第16話 8月分・その3
8月21日 夜が明けた。
夜の間にトイレに行った。一人でトイレに行くのには不安があったが、妻が用意してくれたボール箱の椅子に助けられた。箱にしっかりしがみついて、用意に立ち上がることができたのだ。
妻による自宅改装計画は成功だ!
朝食はコーンフレーク。質素ではあるが、食パンだけの食事よりよっぽど豪華なように感じられた。
朝一番のストレッチ。理学療法士さんが、僕のために厳選し、パソコンで20ページほどにまとめくださった療法である。手足の曲げ伸ばし、前屈、ゴムを使った肘を鍛える運動、片脚で立つ運動……。
ストレッチは娘が手伝ってくれた。寝ている僕の上に馬乗りになり、膝の曲げ伸ばし。ちっとも重くはなかった。むしろ笑いながら僕に挑みかかるのが楽しくてしょうがないらしい。僕も楽しい。
何だ、自宅でのストレッチって、すごく楽しいぞ。これなら退院してもやっていけそうだ。
僕の仕事場に向かう。
僕のずぼら性格のせいで、ひどい有様になっていた場所。しかし、妻と娘が見事に整理してくれた。もう何と言っていいやら。
溜まっていたメールの整理をはじめる。しかし一千通を超えるメールだから大変だ。大半が即座に廃棄していいスパムのような代物なんだけど、まれに知り合いからのメールが混ざっているかもしれないし。何日もかかるかもしれない。
昼食は駅の近くにある僕の行きつけの喫茶店に。妻と娘も知っていたというが、入ったことはなかったらしい。
喫茶店のご主人は、僕の顔を覚えていて、声をかけてくれた。まだ言葉が不自由な僕に代わって、病気で入院していたことを妻が説明する。僕の顔を覚えていた人がいたことに嬉しくなった。
店の料理は僕のおすすめ。妻と娘も気に入ってくれた。僕もこの店の「野菜たっぷりカレー」を久しぶりに食べられて満足。
喫茶店の途中の道を歩いていて、気がついたこと。
街には歩行の不自由な人がやけに多い。高齢のせいで速く歩けない人や、脚が不自由でまっすぐに歩けない人。
僕と同じような人。
これまで街でそういう人を見かけても何とも思わなかった。「じゃまだ」とか「こんなとこを歩くな」とかいう差別的なことを考えたことはないけど、積極的にそういう人を応援したいとも思わなかった。たとえて言うなら背景に描かれたその他大勢の人、イラストでは細部が省略された人にすぎなかった。
でも違う。彼らはみんな生きた人間だ。彼らの一人となって僕はそのことを痛感した。
丸一日の屋外リハビリは終了。またうんざりする病院の日々がまっている。
がんばれ。もう少しだ。
8月27日 今日は退院の日が決まった。9月5日!
たった三か月、でも僕にとっては永遠にも思える長い三か月だった。とりあえず留守中の家を支えてくれた妻に感謝しなくては。
しかし、その妻のことで不安がある。
退院の日、美月は来れないので、妻だけが来るというのだ。おまけに妻の弟も用事があって来れないという。妻は退院の日に重い荷物を一人で(どうせ僕には持たせてくれないに決まっている)担いで帰らなくてはならない。
心配だ。妻は前日まで、町内会の用事で多忙だという(夫が入院中の妻が、そんな用件を引き受けなくていいと思うのだが)。つまり病院に来る日は最低のタイミングだ。
妻は先生に「この人は愛妻家アピールしたいんですよ」と笑う。僕が彼女の体を心配していることを本気にしていない。「愛妻家アピール」だと。
断じて違う。僕は本当に本気で彼女の身を案じている。
僕は彼女の「だいじょぶ、だいじょぶ」という言葉を信じない。娘を妊娠しているとき、二度もぶっ倒れたぐらいだ。いつでも自分の限界を知らず、限界を超えてぶっ倒れる。もっと自分を労わって欲しい。
どうしようかな。妻の決意は堅そうなので、どうすれば翻らせるか、思案のしどころだ。退院できるのは嬉しいが、代わりに妻が入院するのはこまる。
鋼鉄サンボくんがまた見舞いに来る。例によってマンガや特撮本が山のように。嬉しいけど量が多すぎる。必ず9月4日までに引き取ってくれるよう頼む。
8月28日 昼のリハビリの直後、自室に戻ったら、机の上に美月からのメモが。
「8月中行ける日が今日しかなくなっちゃったから来たんだけど、リハビリと重なっちゃった。
今月もお疲れ様! 来月の退院に向けてもう一ふんばりがんばれ!」
うむ、がんばる!
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