第12話 7月・前半分
今日は理学療法のNさんといっしょに、二回目の屋外外出へ。今回は妻がいない。ちょっとアバンチュールな気分(笑)。
前回の外出は駅の手前までだったけど、今回は駅の反対側の松坂屋まで足を伸ばす。さすがに疲れたので、入口のすぐ横にある自販機コーナーでひと休み。
僕が買ったのはロイヤルミルクティー。ああ、三ヶ月ぶり! 街を歩いて自販機で好きな缶入りドリンクを買うのが、こんなに素敵なことだったなんて。
自販機の横の椅子に座り、ロイヤルミルクティーを飲みながら、のんびりと雑談。Nさんが妻のことを話題にしたので、彼女が新婚当初まで老人介護の仕事をしていたと話すと、「道理で私たちの仕事に理解のある方だなと思ってました」と言われる。
そこから出産についての話になり、「立ち会われました?」と言われたので、自信たっぷりに「はい!」と返事。「ヒッヒッフー」とラマーズ法の真似をする。あまりにおかしかったのかNさんも笑い出し、しばらく二人で「ヒッヒッフー」「ヒッヒッフー」と笑い合った。
僕は「ドラマの出産シーンなんて嘘ばっかりですよね」と言う。ドラマでは父親が廊下で心配そうに待っていると「オギャー」と声がするのが普通だ。しかし現実に目にしたそれは、そんな生易しいものじゃなかった。
血まみれの肉塊が体内から出てくるのだ。ほとんどスプラッタムービーである。居合わせた父親の中には失神する人もいるとか。
でも妊娠中も大変だった。妻は二回も体調が急変して倒れたのだ。
「だから妻に、仕事を辞めろと……」
その瞬間、言葉が咽喉の奥でつっかえた。
もう二十年以上前の出来事だ。とっくに記憶の中で風化してると思い込んでいた。だが、そうじゃなかった。
仕事を辞めろと言った瞬間、彼女は大泣きに泣いたのだ。
妻はお年寄りの世話が楽しくて仕方がなかったのだ。大震災の日にも出かけて行ったほど。生きがいだったと言っていい。
僕も彼女の生きかたを応援していた。できるなら、出産後も続けさせたかった。
でも、彼女の肉体がそれに耐えきれなかった。
「山本さん、泣いてます?」
Nさんの声。そう僕は泣いていた。
あの日の決断が間違っていたとは思わない。妻は自分の限界を知らない。いつも「だいじょぶ、だいじょぶ」と陽気に笑い、限界を超えてぶっ倒れる。だから誰かが「辞めろ」と命令しなくてはならない。
僕はまだ見ぬ娘も命を守るために、苦渋の決断をした。
でも僕は、未だに胸の片隅に引っかかっている感情がある あの日、僕は妻のもうひとつ未来を断ち切ってしまったのではないか? その後悔の念があの瞬間、涙となったのではないだろうか。
ちなみにNさんは退職を予定しており、僕の担当になるのはこれが最後。僕の小説を読んだことがないと言うので、退院したら『詩羽のいる街』一冊プレゼントすると約束する。あれは女性向けに書いた話だし、僕の最高傑作だから。
病院の医師や看護師に何かをプレゼントするのは、普通は禁じられてるんだけど、退職する人に対しては問題ないだろう、たぶん。
角川書店、東京創元社、早川書房の編集さんが揃って東京から見舞いに来られた。こんなにあちこちの編集部の方々に心配させてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいである。
特に創元社さんは、『BISビブリオバトル部』の第五弾の連載をいきなり投げ出してしまい、もうひたすら頭を下げるしかない。復帰したらただちに連載を再開しないと。
角川書店さんには、カクヨムに病床での体験記を書くことを約束した。あと、これまでの僕の路線とは異なる、エロチックな小説を出したいという希望も伝えた。
早川書房さんにも僕の新たなSF本の構想について伝えた。
どこまで受け入れてもらえるか分からない。しかしやれるだけのことはやるつもりだ。
