秋の夜は、はるかの彼方に

深上鴻一:DISCORD文芸部

秋の夜は、はるかの彼方に

01

 あーあー、あー、あー。

 まったく、めんどくせえなあ。

 ズボンのポケットに左手を突っ込んだまま、俺は空いてる右手でドアを開けた。ずんずんと、部屋の中に入って行く。

 うげえ。

 すぐに立ち止まった。

 本棚、本棚、また本棚。

 その奥にも、本棚、本棚、飽きずにまた本棚。

 この吐きそうなくらいたくさんある本の中から、ナカハラチューヤとかいう奴のを探さなきゃいけないのかよ?

 あー、もー、めんどくせーな。

 俺のすぐ右側には、カウンターがあった。その後ろには、小さな引き出しが幾つもついた木製の棚がある。なんだ、これ? もう高校二年の秋になるけど、図書室なんて入ったのは初めてだ。こんなものが何のためにあるのか、ぜんぜんわかんねえ。

 白い長テーブルと、それにきれいに収まった椅子の間を抜けて、俺は正面の本棚に向かって行った。その本棚には、文庫本が並んでいる。

 こういうのって、あいうえお順に並んでるもんだよな?

「ナ、ナ、ナ」

 右から左へと探す。上の段にはなかったから、しゃがんで今度は下を探す。

 ねえぞ。

 ナカハラチューヤの本、見つからねえ。

 じゃあ教室に戻るか?

 いや、だめだ。

 俺をバカにした目で見下す、現国教師のニヤニヤした顔がすぐに浮かんだ。

「なんだ? お前は図書室から、たった一冊の本も持って来れないのか?」

 そんなことを言いそうだ。

 絶対に、意地でも、探してやる。

 この図書室のどこかに、その本はあるはずなんだ。

「何を探してるの?」

「うあ!」

 思わず声が出た。

 振り返ると、俺の右肩すぐ近くに女生徒の顔があった。

「びっくりするだろ!」

「あら。意外とビビリなのね。そんな派手な金髪なのに」

「……髪の色は関係ねえ」

 俺は立ちあがった。

「授業中なのに、こんなとこで何してるんだよ?」

「あなたこそ何してるの? 授業中なのにね」

 挑発的な笑顔だった。

 ちぇっ。

 ムカつく女。

「教師に、本を取ってくるよう言われたんだよ」

「誰の本?」

「ナカハラチューヤ」

「ああ」

 その女は言った。

「文庫の棚にはないわね。日本文学だから、こっちよ」

 すたすたと迷いなく、本棚の隙間を歩き出す。俺はその後ろに続いた。

 その女の真っ黒なストレートの髪は背中の真ん中まであって、とってもツヤツヤしていた。

「この図書室は、日本十進分類法で並んでるの。日本文学だから9。詩歌だから11」

 何を言ってるんだか、さっぱりわからねえ。

「ほら、ここがそうよ」

 細くて白い指で、プレートを指さす。そこには確かに、日本文学と書かれていた。

「ツタヤみたいだな」

「え?」

 その女は、スッとした眉を寄せる。

「ビデオ屋だよ。並んでるだろ、アクションとかサスペンスとかに分かれて」

「ああ、そうよね」

 くすりと笑った。

 こいつ、俺をバカにしたな!

 女は、本の背を撫でた。

「それで、何を持って来いって? 『山羊の歌』? 『在りし日の歌』?」

「二冊あるのかよ」

「全集なら一冊でいいわね」

「じゃあ、それで」

「でも角川版の全集なら六冊あるの」

 なんだそりゃ?

