1.前を行く人

 これは二つ上級の、ヴィリアーズから聴いた話。


 Aコレッジは全寮制なので、当然、ハウスがある。

 二十五のハウスに分かれていて、ハウス対抗でスポーツの試合をしたり、演劇会を開催したりもする。

 校舎や礼拝堂と違って、ハウスのほうは新たに建て直された棟が多い。そちらのほうが断然使い勝手がいいし、綺麗なので、生徒には評判がいい。

 

 ヴィリアーズのハウスも今は新しくなっているが、三年前は年代ものの建物を使っていた。床や階段がギシギシ鳴ったり、照明が暗過ぎる場所も多かったりで、夜になるとまるでホーンテッドマンションだと、仲間内で笑っていたらしい。


 ある夜。ヴィリアーズはどうしてもその日のうちに解決しておきたいレポートを抱えていた。就寝時間まであと三十分くらいという時刻だった。

 パブリックスクールでは、努力することが大前提だ。

 夕食のあとは自習時間と決まっているが、自分で足りていないと思えばその後の自由時間も勉強にあてる。

 学校側のサポートも万全なので、各ハウスに所属する先生マスターたちは敷地内に住居が用意され、生徒はそこへ質問や相談をしに行くこともできる。

 しかし敷地が広いので、自転車を借りてももうギリギリの時間だった。

 監督生プリフェクトをはじめとする指導役の上級生に頼む手もあったが、ヴィリアーズはやはりマスターの家まで行くことに決めた。


 上着を羽織って廊下に出ると、今日はみんな自室にこもっているのか、誰の姿もない。

 初秋の風がガタガタと廊下の窓を揺らしている。備え付けの古いランプの灯りは頼りなくて、寒々しい闇を強調する役目しか果たしていなかった。

 それでも彼は、そのぼんやりとした薄暗さには慣れていた。急いで階段をおり、一階の長い廊下に出た。


 廊下は玄関まで一直線だった。だが玄関の照明はすでに消されているらしく、向こう端は闇の中に溶け入って見えない。

 昼間が賑やかなだけに、静寂と闇の深さが異質な不気味さを生んでいた。

 ヴィリアーズは一瞬、その異質さに怯んだ。

 それでもレポートを仕上げたい気持ちが勝り、一歩踏み出したとき、前方に人がいることに気づいた。


 茶色い髪で、自分と同じくらいの背格好。丈の長い、灰色のフード付きコートを着ている。

 生徒だとは思ったが、うしろ姿に見おぼえがない。そのくせどこかで見た気もする。

 同じハウス内に同学年は十人しかいないし、それならば遠目であろうと印象で判別できそうなものだ。だが、わかりそうでわからない。

 コートを着ているということは、彼もこれから出かけるのかと思ったが。そのわりに、ゆっくり、ゆっくり、歩いている。


 一方、ヴィリアーズは急いでいた。ほかにも人がいることで気も強くなった。近くまで行けば誰かはわかるだろうと、いっそう足を速めた。

 しかしなぜか、向こうもいきなり早足になった。

 ヴィリアーズと同じ速度で進むので、一向に距離が縮まらない。そのくせ、ヴィリアーズが落としたキーホルダーを拾うため立ち止まると、向こうもピタリと止まる。

 こちらをまったく見ないのに、じっと観察しているように。


(なんだあいつ)


 気味の悪い奴、と。ひどく陰気なものを感じて、ヴィリアーズは正直、怖気立った。

 だが元来、強気な性格だ。からかわれているのだと思い直した。このハウスの者ならまだしも、別のハウスの奴がこんな時間に入り込んでふざけているなら、黙ってやり過ごすわけにはいかない。


 ヴィリアーズは、まずは追い抜いて顔を確かめてやることにした。得意の脚力で走り出すと、いよいよ茶色い髪が近づいてきた。

 が、あと一メートルほどまで迫ったとき、その生徒は振り返らぬまま声を発した。


「お先にどうぞ」


 ――楽しそうに。

 そのときようやく、ヴィリアーズは気がついた。

 あれだけ移動したのに、ちっとも玄関に近づいていない。ただ向こう端にこごっていた闇だけが、すぐそこまで迫っている。

 それに、今の声は。どこかで見た気もする、そのうしろ姿は。

 ヴィリアーズは思わず自分の茶色い髪に手をやり、そっときびすを返すと、一目散に自室へ駆け戻った。

  

「追い抜いていたら、終わりだったんじゃないかな」


 そう言っていた。

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