晦明たる所以2

 ――夜がすっかり更けている。

 時間帯は定かではないが、月は高く昇っているのは確かだ。淡い月明かりが街外れの屋敷を仄かに照らしている。屋敷の中は明かりが点いていて、月明かりなど掻き消してしまうほどに眩しかった。

 二階建ての広い屋敷にはリビングもキッチンも、個人の部屋も完璧に揃っていて、暗い庭には見慣れない花がひとつ、ふたつと咲き誇っている。

 屋敷の中は目眩を覚えてしまうほどになかなかに広かったが、廃墟に見えていたのは気の所為だと思えるくらいほど、埃ひとつ見当たらない。よく手が行き届いていて、窓は素手で触れない限り汚れが付くことはまずないだろう。

 その屋敷の住人は明かりの下で食事を摂って――おらず、リビングには人はおろか、食事すら見当たらない。まるで初めから人など存在しないかのような異質な静けさを湛えていて――ふと、耳を澄ませば水の音が響いてくるのだ。

 当たり前のように存在する重たげな扉。それを越えた先に見えるタオルと洗濯機、そして洗面器。部屋の中から儚げな水音が鳴っている。

 それがシャワーだと理解するのに時間は必要ないだろう――。


「…………?」


 青年は自分の現状がまるで理解できないかのように眉を顰め、不意に襲い来る体の重みに倒れる自分の体のバランスを取ろうと、咄嗟に両手を前に差し出してしまう。

 「目を閉じないと酷い目に遭うぞ」そんな言葉が頭の上から降り注ぐように落ちてきたが、その声に反してほんのりと目を開くと、瞼の上からゆっくりと何かが垂れてきて、嫌味たらしく目の中に入ってしまう。風に当たれば冷えを感じてしまうような特徴的な痛みは味わいたくなかったものだ。

 ――洗髪剤が青年に鋭い痛みを与えたのに気が付いて、男は「だから言ったのだ」と呆れ気味に、尚且つ溜め息がちに呟きを洩らしている。

「悪いな。貴方の現状を打破する為の根本的な解決は、私には不可能のようだ。本当は首輪もどうにかしたいものだが……何せ、私の腕が消し飛ぶので」

 そうなっては元も子もない。男は青年の頭を丁寧に洗いながら彼の首にあしらわれた首輪が外せない事情を口にしている。


 非現実的ではあるが、青年の首輪に触れれば男の腕が消し飛んでしまうらしいのだ。男はそれを自分の手で外して欲しいと願っているようだが、青年にはまるで活力が感じられない。このまま放っておけば何もせずただ死ぬのを待つだけのように見えるのだ。

 ――それが理由だろう、男が彼の風呂を手助けしているのは。


 痛みに呻く暗闇の中、不意に顔面に熱を感じた青年は反射的に肩を震わせる。そして、それが目を洗う為のシャワーなのだと理解すると、痛む片目を小さく擦って洗髪剤を取り除く。

 「……無事か」そう小さくも低い威圧的な声がやはり降り注ぐのだ。彼は数回瞬きしたと思えば、頭から流れ来る泡とお湯を感じて、咄嗟に目を閉じる。「ああ、すまない。言えば良かった」と男はまるで謝罪の意を込めずに呟いた。


 ――彼にとって着目すべき点はそこではない。水が滴る音、蒸気が目の前を曇らせていく事実。背後には人一人使うには少し大きい黒い浴槽がお湯を溜めて入浴者の存在を今か今かと待っている。

 青年は突然連れてこられた挙げ句、手を引かれて問答無用で「脱げ」と半ば無理矢理脱がされたのだ。最早気力も湧かない彼にとってそれはまだ辛うじて許せる範囲だっただろうか――それとも、抵抗する意志すら持つことを諦めたのだろうか――多少驚きもしたが、「風呂を沸かす」と言われたのだ。連れられた場所が風呂場だということは確かに理解していた。

 理解していたのだが、まさか男の手で身の回りの世話をされるなど、誰が思うだろうか――。

 雑と見せ掛けてまるで慣れているかのような丁寧な洗髪、髪だけではなく頭皮のマッサージさえも行き届くような完璧なそれは、茫然としていれば不思議と眠りを誘われてしまうほどだ。

 ――しかし、青年は困惑している。眠りよりも遥かに強く、波が押し寄せるように戸惑いが胸に募り、状況を整理するために頭を働かせてしまう。

 何故自分はこんな目にあっている、この男の目的は何だ、と小さな疑念が意識を叩いて眠気を掻き消してしまう。

 それに反して男は頭の泡が全て流し終えたと確認すると、蛇口を捻り、湯を止め、「次……」と小さく口を開いた。

 次――それは、風呂に入るには到底似合わない首輪が付けられたままの体を洗うこと。本人の自尊心を叩き壊さないよう、腰に巻かれたタオルが水を含んで肌に密着しているのがよく分かる。

 体付きは悪くはない――けれど、はっきりと良いとは言えない。それをまじまじと見つめていた所為だろう。青年が微かに身構えるように体を丸めて、「……何が目的だ」と呟きを洩らす。