「なんで同じ全集で増えたり減ったりするんだよ?」

「各巻に、本文の他に解説が付くからよ」

 なるほど。

 この女、ずいぶんと本に詳しいんだな。

「あ」

「なあに?」

「お前が、姫川真由か?」

 女は小さく笑った。ちょっと悲しそうな顔だ。

「わたしのこと知ってるの?」

「ああ。俺、お前と同じC組だぞ。二年のクラス替えで一緒になった」

 姫川は、うちの高校の有名人だ。

 転校して来たのは一年の夏。二年になる前には教室に来なくなり、保健室通い。でもそこがつまらなかったのか、今ではいつも図書室で本を読んでいる。

 だから、あだ名は図書室の姫。

 姫川は本を抜き出した。それを俺に差し出す。

 俺はそれを受け取った。

「助かった」

「いいの。わたし、この図書室には詳しいんだし」

「本、好きなのか?」

「好きよ、もちろん。特に詩が好き」

「へえ? 変わってんな」

「そうかしら? 詩はいいわよ。じつはあなたが探していた中原中也が、いちばん好きなの」

「いちばん好き? それって、どれくらいだ?」

「どれくらい? 変な聞き方ね」

「出身地を知ってるとか、誕生日を知ってるとか、サイン会に行ったことがあるとか」

「山口県出身ね。誕生日はさすがに知らない。サインも持ってないわ」

「なんだ、その程度なのかよ。俺の弟なんてアイドルオタクだから、そういうこと凄えぞ」

「そういうのと一緒にされてもなあ。でも、暗唱できるくらいには好きなのよ」

「アンショー?」

「暗記してて、唱えられるってこと」

「唱える? ドラクエの呪文かよ?」

 姫川は、やれやれといった風で首を振った。

 また俺をバカにしたな!

「見なくても朗読できるの。もちろん全部じゃないけど」

「マジ?」

 世の中には、そんなものを覚える奴もいるんだな。

「アンショーしてみせろよ」

「ええ?」

「いいだろ、減るもんじゃねえんだし」

 姫川は、ちょっと困ったようだった。

 それでも、うん、と頷く。

「じゃあ、『汚れっちまった悲しみに』を」

 両手をセーラー服の胸の前で、神様に祈るみたいにそっと組んだ。

 目を閉じる。

 姫川はゆっくりとアンショーを始めた。


「汚れっちまった悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れっちまった悲しみに

 今日も風さえ吹きすぎる


 汚れっちまった悲しみは

 たとえば狐のかわごろも

 汚れっちまった悲しみは

 小雪のかかってちぢこまる


 汚れっちまった悲しみは

 なにのぞむなくねがうなく

 汚れっちまった悲しみは

 倦怠けだいのうちに死をゆめ


 汚れっちまった悲しみに

 いたいたしくも怖気おじけづき

 汚れっちまった悲しみに

 なすところもなく日は暮れる……」


 図書室はそれで静かになった。

 ちょっとしてから、姫川は目を開ける。

 にっこり。

 恥ずかしそうな笑顔だった。

 耳まで赤かった。

「どう?」

 どうもこうもねえよ。

 なんでだろうな?

 俺はもう、こいつに惚れてたんだ。




02

「ちょっといいか」

 現国の授業が終わると、俺はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、席についていた女生徒の前で言った。

「え、え? なに? 私に用事?」

 眼鏡をかけたその女は、驚いた声で言う。

「ああ。来てくれ」

 俺は顎で廊下を示す。ガタッと椅子を鳴らして、そいつは立ち上がった。

 俺たち二人は二年C組の教室を出る。

 女は言った。

「話しかけられて、びっくりしちゃったよ。教室の誰とも話したりしないじゃない。いつもひとりで」

「そうか」

 しょうがねえだろ。俺はひとりの方が気が楽なんだよ。

 廊下を歩いて階段を上り、その踊り場で俺は壁に寄りかかった。

「高柳は一年の時、B組だったよな?」

「うん」

「それで、一年の時も委員長だった」

「うん」

「じゃあ知ってるんじゃねえのか?」

「何を?」

 ちょっと言いにくかったが、それじゃ話が進まねえ。

「どうして姫川は、教室に来ねえんだよ」

「ええっ?」

 高柳は驚いたようだ。

「どうして、そんなことを?」

「いいじゃねえか、別に」

 言えるわけねえだろ、姫川に惚れたから知りたいんだって。

「それがねえ」

 高柳は言った。

「わからないのよ」

「へえ?」

「一年B組に転校して来たのは夏だった。でも年末ちょっと前に、突然、教室に来なくなって。みんな本当にびっくりしたの」

「クラスにいじめがあったとか、そういうことじゃねえのか?」

「みんなみんな仲良くしてたよ。いじめなんてあったら、空気でわかると思う。私はうちのクラスにはそんなのなかったと信じてる」

「じゃあ他のクラスの奴らがいじめてたとか? 部活の奴らとか?」

「それも、私はなかったと思うの。もし、そんなことがあったら、姫ちゃんは、私たち友達にすぐ相談してた思う」

「姫川と仲良かったのか?」

「うん、良かったわよ。あのね、私、何度も何度も、保健室にも図書室にも通ったんだよ。でも理由は、まったく教えてくれなかったんだ」

 高柳は、ぽつりと付け加えた。

「それって、ちょっと寂しいよね」

「で、縁を切ったのか」

「そ、そんなことないけど……」

 最後が小さい声になる高柳。

「いいんじゃねーの」

 俺は言った。

「しょせん、それだけの仲だったってことだろ」




03

 次の授業をさぼった俺は、図書室にまた来ていた。ちなみに図書室は、校舎の一階の端にあって、窓からは運動場が見える。三日後には体育祭があるので、フェンスには飾り付けがもう始まっていた。

