月明かりとダンス

夕凪 春

スターチスとワスレナグサ

「あなたのことが嫌いになったの。だからもう別れよう。……二度とここには来ないでね、さようなら」


 カーテンを開けきった窓の外には鮮やかな夕焼けが映える。赤く照らされた室内には積まれた本と花束、リンゴ――そして二つの影。

 そこには女の突き放すような声だけが響く。目の前に呆然と立ち尽くしている男は、突然の言葉に動揺を隠しきれていないようだった。

 程なくして長い沈黙が二人の間に訪れると、その男は耐え切れず部屋を出て行く。


 一人取り残されたその部屋は泣きたくなるくらいに静かで。

 ――本当に馬鹿な女。私は大嘘吐きだ。


**


 気づいた時にはもう遅かった。

 たびたび起こる貧血の症状や身体のだるさ、ダイエットをしているわけでもないのに減っていく体重。おかしいと思って近所の小さな病院へ行くと、大学病院での精密検査を勧められた。

 そこで私は『白血病』だと医者の人から告げられた。目の前にちらつく死への恐怖に眩暈を覚えた。隣で悲嘆に暮れる両親の姿を今でもはっきりと覚えている。

 すぐに私は入院することになり、学校には行けなくなった。友達とも遊べなくなった。そして圭介にも会えなくなった。


「理沙は本当、本が好きだね」

「うん。だって面白いんだもん。良ければ何か貸してあげようか?」

「じゃあお勧めのやつがいいな」


 圭介は小学校からの幼馴染だった。家も隣だった事もあり、何をするにも一緒の仲の良いご近所さんだった。彼の好意に気づいたのは高校を入学して間もない頃だった。中学時代の学力で言えば私の方が上。そんな彼が死に物狂いで勉強して私と同じ学校に受かったのだと、後になって共通の友人から聞いた。


 私は正直最初は恋愛対象としては見られなかった。ずっと昔からただの友達だと思っていたからだ。でもそれが変わっていったのは確か、圭介が同級生の女の子から告白されたと聞いた時からだった。胸がざわついてイライラして落ち着かない日が何日も続いた。当然彼のことを応援なんてできるはずもなかった。

 数日後彼がそれを断ったと聞いたとき、心の底から安堵した。その時私は確信してしまう。どんな時でも優しい彼の事が好きだったのだと。

 こうしてどちらからともなく告白し、私達は付き合うことになった。彼とこの先もずっと一緒に居られたらどんなに幸せだろうとその時は思っていた。


 私の長い闘病生活がはじまった。抗がん剤の影響で髪の毛が抜け始め、それが嫌で寝ている時以外は帽子を被るようになった。圭介には絶対見られたくなかったから全部断っていたけれど、毎日のようにお見舞いといって病院に来てはすぐに引き返していく姿を見て、ついには私のほうが折れた。

 彼は変わらず優しかった。授業のノートのコピーや私の好きな果物や小説を毎日のように持ってきてくれた。何度かやんわりと別れを切り出したことがあったけれど、彼は決して首を縦には振らなかった。ただただ彼の優しさがその時の私には怖かった。


 そんな日々が続いて数ヶ月も経つと、私の体は急激に悪化の一途を辿っていく。収まらない熱に腹痛と頭痛。止まらない吐き気と痩せこけていく体。このときにはもう一日をほとんど寝て過ごすようになっていた。

 そしてついに、私にはタイムリミットが示された。まるで他人事のように不思議と涙は出てこず、なぜか冷静で受け止められた私は決意をする。

 終わりへ向けてのけじめをつけなければならない。


 一方的な別れを告げた日を境に圭介は来なくなった。これで良いんだ。先の短い私なんか忘れて次の出会いを、新しい恋をして上書きして欲しい。このまま一緒に居てもただ辛い思い出を残すだけなのだから、これで良かった。良かったはずなのだ。

 その夜、孤独と痛みに耐えながら、夕焼けの赤さだけを思い出して私は一人静かに泣いた。


「あの葉っぱが落ちたら、私は――」


 あれから私は窓の外ばかり見るようになった。こんなにも生きているのが辛いなら早く遠くへ連れ去ってくれればいいのにと、そればかりを考えるようになっていた。

 両親にもいつ居なくなってもいいようにお別れは伝えてある。もう心残りなんてない。なのに、あるはずもない奇跡を夢見てしまう自分に腹が立った。



 日も落ちて面会時間も終わろうかという時。それは突然だった。

 看護師さん達が騒ぐ声と誰かの足音。その様子からは廊下を走っているのだろうと分かった。

 私の部屋の前でそれが止まり、しばらくすると静まり返り突然扉が開いた。


「どうして……!?」

「やっぱりダメなんだ。何をしていても、夢の中にいても理沙のことが頭から離れない。諦め切れないんだ!」

「…………もうやめて」


 圭介がそこにはいた。形振り構わず走ってきたのか髪はぐちゃぐちゃで、必死の形相。おまけに息は大きく乱れていた。


「だから、嫌いになったって言ったでしょ。……いいからさっさと帰って」


 私はそう言い終えると布団を被る。嬉しいのだか悲しいのだか自分でも分からない、この表情だけは見られたくなかった。


「理由を聞かせてよ。どこが嫌になったの? 言ってくれれば僕だって」

「無理だよ。もうあの頃のようにはいかないの」


 元気だった頃の私は彼と並んで歩くことも笑うことも、少し先を進んで待っていることもできた。これから来るだろう二人の未来を夢にも見ていた。

 でも、それはダメになってしまった。その現実がどうしても私には耐えられなかった。


「そんなことは――」

「あるよ。そんなことあるんだよ」


 なかなか引き下がってくれない彼に、私はあの言葉を投げつけることにした。それは二人の関係を終わらせる一言。そのまま離れて行って欲しいがための自分勝手で残酷な言葉。

 布団をめくりあげて、私は彼の顔を見つめる。


「ほら見て、ひどい顔でしょ。……私ね、もう長くはないんだって。あと三ヶ月って言われちゃった。どう? これでも何とかなるって言える? ううん、言えるわけがないよね。だから……さよならだって言ったのに、どうして……どうして来たの?」