「……こんなこと、他の奴はやんなかった……」

「そうか、そうだな。他と同じにしては困る。私には私なりの理由があるのだ。……私の目的は追々話すとして、次の――」


 酷く澄ました顔だった。何を言っても動じない、何をしようとも最早興味の範疇にない、そう言いたげに意を決したようにボディタオルを手に取っていて、流石に残された青年の意志が語り掛ける。

 今まで酷い目に遭わされていたが、気力が湧かないとしても自分が成人している人間である自覚はあるのだ。一般的に言える「いい歳した大人」が見ず知らずの他人に介護されるように体を洗われるなど、それこそ小さな自尊心が傷付いてしまう。

 不意に彼は咄嗟に体を引いて、男に向かって手を突き出した。

 触るなと言いたげな様子に男が動きを止めると、青年は漸く困ったような、焦るような表情を微かに浮かべて首を横に振る。男としての何かが完璧に崩れる前に阻止せねば、と無意識に動いた結果だった。


「……だ……大丈夫、なんで……その……それくらいはできると……思うんで」


 完璧な自信があるとは言い切れない口振りに、こんな簡単なことすらもやれる気がしないのかと雑念が混じる。無気力だった筈なのに、拘束が緩くなって以来微かな気力が蘇った気がするのだ。

 湯気が立ち上る視界で向かい側の男は数回瞬きをすると「……そうか?」と首を傾げている。恐らく彼の気力の無さに気が付いていたのだろう。そして、それが自分に対する嘘なのではないかと微かに疑っているようだった。

 野生の獣のようにどこか鋭い眼光は青年の体を射抜くほどに冷たく、妙な緊張が場を凍らせてくる。彼はそれを無言のままじっと受け止めるだけだった。

 ――やがて男は嘘ではないと思ったようで、「それなら良かった」と、何も思っていなさそうな無表情のままタオルを彼に押し付ける。

「では私は夕食の準備をしよう。――いいか、絶対に死ぬような行動は取るなよ」

 男は浴室から出る直前、青年に振り返り釘を刺すように強い言葉で言い放つ。威圧的な血のように赤い瞳が微かに細められた気がした。男がそう念を押し付けてきたのは彼の様子を見て――暗い瞳を見て、僅かながらも確信を得てしまっていたからだろう。

 動物の息の根を止めるような鋭い眼光に身震いして、青年は思わず腕を擦る。その間にも男は湯気の立つ浴室から出て不透明な扉を静かに閉めた。


 途端に広がる静寂。湯気の立つ浴槽、シャワーから滴り落ちる水滴。たとえ自傷行為に陥ったとしても、誰にも気付かれず、血行が良くなっている体からは絶えず血が流れ続けるだろう。

 全てに希望を見出だせないかのような暗い瞳を持った青年は落ち着いた様子で浴室を眺め、ほう、と息を吐く。ふと、剃刀が視界に飛び込んできた。

 死ぬ為の条件は揃っていた。


 ――では、自殺するための勇気は一体どこにあるのだろうか。


 力の抜けきった左手首に刃を押し当て、それを引くだけで良い。剃刀の刃は思っている以上に鋭く、軽く指でなぞるだけでも指の腹には小さな傷が付いてしまうほどだ。

 その鋭い刃を、力を込めて引けば手首の切り傷は指の比にならないだろう。それを温まった湯に入れて血の流れを止めないでいればいつかは死ぬ。湯船は赤く染まり家主と思われる男には迷惑が掛かるだろうが、確かに死ねるだろう。

 男が念を押した通り、彼はやはり今にも死にたげな顔をしていた。瞳に映るのは剃刀の刃の部分――。

 青年は茫然とした瞳で徐に手を伸ばす。曇る視界は手を伸ばす先を見るのに支障はない。

 「……死ねば楽になるんだろうな……」――そう言って彼は、ボディーソープのボトルを手に取った。小さくあしらわれた桃の絵が家主と見合わぬほどの愛らしさを放ってくる。

 ――思えば湯船もそうだった。透明ではなく真っ白に彩られたそこからは仄かに甘い香りが漂ってくる。見た目に合わないが、男は甘いものや愛らしいものが好きなのだろうか――「意外」そう言って彼は覚束ない手付きでゆっくりと体にタオルを押し当てた。


 浴室からほんの少し歩いた先、キッチンへと向かう足が少しずつ頼りないものに変わっていく夜も更けた午後十一時半。

 独りで住むにはあまりにも広すぎる二階建ての屋敷に身を寄せる男――〝終焉の者〟が壁に身を委ね、徐に膝を曲げてしまう。まるで吐き気がしていると言いたげに口許に手を当てて、はあ、と大きな溜め息を吐く。

「……人間臭い……」

 悔しげな声が洩れていた。月明かりの灯る廊下で窓から見えるのは逆光を浴びる黒い木々。時折梟が目を輝かせてこちらを見ているように思えるが、男は意に介すこともなくゆっくりと立ち上がる。

 力強く口許を手で拭った。同時に「まさかこの私が……」と独り言を呟く。


 まさかこの私が白昼堂々喧嘩を売るなんて――。


 その言葉は男しか居ない暗い廊下に響き渡って、静かに虚空へと消えていった。

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