 姫川は隅のテーブルに座って本を読んでいる。

「あら、今度はなに? 萩原朔太郎?」

 それって誰だよ。

「さっきのお礼を、きちんとしとこうと思ってな。サンキュウだった」

「どういたしまして」

 俺は姫川の近くの、テーブルの上に尻を乗せた。

 姫川は本を閉じる。

「ねえ、教えてもらってもいい?」

「なんだよ」

「どうして金髪なの?」

「どうでもいいだろ、そんなこと」

「いいじゃない、教えてよ」

「じゃあ」

 俺は言う。

「なんで授業に出ねえのか教えろ」

 姫川は、それで黙った。

「言えねえのかよ」

 すると、俺の目を真っ直ぐに見つめて言う。

「脅されてるの」

「はあ? 誰に?」

 姫川は首を振った。

「で、金髪の理由は?」

「ちぇっ。憧れてる人が金髪だったんだよ」

「ふーん。それは誰?」

「俺も、そこまでしか教えてやらねえ」

 脅されてる、か。

 どうも話は大変なようだぞ。

 立ち上がって、俺は言う。

「それより、ちょっと来いよ」

「え?」

「ナカハラチューヤで、一番ちいせえのはどれだ?」

 そう言うと、姫川は変な顔をした。

「ちいせえ?」

「大きいのは邪魔なんだよ。その、俺のカバン、物入らねえし」

「借りるの!?」

 その大声はなんだ。

 まあ、そういう反応するとは思ってたけどな。

 俺は姫川を見ないで言う。

「授業はつまんなかった。でも、アンショーするほど面白いんだろ? きちんと読んでみたくなったんだよ」

「ま、待ってて!」

 姫川は慌てて立ち上がると、本棚の間に消えた。

 それから早足で戻って来て、文庫よりは一回り大きいけど薄めの本を俺に差し出す。

「これ、新書版の、詩の選集なの」

 センシューってなんだ。

「俺の借りてえのはナカハラ」

「あのね、あのね」

 落ち着け、姫川。

「これには中原中也の有名な詩がたくさんおさめられてるの。他にも素敵な詩がたくさん載ってるから、初めて詩を読むには最適だと思う」

 俺は片手でそれを受け取った。

「俺が詩を読むのが初めてだって、決めつけてんじゃねえぞ」

「え、そうなの? 誰? 誰?」

「……米津玄師」

「聞いたことないわね」

「歌手。詩もいいんだ。CDに付いてる歌詞カードを何度も何度も読んだぞ」

「暗唱してよ」

「そこまで覚えてねえよ」

「そうなの? 好きなんでしょ?」

「だから」

 俺は姫川に背を向けた。

「ナカハラチューヤがそこまで凄えのか興味があるんだよ。じゃあな」

「待って!」

 俺は立ち止まって、振り返らずに言う。

「ああ?」

「貸してよ、ヨネヅゲンシのCD」

「ダウンロードしろ」

「意地悪! 今日、助けてあげたじゃない!」

 ちぇっ。

 俺は背を向けたまま、頭の横で小さくひらひらと手を振った。

「明日だ。忘れなきゃな」

「待って!」

 さすがに俺は振り返る。

「今度はなんだよ! うるせえ女だな!」

「本を借りるなら、きちんと図書カードに記入して行ってね」




04

 しまった。

 詩のセンシューを頭から順番にめくってみたが、最初から何が何だか、さっぱりわかんねえ。

 いま教師がムニャムニャやってる化学の授業と同じくらい、ぜんぜん意味がわからねえんだ。

 俺はもう諦めて、本を適当にパラパラとめくった。

 あ。

 指が止まった。

 これなら、ちょっとわかるかもだな。

 宮沢賢治の『雨ニモマケズ』だ。


「雨ニモマケズ

 風ニモマケズ

 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ

 ヨクハナク

 決シテイカラズ

 イツモシヅカニワラッテヰル」


 サウイフモノニワタシハナリタイ、か。

 俺は本を閉じた。


「これが図書カードよ」

 姫川は、俺が借りることになった本の一番最後のページを開いた。そこには茶色い紙のポケットが貼り付けられていて、細長くて白いカードが入っている。それを引き抜いて、俺に渡す。