 早口で捲し立てる。言い終わらないうちに涙が頬を伝うのが分かり、私はそのまま目を閉ざした。これでようやくすべてが終わる。またあの孤独に戻るのだ。

 しばらくの沈黙の後、暖かい体温を感じると驚いて目を見開く。すると彼が私をやさしく包み込んでいた。


「理沙を一人になんてさせない。それに駄目だよ、最後まで諦めちゃ!」

「同情なんてやめてよ!」


 私は彼を突っぱねようとする。けれど彼はより強く抱きしめてきた。


「好きだから一緒にいたい。それの何がいけないの? 理沙が大変な時に一番近くに居たい、ただそれだけなのに……」


 圭介も泣いていた。どちらかと言えば彼は昔から泣き虫なほうだった。そして事ある毎にそれを慰めるのが私で。


「私がいなくなったあとの事を考えて。……圭介は優しすぎるから絶対に傷つくよ。だから離れて欲しかった。すぐに私のことなんて忘れて欲しかった」

「ごめん、それはもう無理なんだよ。僕は理沙のこと忘れたりなんてできない」


 その言葉を聞いて、私は病院に来てから初めて声をあげて泣いた。「ごめんね、ごめんね」と彼の胸の中で何度も何度も繰り返した。彼は「大丈夫、大丈夫」とだけ同じように繰り返すとぎゅっと強く抱きしめる。


「ねえ、ちょっと痛い……。背骨折れちゃうよ」

「ああ、ご、ごめん!」


 私達は久しぶりに笑いあう。何だかあの頃に戻れたようなそんな気がした。


「ねえ、お願いがあるんだけどさ――」


**


「――ちょっと待って、それはいいけど体は平気なの?」

「今日はまだ調子良いほうだから、多分」

「ここから出てってこと? どうやって?」

「抜け道があるの。私、こう見えてここは詳しいんだよ」


 私の願いは二つあって、一つはついさっき叶ってしまった。だったらともう一つもこの際実現してやろうと考えたのだ。

 この期に及んで私は欲張りだろうか。それから彼には迷惑を掛けてしまうとは思うけれど。


「わかった。理沙がしたいことは僕のしたいことでもあるから!」


 病室を出るとまずは階段のある方を目指す。エレベーターはあるけれど、誰かと鉢合わせてしまう可能性が高い。運動量としてはそれなりにきついものだけれど、今はこれしか方法がなかった。

 目の前にナースステーションが見えてきた。彼は先に行くと見つからないように腰を低くして、私に「今がチャンス」と子供のように笑い手招きをする。楽しそうなその姿に、退屈で彩られたはずの病院が今だけは違ったものに見えた。

 そうして私達は階段室までたどり着く。


「まずは一階まで降りないと……」

「理沙じゃさすがにここはきついんじゃないかな。ほら、乗って」

「えっ! 私重い……あ、重くはないけど。でも」

「いいからいいから」


 そう言うと圭介はいとも簡単に私を背負う。知らなかった、こんなにも広かったんだ。それは頼りがいのある背中だった。

 一階まで降りると私は「もう大丈夫」と言うものの、彼はそのまま進んでいく。


「次はどうすればいいの?」

「あそこまで走っていって、それから……」


 まるで、何か小説に出てくるような脱出劇みたいだと一人笑う。彼もそれに気づいたのかこちらを不思議そうにじっと見ていた。意地悪しちゃうけどこれは私だけの秘密にするね。

 圭介は私にとってただ一人のヒーローだった。


 そうしてこの脱出劇も終わりを迎えると、ようやく中庭までやってくることができた。彼の背中を名残惜しく思いつつ、自力でベンチまで歩くと並んでそこに座る。

 私は空を見上げた。いつもは切り取られた世界の一部だったものが、今はこんなにも近くにある。


「月が綺麗だね」

「このまま時が止まればいいのに」


 そのやり取りに彼は微笑んでみせた。

 そして――


「僕と踊っていただけませんか」


 彼は大げさにかしづいて手を伸ばす。私は立ち上がり彼の手を取ると微笑み返した。


「ええ、喜んで」


 一つ一つの動きを確かめるように、不器用でぎこちないダンスをした。このステージには私達しか居ない。それはキラキラと輝くスローモーションの世界で、月明かりに照らされた二人だけのラストダンス。


 ――――カーテンコールの時は近い。



「これが最後になるかもしれないんだよ。それでもいいの? 本当に後悔しない?」

「それでいいよ。違う、それがいい」


 そして私の影と彼の影が重なり一つになる。

 何があっても、最後を迎えるその日までこの人と共に居よう。


 下弦の月が私達を優しく見つめていた。

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月明かりとダンス 夕凪 春 @luckyyu

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