夏の冠詞
音菊
第1話
ピンポン、とチャイムを鳴らす。開いてるよー、と中から声がした。玄関の扉に体重をかけ、肩で開ける。
「おはよう」
滴り落ちる汗を手の甲で拭った。
しかし、炎天下を歩いてきた私を出迎えたのは期待していたような冷気ではなく、屋外と同じ濃度の熱の籠った空気だった。条件反射的に眉間に皺が寄る。
部屋の主は振り向いて、慌てて口に咥えていたパピコを急いで吸い切った。
「────おはよう」
「エアコンくらい付けなよ」
「窓全開で扇風機回してるからへーき」
「こっちは平気じゃない」
わざとバタン、と音を立てて彼女の横に寝転がった。心地よい床の冷たさを求め、すぐに温くなる木の板の上を転がり回る。
彼女は最大風速で縦横無尽に唸っていた扇風機の首を固定し、照準を私に定めた。
濁点の付きそうな間延びした私の声が風に乗って流れていく。風の温度もまた温いが、ないより百倍マシだ。
そんな私を尻目に、彼女は胡座をかいたまま腕だけを伸ばして袋に入った二本目のパピコを取り出す。意外と横着である。
「私にもくれ」
寝転がったまま腕だけを空に伸ばす。
「やだ」
「夏の風物詩だろ、二本セットのコーヒー味のアイスを1本ずつ分け合って食べるのは」
「そうだね、でもあげないよ」
「…………ブルジョワめ」
「百五十円で買えるブルジョワだよ、いいでしょ」
わーたーしーもーたーべーたーいー、と大人げなく床で足をバタつかせる私に向かって、これ見よがしにプラスチックのチューブを吸っている姿が腹立たしい。
「暑苦しいから向こうでやって」
あっはい。空を蹴っていた足は虚しく床に落ちる。
「────麦茶なら冷蔵庫にあるよ」
溜息と共にどうでもよさそうに付け加えられた提示に飛び付き、私は跳ね起きて台所に向かう。
勝手知ったる台所、食器棚から取り出したコップに氷を入れ、なみなみと麦茶を注ぐ。
「あたしのも入れておいてー」
「今入れてるとこ」
ブルジョワも氷入りをご所望らしい。氷が要るかどうか尋ねたら、何当たり前のことを言っているんだ、という顔で見られた。
キンキンに冷えた麦茶を一気に喉に流し込む。コップはあっという間に空になる。底に取り残された一回り小さくなった氷を噛み砕いた。ガリッという音と共に、頰の内側の熱と感覚が奪われる。
「昔から腰に手をやる癖、変わらないよね」
勢いに任せて私が次々に口内の氷を破砕していると、彼女が話し掛けてきた。彼女の右手に握られたコップの中身はまだ半分ほど残っている。
「そうかな」
腰に手をやる癖は、もともとは彼女のものだったはずだ。幼い頃の私はすぐにそれを真似た。二人でよく水筒を飲み、プハーッ、と風呂上がりの父親がビールを飲み干した時の音まで息を揃えて再現して、お腹がタプタプになるまで延々と遊んだものだ。
いつから彼女は腰に手をやらなくなったんだろう。
私は腰に手をやったまま、その問いごと、最後の一個の氷を噛み砕いた。
無造作に付けっ放されていたテレビから、コメンテーターの声がする。お昼のワイドショーだろうか。
『────この伝統を受け継ぎ、平成最後の夏にふさわしい、最高の祭りにしたいですね』
マイクを向けられた実行責任者が喋っている。
「平成最後の夏、か」
「平成最後だろうが何だろうが、祭りは常に最高じゃなきゃ駄目だろ。それがお祭りってものじゃん」
私は床に大の字になる。ふと、持ち上げた足をよく見てみると、赤のペディキュアが所々剥げていた。
「それな」
横に座っていた彼女は私に同意し、リモコンをテレビの画面に向けて沈黙させた。
テーブルの上には空になったコップが2つ並んでいる。
全開の窓から、静かになった部屋に風が吹き込んでくる。一際強い風が吹き、レースカーテンが煽られ、窓と布の隙間から外がくっきり見えた。煽られたカーテンが元に戻らない内に、私は立ち上がり、窓の側に寄って、レースカーテンを端に括る。
窓枠の形で切り取られた外の世界は、ひたすらに眩しくて、不自然なまでに鮮やかで、押し付けがましいほど綺麗だった。
都会の隅のマンションの窓から、緑化の進んだ住宅地を下に、海辺の町を臨み、その先には真っ青な海と、空。入道雲の白さが目に痛い。全てを射抜くような強烈な日差しの下、生い茂る緑が全力で生を主張する。
これが、夏。
「夏にさ、冠詞なんて要らないよ」