「ここに、あなたの学年、組、名前を書くの」

 たかが本一冊借りるのに、名前まで書かなきゃいけねえのかよ。

 俺は、姫川が渡してくれたシャープペンシルで、カードに名前を書いた。

 遠藤樹。

「えんどういつき? たつき?」

「いつき。読めるのか。さすがだな」

 姫川は俺の名前を、別なカードに書き写した。綺麗な字だった。それをまた俺に渡す。

「これが遠藤君の、個人貸し出しカード。これに今度は、借りる本の名前を書いて」

 ほんと、めんどくせえな。

「ほらよ」

 俺が書名を書き込んだカードに、姫川はスタンプを押した。一週間後の日付だった。

「これが返却日ね。そして、この図書カードと個人貸し出しカードをクリップで留めて、遠藤君のクラス、つまり二年C組の棚に入れる」

 俺はカウンターの後ろの、小さな引き出しが幾つもついた木製の棚を開けて、カードを入れた。この棚は、貸し出しするためのものだったのか。

「はい、これが返却日のカード」

 日付が書かれたカードを、俺は受け取る。

「本の後ろのポケットに入れておいてね。この日までに、必ず返却すること」

 にっこり。


 自分のお勧めの本を、人が借りてくれた。たったそれだけのことで、あんなに笑顔になるなんて変わった奴だよ。

 けっ。

 そんな姫川を脅して、授業に出られないようにしている奴が、この学校にはいるってわけだ。

 なんだか気分が悪くなってきた。

 男だか女だか、ひとりだか集団かはわからねえけど、そんな奴らはみんなぶん殴ってやりてえ。

 ああ、いらいらするぜ。

 俺はカバンを取り出して、本を突っ込んだ。

 立ち上がって言う。

「具合悪いんで帰ります」

 化学教師は俺には何も言わず、黒板に向かってブツブツと授業を続けていた。




05

 次の日。

 午前中の授業が終わると、俺は購買部に向かった。

 パンを幾つかと紙パックのコーヒーを買ってから、それをぶら下げて図書室に行く。

「おす」

 姫川は昨日と同じく、図書室の隅に座っていた。

「あら。今日はなに? 谷川俊太郎?」

 そいつ、センシューに載ってたな。

「ほらよ」

 俺は米津玄師のCDをテーブルの上に置いた。

「ありがとう!」

「ちゃんと返せよ。じゃあな」

「え? もう行っちゃうの?」

「めし食いに行くんだよ」

 俺は片手に持っていたパンをブラブラさせる。

「どこで食べるの?」

「どこか空いてるところだ。決まってねえ」

「じゃあ、図書準備室で一緒に食べない?」

「はあ?」

 何言ってんだ、こいつ。

 つーか、トショジュンビシツってどこだ。

「いいじゃない。ああ、良かった。今日はおにぎり弁当なの。一個あげるね」

「バカじゃねえの。行くぞ」

「へーえ? 照れくさい? 女子と食事はできない?」

 ムカつく女だな!

