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どのぐらい走っただろうか、いつの間にか夕方になっていた。夕暮れの繁華街でタクシーに乗り、騒ぎが起こった場所からさらに離れて行く。そしてタクシーを降り、男に連れられて、こぢんまりとした喫茶店に入る。
「すまない、居ても立っても居られなかったんだ」男は疲労感に満ちた笑顔を見せる。「きみ、たった一人でテロリストに立ち向かっていった、例の女の子だよね?」
その言葉に佐羽は明らかに不快な顔をして見せ、座席に腰を下ろした。
「実はね、僕もその飛行機に乗り合わせていたんだ」と、男は座りながらメニューを佐羽の前に置く。どうやら奢ってくれる様子。精悍な顔立ち、年齢は三十代といったところ。優しい雰囲気は、どことなく春を感じさせる爽やかさがある。
メニューのハンバーグセット、メロンジュースを指差し、男は嬉しそうに自分の珈琲と一緒に注文する。何が目的だろうか、佐羽が勘繰っていると、男は有名な大手企業の名刺を取り出して「僕は
注文した品が運ばれてきて、佐羽のほうから「それで?」と話を振る。男は――澤渡は、静かに目を閉じて口を動かす。
「お礼をどうしてもきみに言いたかったんだ。良ければ名前を教えてくれないか?」
「……佐羽。苗字は嫌いなの」と視線を他所へ向ける。
「そっか……じゃあ、改めて」男は深々と頭を下げる。「あの日、助けてくれてありがとう。本当に、心の底から感謝している。まさかこんなふうにお礼が言える日がくるとは思わなかった。だから、どうしてもお礼が言いたくてきみの手助けをした。逃げようとした理由は、聞かないでおくよ。きっと事情があるんだろう」
「……別に。ただ、用がなくなっただけ」
ため息を吐いて、佐羽はハンバーグセットと一緒に来たナイフを手に取ると、刃先を自分の胸に向けて構える。澤渡が目を丸くさせる中、勢いよくナイフを胸に向けて突き立てる――澤渡が立ち上がって手を伸ばす。しかし、刃先は座っている座席の背もたれへと向けられ、突き刺さる。冷や汗を掻いて呆然としている澤渡に、佐羽は悪戯に微笑む。
「飛び降りて、爆弾で華々しく散るつもりだったの。でも私は死ななかった」ナイフを抜いて、紙ナプキンで刃先を拭う。「あり得ない話よ。だから『確認』しようと思ったの。確実に電車に轢かれるタイミングを見計らったのに、女の子を助けるために無意識に身体が動いていたの。それではっきりしたわ」
ハンバーグを一切れ口に入れて、佐羽は言葉を失ったかのような顔をする澤渡に言う。
「私は『死ねない』んだって。いくら死のうと思っても死ねない。死にたいのに死ねない」
残酷ね、と佐羽は継ぎ足して食事を進める。その最中、澤渡の様子を窺う。驚きと困惑が入り混じった複雑な表情。そりゃそうでしょうね、とメロンジュースを口にする。
死ねない。それは死を望む佐羽にとって残酷な力だ。
「……佐羽ちゃん」
「どうして死にたいのか、知りたい顔してるね、お兄さん」ナイフを指先でつまみ揺らしながら佐羽は面倒臭そうに話す。「私の両親ね、人殺しなの」
淡々と、佐羽は話す――両親は金使いの荒いギャンブル依存症、さらに酒に溺れて、まだ幼かった佐羽を虐待する日々。そんな日々に一つの節目が生まれた。お金がなくなった、と両親はついに強盗を計った。そして両親は盗みを働き、狙った家で住民である若い女性に見付かり――殺してしまった。
それから佐羽の人生はさらに歪曲していく。隠そうとしても情報は必ず流れる。人殺しの子供として周囲から冷やかな視線を向けられ、学校では噂が漏れ出し、いじめに発展、現在、中学二年生になった今も佐羽は孤独の中にいる。そして――佐羽は厄介者扱いをされながら、親戚中を次々とたらい回しにされてきた。飛行機に乗っていたのも、次の引き取り手である親戚の家に向かうためだった。
病院に来た、あの親戚夫婦の家だ。
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