窓を開け放ったまま、私はその場に座り込む。
「うん」
「平成最後の夏でも、高校二年生の夏でも」
変わらないよね、と私はペディキュアを塗った足の爪を指でなぞる。
夏は有意義である(べき)ものだ。
夏は輝いている(べき)ものだ。
夏は特別である(べき)ものだ。
世間に追い立てられ、逃げるように、私は今年もこの都会の隅のマンションの一室に転がり込む。私にはこの剥げたペディキュアの赤がお似合いだ。
「じゃあさ、逃げちゃおう」
彼女が突然、体育座りの私の肩に乗りかかる。
「あたし達の夏以外の夏なんて、クソ食らえだ」
背中に感じる重みが、小気味好いリズムで左右に揺れる。彼女のじっとりとした体温が、私の背中のシャツを汗で濡らした。私は頷いた。
「じゃ、決まりだ。海に行こう」
財布をポケットに捻じ込み、私はさっき玄関に脱ぎ捨てたばかりのビーサンを突っ掛けて外に出る。彼女は殊勝にも、麦わら帽子を被ってきた。白いシンプルなワンピースによく映えている。
***
「あっつ」
暑さに閉口しながらバスを待つ。蝉の鳴き声が、じわじわと倦んだ空気を侵食していく。
冷房の効いたバスに乗った瞬間、お互いの舌が回り始めたのは、喋ることすらもどかしい外の茹だるような熱気と無関係ではないだろう。
幼い頃のように、とりとめもなく、たわいないお喋りをする。
「────かき氷のシロップって全部同じ味らしいよ。色と匂いが違うだけで」
「マジで? じゃあ今度鼻つまんで飲んでみよ」
「鼻つまんだら全部味しなくなっちゃうから意味なくない?」
「確かに」
次は終点です、というバスのアナウンスが聞こえた。運転手の機械的な挨拶に同じトーンで返し、バスを降りた。
券売機の上部に貼られた料金表を見る。このような遠出は想定していなかったので、ICカードを持っていなかった私は切符を買う。隣の彼女は、それを持っているのにも関わらず、チャージせずに私と同じように切符を買う。
「何で」
「何となく」
彼女が悪戯っ子のような目で答える。
「お揃い?」
何でそういうこと言っちゃうかなー、と目を逸らした彼女は切符を片手に改札に向かう。慌てて後を追う私。口では言うものの、彼女の声には親愛が籠っている。
久し振りに乗った鈍行に揺られながら、外の景色が住宅街から海辺の町に移ろう様を眺めていた。ラッシュに揉まれながらどんどん都会に向かう普段とは違い、この電車は進めば進むほど喧騒から離れていく。
よく晴れた夏の昼下がり、隣に幼馴染。ノスタルジーも悪くない。そんなことをつらつらと考えていたらいつのまにか眠っていたようで、彼女に肘で強めに突つかれて目が覚めた。
「起きろ、次で降りるよ」
海の匂いがした。
改札を抜けるともう、すぐそこに青が広がっている。平日だからか、浜辺にいる人は少なかった。
履いてきたビーサンを脱ぎ捨て、歓声を上げて波打ち際に駆け寄る。ワンテンポ遅れて、白いワンピースの裾をたくし上げた彼女がやって来た。勿論彼女も裸足だ。
じゃぶじゃぶと波に戯れ、途中でバランスを崩して思い切り水の中に突っ込む。うへぇ、と水の塩辛さを思い知っていると、背後から盛大に水を掛けられた。仕返しに、私も彼女に飛び切りの水飛沫をお見舞いしてやる。水を頭から被った彼女がけらけら笑う。
水を掛け疲れて、笑い疲れた頃には2人ともぐしょ濡れだった。砂浜に寝転んで、服を乾かす。眩い日差しに目を細め、隣の彼女を見やる。彼女は麦わら帽子を顔に被せていた。
「────日焼け止め持ってきた?」
帽子の下からくぐもった声がした。
「持ってきてない」
「だよね」
ちょっとした悪戯心が湧き、日焼けしたくな~い、とほざく彼女の顔から麦わら帽子を奪い取った。いきなり強烈な太陽光線に晒された彼女がンギャ、と悲鳴を上げ、手で顔を覆った。何すんだ、と彼女がやたらめったら手足を振り回す。
「返せ」
彼女が起き上がり、うつ伏せに寝転がっていた私に馬乗りになって、背中をポカスカ叩く。
「やだって言ったら?」
背中の打撃の勢いが少し強くなった気がした。
「殺す」
「オッケー返そう」
私はお腹の下に抱えていた帽子をあっさり手放した。
裾を絞っても水が垂れてこない程度に服が乾いた頃にはもう肌が真っ赤になっていた。
「焼けたねぇ」
彼女が座って、塩でゴワゴワになった髪を括りながら呟く。
「うわーお風呂入りたくない、染みるやつだ」