「そんなんじゃねえよ」

「じゃあ、行こう」

 姫川はカバンを持って立ち上がり、俺の前をすたすた歩いた。鍵をポケットから取り出して、カウンターの後ろにあるドアを開ける。

「なんだ、この部屋?」

 そこは雑多に本が積まれた部屋だった。隅には長テーブルがひとつと、椅子が四つだけある。

「本当は司書室だったんだけど、今はただの書庫ね。図書委員会がたまに利用するだけ」

「いつも、こんなとこでめし食ってんのかよ」

「そんなことないわよ。保健室とか食堂、中庭や屋上でも食べるわ」

 俺は乱暴に椅子を引くと、そこにドカッと横座りした。

「はい、どうぞ」

 同じく椅子に座った姫川が、ラップで包まれたおにぎりを俺に差し出す。

「いいよ、お前が食え」

「わたしが握ったおにぎりは嫌?」

「そうじゃねえよ。お前が食うのがなくなるだろうが」

「じゃあ、パンと交換しようよ」

 めんどくせえ女だな。

「焼きそばパンとサンドイッチのどっちだ」

「じゃあ、焼きそばパン!」

「ほらよ」

 姫川は、可愛らしい弁当箱を真ん中に置いた。

 自分では先が丸っこいフォークを握って、俺には箸を差し出す。

「ちゃんと、おかずも食べなきゃだめなんだからね?」


 それから食事の間、姫川の詩とか小説とかのお勧めを、俺は適当に聞き流し続けた。

 ようやくそんな退屈な話も終わり、姫川は弁当箱を閉じる。

「お弁当箱、洗って来るね。飲み物は何がいい?」

「缶コーヒー。苦えやつ」

「はーい」

 姫川は立ち上がり、ドアを開けた。

「あ、あ、あ」

 ドアのすぐ向こうには高柳が立っていた。

「ひ、姫ちゃん、久しぶり」

「う、うん」

「図書室にいなかったら、ひょっとしたらここかなって思って」

「うん」

「元気にしてた?」

「う、うん」

「わ、私、姫ちゃんのこと、さ」

「うん」

「ずっと、考えないようにしてたんだよね。それって、ひどいよね。友達なのに。最低だよねっ」

「そ、そんなことないよ……」

 高柳は突然、姫川に抱きついた。

「私、姫ちゃんと、前みたいに仲良くしたいよお! お願い、教室に戻ってきて! 一緒に授業を受けようよお!」

 それから大声で、わんわんと泣き出した。

 姫川も泣き出した。

 二人は長い間、抱き合って泣いていた。


 俺たちはまた、図書準備室の椅子に座っていた。

 ようやく泣き止んだ高柳が言う。

「昨日、遠藤君にね、姫ちゃんと縁を切ったのか、って言われたの。そんなことないって言ったけど、やっぱりそうだったんだよなあって」

 テーブルの上の姫川の手を、高柳は強く握り直す。

「お願い、話して。どうして教室に来ないの?」

 姫川は、冷静な声で言った。

「いいのよ。これは、わたしの問題なんだから」

「だめ。お願い。そんな問題があるなら、もう終わらせようよ。そして一緒に授業を受けよう。一緒に、体育祭に出よう」

 体育祭。

 うちの高校の体育祭は、盛り上がることで有名だ。

 もちろん俺はサボり決定だけど。

「体育祭、楽しいよ。一緒に楽しもう。高校生活の思い出、作らなきゃだめだよ」

 姫川はうつむいたまま、首を振る。

「だめ。無理。怖い」

「怖い?」

 無言でうなずく姫川。

 俺は言った。言っていいのか、かなり悩んだけど。

「姫川は、脅されてるんだってさ」

「お、脅されてる!?」

 姫川の目から、ぽとりと涙が落ちた。

 それで、ついに告白を始めた。

「ある日、帰ろうとしたら靴箱に手紙が入ってたの。授業に出たらレイプしてやる。帰り道にはせいぜい気をつけろ、って」

 なんだよ、それ!

「先生にも、友達にも絶対言うなって。それがわかってもレイプしてやるって」

「それで私たちにも秘密にしてたの?」

 うなずく姫川。

「次の日から早く帰ることにしたんだけど、誰かがついてきてる気がするの。たんなる気のせいかも知れない。でも、怖くて怖くて仕方がないの。もうわたし、それで授業に出られなくなっちゃった」

「それ、もう犯罪なんだよ。警察に行こうよ。そんなひどいことしてるのは誰?」

 姫川は、ゆっくりと首を振った。

「わからないの」

 え?

「ええっ?」

「それが、わからないの。手紙はプリントアウトされたもので、誰が書いたのかぜんぜんわからない」

「姫ちゃん」

 高柳もぽろりと泣きながら言う。

「今日から毎日、一緒に帰ろう。だからそんな脅しに負けちゃだめだよ。授業を受けよう? 体育祭にも出よう?」

 首を振る姫川。

「だめ。気持ちは嬉しいけど、怖くて無理なの」

「姫ちゃんを守るから。絶対に守るから。私も、遠藤君も」

 高柳は俺を見る。姫川も顔を上げて俺を見る。二人とも真剣な表情で。

 俺は一度だけ、大きくうなずいた。

 それで姫川の表情が変わった。

「怖い……怖いよ……けど……でも……うん……ずっと脅迫文も届いてないし……」

「うん」

「何かあったら……すぐに止めてもいい?」

「うん!」

 それで決まりだった。

 脅迫文のことは、三人だけの秘密にした。




06

 俺が教室に戻り机に座った後、高柳と姫川が教室の前のドアから入って来た。

 あちこちに小さなグループを作って話していた奴らが、黒板の前に並ぶ二人を見る。ちょっとざわついた。

 高柳は言う。

「みんな聞いて」

 静かになる教室。

「姫川さんが体育祭に出ます」

 ぺこり、と姫川は頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 それで、わあっ、と声があがった。

 女たちが姫川の周りに集まる。

「良かった!」

「心配してたんだよ」

「こちらこそ、よろしくね」

「一緒に頑張ろう?」

「戻ってきてくれて嬉しいな!」

 そんなにはしゃぐなら、もっと前に図書室に迎えに行けよとも思うが、まあ姫川は頑固にいままで図書室にこもってたわけだし、仕方がねえのかな。

 姫川を中心とした輪の中で、高柳が言った。

「それから、遠藤君も出ます」

 みんなが俺を見た。

 俺は大げさに、肩をすくめて見せる。

 しょうがねえよな、姫川にお願いされたんだから。

「で、二人に出て欲しい競技の話なんだけど。うちのクラスは真剣に優勝を狙ってるから、運の要素が強い競技をひとつ棄権してました。それは借り物競走。遠藤君には、まずこれに出て貰います」

 借り物競走だってえ?

