様な記憶が一変し、また静かに開き始める。





 石畳の路地に、怪人の咆哮が響いた。毛を逆立てて威嚇する黒い猫の様な怪人。


「シャァァアアッ!!!!」


 空気が震え、胸の奥まで突き刺さる様な甲高い声。


「わぁぁああぁあああっ!!!?」


 服ごと引き裂かれて血に塗れた人々が四方へ散り、悲鳴と足音が交錯する。


 その中で、車椅子の女性が、小さな女の子の背を押していた。


 車輪が石畳の溝に引っかかり、女性の肩がガタガタと大きく揺れている。


「このまま走って!」


 それでも腕の力で押し進め、少女を安全な路地へ送り出す。



「大丈夫ですかぁあっ!?」


 その先で、魔法使いとミドルスクールの制服を着たアヤが駆け寄った。


「大丈夫です!怪我はありません!」


 車椅子の女性を見兼ねて声を上げた女性は安堵した表情を浮かべると、

 伴に走ってきたアヤの肩に手を置いて言った。


「君も、本当にありがとう!あとは私達に任せて、お母さんと逃げなさい!」


 避難誘導に入った魔法使いを他所に車椅子を早足で押しながらアヤは眉間に皺を寄せる。


「母さん!どうして隠れて待っていなかったの!?


 すぐそこに怪人がいるのに!」


 駆け付けて早々に車椅子を押すアヤは息が荒く、表情は不安で固まっている。


 背後で怪人の影が途轍もない速さで移動し、魔法使い達が発砲した光弾を素早く回避する様子が見えた。


「母さんが出て行ったら危ないから魔法使いの人達を呼びに行ったんだよ!?


 もっと自分のことも大事に考えてくれないと、皆が心配することになるでしょう!?」


 母は振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。


「あんなに小さい子が転んで泣いていたんだから、放ってはおけないでしょう?


 足が悪くても、手は動く。声も出せる。人助けに障害なんて関係ない。


 それに、あの子が泣いたまま怪人に襲われていたら、他の人達はもっと悲しい思いをするもの。


 私1人の為に足が悪いという理由で周りの人達が気を遣っていたら、助けられた人も助けられなくなる。


 そういう時は皆で助け合わないと皆を助けることなんて出来ないでしょう?」


 納得して黙り込むしかない少女は言葉を溢す様に母の背を見て言った。


「でも……私は。母さんに早く良くなって欲しいと思っている。


 そして父さんと母さんに、また自分の夢を取り戻して欲しいと思う。


 だって父さんは写真を撮らなくなったから……。

 母さんだってリハビリの為に、花屋の仕事を辞めないといけなくなったから。


 私は2人にも幸せになって貰いたい……!


 夢を諦めたまま生きていくことは、ずっと辛いことだと思うから……!」


 背を向けながらクスリと笑う母親は戦場の喧騒の中でも不思議と澄んでいた。


「アヤ、夢ってね、想像からじゃなくて、体験から生まれるの。人の幸せも同じ。


 人を幸せにするには、まず自分が幸せじゃないと何もしてあげられないの。


 お腹が空いている人を助けたいと思っても、自分が何も持っていなければ何も食べさせてあげることはできないでしょう?」


 黙って話を聞く子に母親はその困り顔を見詰めて続けた。


「人は皆、平等じゃないわ。


 運命だからと言って全てを生まれ育ったものに任せられるほど皆が恵まれている訳じゃないもの。


 でもね。生まれや環境は違っても皆、運命っていう共通点の中で生きている。

 アヤの言う通り、生まれたからには生きる意味を見つけなきゃいけないの。


 楽しいことも悲しいことも、自分の目と耳と体で感じて、知らない人の話を聞いて、積み重ねていく。


 そうやって初めて、自分の中に何かをしたいという強い気持ちが生まれる。


 それが人の夢になる。」


 チカチカと横目に射し込む光弾銃の光を見詰める母の瞳は真っ直ぐだった。


「見て。魔法使い達だって、きっとそう。あの人達が戦うのは誰かを助けるため。


 戦争で何もかもなくなったこの世界が立ち直れたのは、

 自分の自由を求めて必死に生きた人たちがいたから。


 余裕ができた人たちが助け合い、支え合う世界を作ったの。


 私も、足が悪くてもできる形で人を支えたい。


 それが今の私にだけ出来る生き方。この生き方もいつかはまた、形を変えて夢になるの。


 アヤ……、夢ってね、想像からじゃなくて、体験から生まれると母さんは思うの。」

「……体験?」


 少女の視線には黒い軍服を来た人達が引き金を引き、 逃げ惑う人々を支え、誘導する姿が目に映っていた。


「そう。体験して経験を重ねるの。

 母さんの脚が治って、父さんが写真を撮ることは確かに幸せなことだと思うよ。


 でも、それはアヤが本当にやりたいことじゃない。


 魔法使いの人達も、今のアヤと一緒。人の心を守る為に行動することは立派なこと。


 でもね、結果だけじゃなく、その人たちに自分はどうしたいのかという強い意志がなければ、誰も幸せにできないし、自分も幸せになれない。」


 身体を捻り、ハンドグリップを握るアヤの手を包み込む母親は、彼女に優しく微笑み掛けた。


「だから皆、一生懸命に生きようとしている。


 生きる喜びの幸せは運命なんて決められたものの中には存在しないの。


 人が生きることってね。運命なんかじゃない。

 夢を叶える為に皆がそれぞれの、宿命の中で生きているの。


 貴女にだっていつか、自分を受け入れて前に進む日が来る。

 そうしてできなかったことをできるようにする、その積み重ねがいつか夢になる。


 アヤ、自分の心の中にある本当にやりたいことを見つけなさい。」


 暗い背景に記憶の映像が消えていく中、

 白い怪人は思わず「…………宿命。」と呟いていた。


「……そうだ。俺はここに来るまで何度も死に掛けた。


 でもそれは、俺の力だけじゃない。

 自分がやりたいと思ったから、やりたいことをやれていた訳でもない。


 ここに来るまでに、皆が助けてくれたから運命が変わったんだ。」


 消えていく映像の中で少女を見詰める白い怪人は、自信の言葉を再確認する為に呟く。


「俺はアヤさんに……何度も助けられたことで、


 何度も運命を変えてもらっていたんだな…………。」









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