何と言っても、家族を食わせなくちゃいけないんだから。
見舞いに来た角川書店の人に、『里山奇談』という本をいただいた。野山を舞台にどこかほのぼのとした怪奇エピソードを集めた本。
うーん、ごめん。僕にはイマイチこの面白さがピンとこない。おそらく超自然的なものを信じてる人にとっては面白いのだろうけど、あいにく僕はガチな科学合理主義者なもので。
以前、友野詳に愚痴ったことがある。彼は当時、(『妖魔夜行』をやっていた頃だ)一般の人から実話怪談を募集していた。幽霊のようなものに会ったことがあるとか、超自然現象のように思えるようなことに遭遇したことがあるとか、よくある話だ。大半は意外なオチなどなく、淡々と語られるだけ。
僕が問題にしたのは「実話の優位性」だ。僕らプロの作家は、知恵を絞り、頭を使い、いわば魂を注ぎこんで読者を怖がらせる話を書いている。しかし、「本当にあった話」と名打つだけで、何の創意も工夫もなく、ましてオリジナリティもない、どこかで読んだような話が幅を利かせている。
何でみんな退屈な「本当にあった話」の方に惹かれるのだろう。それはフィクションを糧にしている者にとっては、耐え難い屈辱なのに。
そこでこんな本当の話を書いてみよう。正真正銘、これは実話である。
1980年頃の話である。
その当時、京都駅前では地下鉄の工事が行われており、たくさんのトラックやダンプカーが出入りしていた。
僕はその工事現場の近くを歩きながら、何となく地球の人口問題について考えていた。
その時、一台のトラックが工事現場に入ってきた。標語を掲げた電飾が運転席の周囲を彩っている、いわゆるデコトラというやつだ。
僕はぎょっとした。そこに書かれた電飾には「世界の終り」とあったのだ。
慌てて見つめ直すと、それは「世界の願い・交通安全」という標語だった。僕の見間違いだったのだ。
僕はほっとした。
「そうだよな。『世界の終り』なんて標語を掲げたデコトラなんてあるわけないよな」
そう考えて歩き続けた。しかし、その次に工事現場に入ってきたデコトラを見て、僕はショックで凍りついた。
そのデコトラの電飾には、「THE END OF THE WORLD」と書かれていたのだ。
これは実話である。僕が一生の中でただ一度遭遇した超常現象(シンクロニシティ)だ。
でも誰に話しても、「ふーん、それで?」という感じで感心してくれない。
やっぱり人間は「霊」とか「呪い」とかいう分かりやすい現象しか信じないのだろうか――噓であっても。
考えてみれば、『神は沈黙せず』で描いたような僕の超常現象に関するイメージは、この時の体験に起因するのではないだろうか。人が信じるのは分かりやすい現象だけ。ファフロツキーズのような飛び切りの異常現象には、関心を示さない。
7月26日 あのはすみとみこ氏のツイートを読んでしまう。LGBTの権利を認めることは、「男女カップルの成立が減り、少子化に拍車がかかる」「子づくりはフリーセックス。そして、子どもは国の所有物になり、日本は共産化する。五手六手先まで考えよ」と。
「男女カップルの成立が減り」と「子づくりはフリーセックス」がどうして結びつくのか(笑)。同性愛の人から少しぐらい増えたって、出生率がそんなに下がるわけじゃないのに。だいたい日本が少子化しているのは、子供を産み育てるのが難しくなっているから。先進国はどこでもそうなので、LGBTのせいにするのは意味がない。
だいたい、LGBTの権利を認めるのは世界の趨勢である。ニュースを見ていないのか。
7月27日 言語療法の訓練はひどい屈辱である。「野菜の名前をあげてください」とか「動物の名前を言ってください」とか要求されるのだ。普段の僕なら何でもないことだ。だが今はそれが難しい。
「うーん……キャベツ…‥ピーマン……えーと、えーと……ナス……」