 俺があ?

「そしてもうひとつ。男女一名ずつ欠場するなら、これが最適だと思って棄権してた競技があります。余興的な競技だし、これも足の速さだけでは勝てると限らなかったからです。それは、男女ペアの二人三脚」

「はあーっ? ちょ、ちょっと待て!」

 姫川は言った。

「頑張ります。よろしくお願いします」

 みんなが拍手した。

 俺の意思は関係なしかよ!

 さすがに文句を言おうと、立ち上がる俺。

 そこへ昼休み終了のチャイムが鳴った。

「じゃあ、また放課後に来ます」

 驚く女たち。

「だめだよ」

「一緒に授業出ようよ」

「姫川さん、お願い!」

「姫ちゃん!」

「で、でも、私……」

 本当に困ったように見える姫川。

「ほら、わたし、教科書もないし」

「私が見せてあげる」

 そう言ったのは高柳だ。

「今から一緒に頑張ろうよ。ね?」

 う、うん、と頷く姫川。

「じゃあ、姫川さんは、ここに座って」

 高柳の隣に席がある男子生徒が、さっと立ち上がった。

「俺、後ろの席を使うからさ」

 みんなに囲まれた姫川は、その席にゆっくりと座った。どんな表情をしてるのかは、後ろに座っている俺からは見えない。

 そこへ現国教師が入って来た。

「ひ、姫川?」

 姫川は、小さく頭を下げた。




07

「速いわよ!」

「お前が遅いんだよ!」

 放課後。

 俺と姫川は、ペア二人三脚の練習をしている。

 真剣に優勝を狙っているC組は、二日後の体育祭に向けて練習なんかしてやがるのだ。

 周りではバトンの受け渡しの練習をしたり、なぜかチアの振り付けを確認したりしている。

 俺とリボンで足を繋がれた姫川は怒って言う。

「わたしに合わせようという気はないの?」

 こいつ、俺にだけ態度が違わねーか?

