第2話 田辺の場合

数分前から迷子の子がいる。小学生だと思う。紺色の野球帽に、同じく紺色のハーフパンツに、赤いポロシャツで、少し擦れたスニーカーを履いている。右手にはえんぴつ、左手にノート。難しそうな顔をして、僕の会社の前の交差点に立っている。青になっても渡らないで、その場にとどまる。もう三回ぐらいの青を見送っているはずだ。一方僕は、二階の窓際に佇みながら、コーヒーを飲んでいる。迷子だよな、あの子。


日曜日なのに出勤してるのは、僕を合わせて数名。各ブースに一人か二人ずつ、といったところだ。僕がいる窓際のこの部署には僕以外にも一人、出勤している社員がいた。

「田辺さん、さっきから何観てるんですか?」

彼女もコーヒー休憩だろう、僕のそばまでやってきた。

「ほら、あの子。迷子なのかなあって。」

「うーん?」

彼女は身を乗り出して窓の外を見た。

「「あ。」」

「今のって、」

「ええ。完全私たちに向けてでしたね。」

少年は僕と佐々木さんに向かって手を振った。

「助けてって意味かな?」

「笑顔でしたけど。」

彼女は入れたばかりのコーヒーに息を吹きかける。猫舌の彼女のその仕草を、僕はもう何年も見てきた。


再び窓の外に目を向けると、少年はまだその場所にいた。ノートに何か書き込んでいる。

「そんなに気になるんだったら、」

彼女の言葉に振り向く。

「行ってみます?今日は部長もいないし、ちょっとぐらい平気でしょ。」

なんだか楽しそうに笑う彼女につられて、僕も頬を緩める。

「うん、行こう。」

僕らのオフィスは二階なので、エレベーターを使ってはならないルールだ。階段を下りながら、彼女はワクワクしてきたと言って笑った。

「田辺さんて、子供とかお年寄りに弱いですよね、この前だって…」

肩に触れるぐらいに伸びた栗色の髪が、階段を降りる動作に合わせて揺れる。暗い階段の中でも、その存在が光を放っているようだ。彼女のヒールの音が、一定のリズムを刻む。一方の僕は、お人好しと呼ばれる部類の人間で、そのことをあまり気に入っていなかった。僕には勇気がないだけなんだ。

「その話はもう良いって。何回いじるんだよ。」

彼女の笑い声は、耳に優しい。彼女が笑うたび、僕はなぜか下駄の奏でるカラコロという音を連想する。


おちゃらける彼女に構っている間に信号は青になり、少年がいる側へと渡った。

「あ、おにーさんとおねーさんだ。こんにちは。」

幼少期特有の高い声で少年は言う。背丈からして、小学校二、三年生と言ったところだろうか。

「こんにちは、少年。何してるの?」

「ふふ。田辺さん、少年だなんて。」

「あ、そうか。僕は田辺。彼女は佐々木。君は?」

「たくと。今実験中なの。」

「実験?」

少年はまた何かノートに記入した。よくみると、不恰好な漢字やひらがなで何か書き込まれているようだ。

「たくとくん、お姉さんも実験手伝いたい!」

「こら佐々木さん、そんないきなり。」

「いいよ。もうお姉さん達には協力してもらったけど。」

少年はニコッと笑う。僕は「迷子じゃなかったな」と思う。

「ぼくはね、大人の優しさ等式を作りたいんだ。」

佐々木さんと僕は目を合わせる。

「迷子のふりしたぼくを見つけてから声をかけるまでの時間とか、ぼくが泣いてから背中をさすってくれるまでの時間とか。それってさ、なにかの式にできないかなって。」

「面白いじゃん!」

佐々木さんは興味津々だ。僕は反応に困った。横断歩道を、急ぎ足で大人が渡って行く。こちらに気づいているのかいないのか、足を止める者はいない。側から見たら、スーツの大人二人に小学生一人が歩道の端で話し込んでいるなんて、絶対変だと思うんだけどな。

「そのってのは、なにに使うんだい?」

少年は待ってましたと言わんばかりの表情でこちらを見上げる。帽子のツバを掴み位置を調整し、深呼吸をした。


少年がもったいぶってる間に少し考えてみる。大人の優しさ?女性が席に着くとき椅子を引くとか、匿名で文房具を孤児院に届けるとか、そういったことを言っているのだろうか。


「あのね、おにーさんおねーさんも大人でしょ?大人の人たちってね、ぼくはね、優しいと思うんだよ。でもね、いつもね、ちょっと恥ずかしそうなの。」

少年は心からおかしい、と言うように笑った。

「だからね、この等式を発表することで、大人はみんな人に優しくするまでこれくらいかかるから、恥ずかしくても人に優しくして大丈夫ですよって教えてあげるんだ。」

「なんだかたくとくん、大人だね。」

佐々木さんはそういいつつも少年の頭を撫でた。


衝撃的だった。少年が話した内容もそうだが、それに動じない佐々木さんの冷静な態度や、いつもなら長く感じる信号がもう何度も色を変えていること、そして、感心している自分の心にさえも、驚かされた。


「私たちの実験結果はどうだったの?」

「えっとね、おにーさんがぼくを見つけるまでに十分、おねーさんがぼくを見つけるまでに十八分、二人が降りてくるまでに二十五分、、、これをどうにか式にできないかな…うーん。」

少年は抱えていたノートのページを忙しくめくり始めた。少年のノートは使い込んでいるようだが、大事にされているのだろう。


何やらノートに向かってブツブツ呟く少年を見て、佐々木さんは目を細めている。その少年の仕草はプレゼン前に資料を確認している僕の姿と変わりはしないが、全くもって別の熱量が込められていることがわかる。今までこんなに好奇心を持って何かに取り組んだりしただろうか。少年を羨ましく思う。


「たのしい?」

「楽しいよ!楽しくなきゃやらないよ!」

「将来は学者になるの?」

「学者って何?」

「えっとね…」

少年と佐々木さんの会話を聞きつつまだぼうっとしている頭で、コーヒー冷めちゃったな、というどうでもいいことを考えた。


おにいさんは優しいよ、と遠回しに少年が肯定してくれているような気がした。



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空き瓶の研究報告 柊花 @idoitknit

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