といったように、一分間に数個しか言えなくて悔しい思いをする。
今日もそうだった。「ヤのつく言葉をできるだけたくさん言ってください」と言われたのだ。いい加減いらいらしていたので、「スーパーロボットの名前ならいくらでも言えますよ」と言ってみた。そうしたら「それでいいです」という返事。
僕はここぞとばかりに、スーパーロボットの名を並べ立てた。
「マジンガーZ、グレートマジンガー、ゲッターロボ、ゲッターロボG、グレンダイザー……」
「待ってください。書くスピードが追いつきません」
僕はやむなくスピードを少し落とした。
「ギンガイザー」
と言ったところで、ふと言葉が止まった。マシーンブラスターはどうする? 4体のロボット(ロボクレス、ブルシーザー、ボスパルダー、サンダイオー)の名前をすべて言うのか? あっ、考えてみればギンガイザーも3体(グランファイター、ブルゲイター、スピンランサー)だ 。
「あと、ライジンオー、ガンバルガー、ゴーザウラー」
「あっ、ガンバルガー、いいですね。がんばるがあ! て感じで」
結局、時間の関係でそれぐらいしか言えなかったのだが、僕は「まだ100体ぐらい言えますよ」と豪語した。嘘じゃない。まだ、ライディーン、コン・バトラーV、ボルテスV、ガ・キーン、バラタック、ザンボット3、ダイターン3、グロイザーX、ゴーダムなどがまだだし、勇者シリーズもそっくり残ってる。それにトランスフォーマーを混ぜたら、確実に100体は超える。
それに途中で気づいたことがある。僕はそれらのロボットの名前を口にする際、同時にその主題歌が頭の中で流れているのだ。『ギンガイザー』なら「戦いは~、これで決まりさ~♪」、『ライジンオー』なら「大事なことなんて~♪」といった具合。
それにスーパーロボットについても同じことが言える。もちろん主題歌はみんな歌えるし、『ガンダム』のモビルスーツへの名前ならすらすら言える。『イデオン』の重機動メカ、『ダンバイン』のオーラバトラーの名前も。
他にもある。ウルトラマンの初代からルーブまで、仮面ライダーの初代からビルドまで。多少のごちゃ混ぜは気にするな(笑)。あとスーパー戦隊のゴレンジャーからルパンレンジャー、パトレンジャーまで。
ああ、そうか。僕の魂にはこうしたものが息づいていたんだな。オタクの遺伝子とでも言うべきものが。
7月29日 インターネットで杉田水脈議員に対する抗議活動のニュースを見ていたら、「パヨクの証拠をつかんだ」と主張している者がいた。抗議活動を見ていたら、いつも同じ顔のやつばかり目につく、というのだ。
いや、基本的に反政府のデモなんで、よく知ってる顔が何人かいてもおかしくないけど、全員が知った顔というのはありえないんじゃない?
しかし、このツイートに何百人も「いいね」をつけてるという事実。
杉田議員の発言に対する抗議運動には、陰謀論を唱える人間も多い。すべてはパヨクの陰謀だ、世論を操作し、問題のない発言を問題視していると。
いや、杉田議員があんな発言をしたのは事実だし、それに対して腹を立てる人間も多い(僕もその一人だが)のも事実なんだけど。
世の中には陰謀論を信じる人間が多い。「パヨクの陰謀だ」「中国の陰謀だ」「アメリカの陰謀だ」……果ては「コミンテルンの陰謀」「イルミナティの陰謀」なんて荒唐無稽な説を唱える者もいる。
左翼の人間でも油断はできない。「自民党の陰謀」を安直に口にする者が多い。
当たり前だけど、ある説が事実として認定されるためには、確かな証拠が必要だ。「私はそう思う」なんてのじゃなく。
証明のない説は、すべて「仮説」、あるいは「妄想」である。
妄想に人生を賭けてはいけない。
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