「お前が俺に合わせればいいだろが!」

「速い人が遅い人に合わせる! 基本中の基本! ほんと協調性がないわね!」

「ああっ? てめえ、ざけんじゃねえぞ?」

「そもそも、もっときちんと肩を組む! 恥ずかしがらない!」

「うるせえな!」

 お前、小さいんだよ。壊れそうなんだよ。

「ほら! かけ声! いち、にい、さん、しい!」

 もうヤケだ。

「いち、にい、さん、しい!」

「いち、にい、さん、しい!」

 ムカつくぜ。

 姫川もだけど、周りの奴らが俺たちを見て、笑ってやがる。


 練習が終わり、みんなで集まって運動場の隅に座っていた。

 その中心にいるのは高柳と姫川だ。姫川は笑ってみんなと話していた。

 その集団から少し離れたところに、俺も座っている。

 俺が見てることに気がついたのか、姫川も俺を見た。

 周りの女たちも、俺を見る。

「……なんだよ?」

「なんでもなーい」

「なんでもなーい、じゃあねえだろ。ムカつくな」

 高柳が言う。

「今ね、遠藤君ってじつは優かったんだねー、って話をしてたの」

「はあ? 俺があ? バカにしてんじゃねえぞ?」

「二人三脚の時、転ばないように支えてあげてたよねー」

「そうそう。転んだ時も、立ち上がるのに手を貸してあげてー」

「やっさしー」

「そんなの……当然だろうがよ」

 きゃーっ、という声。

 姫川が言う。

「遠藤君は本当に優しいのよ。わたしに、米津玄師のCDを貸してくれたの」

「へーえ」

 そういうこと、ペラペラ喋るんじゃねえよ。

「図書室で、わたしの話を興味なくても、ずっと聞いてくれたし」

「へーえ」

 やめろっつーの。学校での俺のポジション、変わっちまうだろーが。

 姫川は俺を見て言った。

 真剣な顔で。

「ありがとう」

 周りを見て言う。

「みんなも、ありがとう」

 しばらく誰も何も言わず、優しい顔。

 最初に立ち上がったのは、高柳だった。

「よし、解散! あさっての体育祭は優勝しよう!」

「おう!」

 みんなも立ち上がり、輪になって肩を組んだ。円陣と言うやつだ。

「遠藤君も早く!」

「ほら、入って!」

 なんだよ、これ。

 仕方なく加わる俺。

 高柳が叫んだ。

「にねんしーくみーっ!」

 全員が叫ぶ。

「ゆーしょーするぞーっ!」

「おおーっ!」

 なんなんだよ、このクラスは。




08

 校庭から戻り生徒玄関で靴を履き替えてると、騒ぎ声がした。

 行ってみると、靴箱の前にひとりの女が床にべたりと座りこんで、両手で顔を覆って泣いていた。その周りを囲んでいるのは、うちのクラスの女たち。

 泣いているのは姫川だった。大声で泣いていた。

 その手には、白い紙が握り締められている。

「もういやだよお!」

 姫川は叫ぶ。

「どうしてわたしが? どうしてわたしが、こんな目に遭わなきゃいけないのよお! ひどいよお! わたしだって思い出を作りたいのにっ! 楽しい高校生活を送りたいのにっ! もういやあ! やめてよお! お願い、やめてよお!」

 みんな、何も言えなかった。




09

 次の日になった。明日は体育祭だ。

 俺は授業など出ずに、靴箱からそう遠くない文芸部の部室にいる。

 目の前のスタンドには、携帯が立っている。そこに映っているのは、姫川の靴箱。

 監視カメラという奴だ。


「今朝、私は姫川さんと一緒に登校しました。その時、約束したんです。姫川さんは、明日の体育祭には必ず出ます」

 授業が始まる前、クラス全員の前で高柳は言った。

「心配しないで、って言ってました。先生にも、出場という形でもう名簿を出しました」

 その話が終わるとすぐ、高柳は俺を廊下に呼び出した。

「じつは嘘なの。姫ちゃんは体育祭に出るなんて、一言も言ってない」

「はあ?」

「この情報を聞いた犯人は、これでまた靴箱に手紙を入れてくる可能性が高いと思うんだ。そこを捕まえようよ」


 俺は缶コーヒーをすすりながら、携帯の画面を見つめている。

 やるしかねえ。

 もし現れたら、必ず捕まえてやる。

 捕まえて、ボコってやる。


「これ」

 昨日の練習の後、姫川はみんなと教室には行かず、俺と一緒に図書室に戻った。教室にいる高柳がこちらに寄って、それから姫川を家まで送ることになっている。

 俺は、姫川が出したくしゃくしゃになった紙を見た。

 それはパソコンでプリントされた脅迫文だった。

『言っただろう。授業には出るなって。体育祭も一緒だ。もし出たら、今度こそレイプされることになるからな』

 姫川は言う。

「前の学校でね、帰り道に襲われたの。偶然見てた人が助けてくれたから、未遂で終わったけど。わたしがこの脅しが特別に怖いのは、そういう理由」

 俺は何も言えない。

「田舎だから、すぐにその噂が広まっちゃってね。わたし、その学校にも町にもいられなくなった。それで両親と相談して、叔母さんの住んでるこの町に転校してきたの。それなのに、この脅迫文でしょ? 叔母さんをもう心配させられないから、頑張って毎日登校してるけどね」

 姫川はうんざりとした声で言った。

「あーあ。明日から、また図書室の姫かあ」

 もう真っ暗になった窓の外を見ながら呟いた。

「そんなあだ名、いらなかったな」


 俺は携帯電話の画面を見つめている。

 ガムを食っている。

 授業みてえに、居眠りは絶対にしねえ。

 あれ?

 現国教師が来た。

 どうして生徒玄関に用事なんてあるんだよ?

