空き瓶の研究報告
柊花
第1話 ひめかの場合
「鵜島さんち、今日ご夫婦そろって出張なんだって。だからたっくん、今晩うちであずかるから。」
「おっけ。ごちそうさま。」
フォークを置いて、朝食を終える。我が家の食卓には高確率でスクランブルエッグがならぶ。スクランブルエッグは、箸で食べるよりフォークで食べるほうがいい。畳に置かれた丸い食卓にスクランブルエッグやサラダが並ぶ様は、少しばかり滑稽だ。
「今日も駅前のサルコーで遊んでくるから。帰り遅くなる。」
一通り身支度を終えたあと、ローファーを履きながら母に告げる。かかとを踏むと父親に怒られるけれど、くっきり跡がついてしまっている。母の困った表情に気づかないふりをして背を向ける。
「行ってきます。」
中学生になると、登校班というものはなくなって、好きなように、好きな友達と通えるようになった。家を出てから三つ先の信号を右に曲がったところで、クラスメイトと待ち合わせしている。
さあ、今日も。
「ひめちゃんは友達何人いるの?」
玄関ポーチを抜け歩き出そうとしたところで、よく聞き慣れた声がする。高くてまっすぐな声。
「たっくん。私急いでるの。夜会えるから、後にして?」
おはよう、とだけ挨拶を交わし歩き始める。
子供は無邪気でいいなぁ。友達って、数えられるものじゃないんだよ。そう、言うなれば不可算名詞みたいな。この間授業で習った言葉だ。
「ひめちゃんが気にしていることは僕も気になるし。とりあえず、数えてきて!」
そう叫ぶたっくんの声が背後から届く。確か彼はこの春小学三年生になった筈だ、私には関係ない話だけど。
「僕も気になる、ねぇ。」
道路に引かれた白い線の上を歩きながら考えてみる。「ひめちゃんが気にしていること」に関しては、なんとなく察しがつく。女の子でいることは大変だし、女の子の友達でいることはもっと大変だ。髪型、文房具、制服の着こなし。どれも同じでなければならないけれど、模倣してもならない。一見矛盾しているようで、理にかなった女の子のルール。みんなと同じことをして普通でいるべきだけど、かわいいあの子と同じ事をすると悪者になる。私が気にしていることなんて、これくらいで、これが全てだ。
「おはようひめ、考え事?」
この子は友達だ。はるか。まっすぐ切りそろえられた短い髪。小柄で柔らかい印象の彼女は、実はバレー部のエースだったりする。教室にたどり着くまでの道のりを、他愛もない話をしながら歩く。宿題や、親の話。私が話したことに笑ったり、「へえ。」と目を見開いたりする様子に、彼女の可愛らしさを感じる。
教室に着いてからが、1日の本番だ。
「ひめちゃんがオススメしてたリップ!私も買ってみた!」
1限、この子も友達のはず。
「ねえ聞いた?ゆりとしょう、付き合ってるらしいよ。」
2限、この子も。
「あの先生、ほんと性格悪いよね。授業ある日まじで鬱だわ。」
3限、きっとこの子も。
「ひめ、このお店今度行かない?」
「こないだオススメしてくれた本かえすね!ありがとう貸してくれて。」
「昨日のあの番組見た?」
「ねえひめか、わたしね、」
「バイバイ、また明日。」
みんな、みんな。
友達かどうかの境界線って、曖昧だ。
早く終われと願ううちに、あっという間に放課後になる。学校からの帰り道、ローファーがたてる乾いた音とすれ違う人々の雑音。その全てが大好きだ。息を深く吸うと肺の奥に入ってくる冷たい空気が、冬の始まりを匂わせていた。ここは教室と違って、偶数が存在しない。あるのは、私だけの為の数だ。近くの小学校の校庭からは、放課後を楽しむ声が聞こえて来る。傾いてきた日差しが、彼らの影を等身大より大きくして行く。落ち葉を踏むように歩きながら、ふとたっくんの話を思い出した。なんであんなこと聞いたのだろう。たっくんにも人間関係の悩みがあるのだろうか。私たちは、教室という小さな箱の中にいれば1人ではないはずなのに、いつも独りになるのが怖い。リバーシのようには白黒はっきりしていないものの、箱の中の雑多な数たちは、自分の陣地が大きな数になるほど安心する。
こうやって考え事をしたいから、帰り道は極力一人がいい。気分で角を曲がったり、知らない道に入ってみたり。そうしてたいてい迷子になって、帰り道を見つける為の冒険が始まる。箱の中から出たのにもかかわらず、先ほどまでの怖さはない。母親に適当な予定を伝え誤魔化してまで、私はこの一人の時間を大切にしている。自分の歩幅を、誰かと同じにする必要だってない。陽が落ちるまでの時間がが短いと少し残念な気分になるけれど、暗くなった世界で歩いているときだけは、自分が物語の主人公だ。
あっという間に時間は経って、何軒か先に我が家が見えて来る。よくある日本の家という感じで、お洒落とは言い難い。なるべく友達は連れてこないようにしている。
「ただいま。」
玄関の扉は、朝より少し重い。
「あ、ひめちゃんおかえり。ねえあのさ——」
「数えたけど、」
「ああ。うん。」
「数えられなかった。たっくんもそのうちわかるよ、この難しさ。」
不思議そうな顔をするたっくん。まだ子供の君にはわからないね、きっと。
洗面所に立って、自分の顔を見つめる。その表情が14年の月日を物語っている——と言うには全く貫禄がない。どこにでもいる普通の女学生が写っているだけだ。前髪を揃えて、食卓へ向かう。
今日の晩ご飯はカレー。たっくんが来るときは大体同じメニューだ。きっと、彼の好き嫌いを気にして毎回作るより、いつも好きなものを作る方が簡単だからだろうと思う。
「ひめちゃんの言う難しさはわからないけど。」
唐突にたっくんが口を開く。
「僕の研究結果から、簡単に数える方法はわかるよ。」
簡単?この感覚的問題が?わかってないな、たっくん。
「おはよう、ありがとう、ごめんね、またね。」
なんだそれ。
私は適当に「へー」と相槌を打ち、目の前の料理に手を合わせた。あぁ、思い出した。たっくんは突然変なことを言う子供だった。
「ひめちゃん、相手の目をよくみて数えてごらん。」
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