ホットパンツとTシャツについた砂を払い、私は立ち上がる。
「────どこ行く?」
そう言ってから二時間が経った。ふらふらと海辺の町をほっつき歩く。
「分かんない」
目的地もなく、ぼんやり彷徨う。
途中、ビーサンの鼻緒の部分に当たって私の足の指の皮が剥けてしまった。
「絆創膏、は持ってないか」
「持ってないね」
脱いじゃえば?という彼女の提案に従い、裸足でペタペタ歩くことにした。日陰のひんやりしたアスファルトが心地よい。途中で小さなお土産屋さんに入り、絶妙なダサさの海老のストラップを買った。彼女のチョイスだ。さっきの水遊びで紙幣はすっかり湿ってしまっていたので、小銭だけで支払いをする。
「付けろよ」
「うん」
条件反射的に返事をしてしまった。言質を取られた。筆箱に付けるか。
店員のおばさんが、少し小さいけど今日は花火大会があると教えてくれた。町の記念日か何からしい。二人でお礼を言い、さっきの浜辺にとんぼ返りする。
砂浜に並んで座り、日が暮れるのを眺めながら、屋台で買ったかき氷を二人でつつく。
チープな味の氷をストローで崩しながら、太陽を失った空が見せる一瞬のパステルカラーの中にブルーハワイと同じ色を探す。
見つけた、と思ったのも一瞬で、すぐにみんな藍に飲み込まれていった。
「べろ青い?」
「暗いからよく見えない」
「ブルーハワイだよ」
「知ってる」
暗闇の中で、お互いのかき氷を交換する。
「ねぇこれメロン味?」
一口食べてから彼女に聞く。
「違う、レモン」
私の味覚の問題だろうか。彼女の手元のブルーハワイを一口すくって口に運ぶ。冷たさで鈍くなった味覚のせいか、さっきのレモン味との違いがよく分からない。
かき氷のシロップって本当に全部同じ味なのかもしれない。
「花火、始まるよ」
彼女の声に顔を上げる。
パァン、と光の輪が夜空に弾ける。おぉ、と二人で声を上げた。決して大きくはないけれど、打ち上げられた花火一つ一つに律儀に歓声を上げる。
「あのさぁ、ちょっと目ェ瞑ってみて」
彼女が花火の音に負けじと声を張り上げた。言われるがままに私は瞼を閉じる。
ドォン、ドォン、という地響き。小さい頃はどうしても、この腹に響く感覚が苦手だったことを思い出す。
「戦場だよ、ここは」
硝煙の匂いがした。私は荒野の兵士を連想する。
「花火ってさ、めちゃくちゃ不穏じゃない?」
だからすっごく綺麗だと思う。彼女がこちらを向く気配がして、私は目を開けた。
私は、そんなことを口にする彼女が一番不穏だと思った。
鼓動が早くなる。胸が痛くなる。
「そうだね」
大きく花開いた極彩色の弾丸達は、黄金色に変わり、キラキラひらめきながら海へ散っていった。
花火が終わっても、私達はそこに座っていた。満月になり切れていない月、照らされる海面。波の音が耳を撫でる。すっかり溶けて、ただの砂糖水と化したかき氷の残骸を飲み干した。馬鹿みたいな甘さだった。
海辺でぼんやりしていたら、いつの間に終電が迫っていて、慌てて駅に走る。私達以外無人の車両に乗り込み、来た道を戻って行く。裸足でペタペタ歩きながら最寄り駅の改札を抜けると、案の定、終バスはとっくになくなっていた。
「────歩くかぁ」
バスで十五分の道のりが、二時間になる。あちこち寄り道しながら、だらだらと。駅前の百メートル半径内に二つある同じブランドのコンビニ、道端の謎の祠、昔通っていた小学校、潰れてしまった駄菓子屋さん。
彼女のマンションに着く頃には、空が白くなり始めていた。夏の夜は短い。玄関のドアを開けて、床に倒れ込む。足の裏は真っ黒で、ペディキュアはもう見る影もない。そういえば、窓が開けっ放しだった。床から見上げると、窓から朝日が差し込んだ。部屋の空気はまだ少しぬるいけれど、もうすぐ暑くなってしまうだろう。
彼女が立ち上がって窓を閉め、カーテンでぴっちり覆う。それでも部屋は薄明るい。彼女はテーブルの上から銀色の何かを掴み、私に向かって放った。
「あたし達の夏だ」
退廃と倦怠の空気が私達を包み込む。今日の夏期講習はサボろう。
彼女に貰った合鍵を握り締めて。私達は玄関先で泥のように眠る。
夏の冠詞 音菊 @otokiku
★で称える
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