 そいつはポケットから、折りたたまれた白い紙を出した。それを姫川の靴箱に入れる。

 俺はもう、部室を飛び出していた。




10

 体育祭。

 運動場を取り囲む生徒たち。振られるカラフルな旗。踊り歌う女たち。鳴り物を叩き、叫ぶ男たち。歓声。悲鳴。

 しかし、うちのクラスはどんよりとしていた。それはもちろん、姫川がいねえからだ。

 一緒に住んでいるという叔母さんと登校したらしいけど、学校側からの事情説明というのが長引いているみてえだった。俺たちはまだ、朝から姫川の顔を見ていない。

 午前の部は、もうすぐ終わりだ。うちのクラスの順位は、優勝を狙っていたのに下から数えた方が早えくらい。気合いがまったく入っていねえ。

「姫川さん!」

「姫ちゃん!」

 その時、向こうから、姫川が制服姿でやって来た。やつれた顔だった。

「大丈夫?」

「大変だったね」

 姫川は言う。

「まったく、嫌になっちゃうよね」

 現国教師が、やはり犯人だった。

 そいつのパソコンから、保存された同じ文章が出て来ちまったら言い訳もできねえよな。

「脅されてた理由はなんだと思う? わたしが授業中、みんなの前で先生の間違いを指摘したからだって」

 そんな下らねえ理由なのかよ。姫川が前の学校でレイプされそうになったこと、どうしてそれを知っていたのかは知らねえけど。

「わたし、もう退学すると思う。もう、学校が嫌になっちゃったの。ごめんね」

 頭を下げて去って行った。


 そして午前中の最後の競技、借り物競走になった。

「俺も出ねえぞ」

「……うん」

 高柳は頷く。

「いいのか?」

「私も、なんか嫌になっちゃった。優勝はもう無理だし、好きにしていいよ」

「けっ」

 俺はスタートラインに並んだ。

 そういう中途半端なの、気持ち悪いんだよ。

 姫川が図書室の窓からこちらを見ていた。

 何のんびり見てやがるんだよ!

 ピストルが鳴った。

 俺は走る。

 走る。

 箱の中から、折り畳まれた紙を俺は取りだした。

 開くと、『眼鏡の男子生徒』という文字。

 物じゃなくて人じゃねえか!

 俺の頭に、そいつと仲良く手をつないでゴールしてる姿が浮かんだ。

 いいのか?

 それでいいのかよ、俺。

 いいわけねえだろ!

 俺は朝礼台に飛び乗ってマイクを握っていた。

 この借り物競走は、台の上にあるマイクを使ってもいいんだ。

 叫ぶ。

「ナカハラチューヤの詩をアンショーできる女!」

 ざわつく全校生徒。

 俺は図書室の窓を見る。

「姫川! お前のことだぞ!」

 俺は図書室の窓に向かって走り出した。

 クラスから声が上がる。

「姫川さん!」

「姫川さんっ!」

「はやく!」

「お願い、来て!」

 それはコールになった。

「ひっめかわっ! ひっめかわっ!」

 俺は走った。

 お前がいない体育祭なんて最悪なんだよ。

 お前がいない高校生活なんて、きっとつまんねえんだよ。

 走って走って、俺は図書室の窓の下に来た。

 手を伸ばす。

 首をゆっくりと振る姫川。

 なんだよ! 図書室の姫なんて呼ばれるの、嫌じゃなかったのかよ!

 そんなところから、俺はひきずり出してやるからな!

「はやく来い! 可哀想な女とか、自分に酔ってんじゃねえぞ!」

 俺の周りには、クラスの奴らも集まっていた。

「姫川さん!」

「来て!」

「もっと思い出、作らなきゃ!」

「一緒に卒業しようよ!」

 俺は怒鳴る。

「来いって言ってんだろうが! このバカ女!」

 姫川は窓から、そっと手を出した。

 俺はその手を握る。小せえ手を、強く握る。

 窓から飛び降りる姫川。

「走るぞ! 全力でな!」

「うん!」

 ゴールに向かって走り出す俺たち。

 クラスからまたコールが起きる。

「ひっめかわっ!」

「ひっめかわっ!」

 俺たちは走った。

「走れ! もっと走れ!」

「速すぎるってば!」

「本なんて、くだらねえものばっかり読んでるからだ! もっと運動しろ!」

「本はくだらなくない! それにわたし、前の学校ではテニス部!」

「はあ? 前の学校の話なんてどうでもいいんだよ! そんなの、もう忘れてしまえ!」

「うん!」

 俺たちはゴールした。

 最後の最後だったけれど。

「上がれ」

 姫川は、俺の手をゆっくりと離して朝礼台に上がった。

 すべての生徒が姫川を見ていた。

 姫川は深呼吸を何度かしてから、マイクを握った。

「では、聞いて下さい。中原中也の『一つのメルヘン』を暗唱します」

 両手をセーラー服の胸の前で、そっと組んだ。まるで神様に何かを祈るみてえに。

 目を閉じる。

 姫川はゆっくりとアンショーを始めた。


「秋のは、はるかの彼方かなたに、

 小石ばかりの、河原があって、

 それに陽は、さらさらと

 さらさらと射しているのでありました。


 陽といっても、まるで硅石けいせきか何かのようで、

 非常な個体の粉末のようで、

 さればこそ、さらさらと

 かすかな音を立ててもいるのでした。


 さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、

 淡い、それでいてくっきりとした

 影を落としているのでした。


 やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

 今迄いままで流れてもいなかった川床に、水は

 さらさらと、さらさらと流れているのでありました……」


 秋の運動場に、拍手が鳴り響いた。

 涙でぐしゃぐしゃな顔をした姫川は、俺を見てにっこりと笑って言った。

「どう?」

 どうもこうも、ねえんだよ。

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秋の夜は、はるかの彼方に 深上鴻一:DISCORD文芸部 @fukagami

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