おかしな約束
「それじゃあ行きますよ……はい!」
トレーナーのかけ声と同時、大きな水飛沫が上がった。
勢いよく水面を突き破って現れたのは三匹のイルカ。彼らは空高く上がり、くるりと一回転、そして同じタイミングで再びプールへと戻った。
その躍動感あふれる演技に対し、上がる拍手はまばらだ。平日だから仕方のないことだが、そんな中でもめげずにパフォーマンスをしている彼らに僕は心なしか大きな拍手を送った。
一方で、隣からはそれに続く音が一向に聞こえてこない。
「……楽しくないか?」
「この状況でどうして楽しいと思えるでしょうか? お預けを食らっているこの状況で」
明らかに不満げな声。横を見ると、少女は自分の膝に頬杖を突いて憮然とした表情でショーを眺めていた。おまけに苛立たしげに自分の頬、ではなく自分の右目をとんとんと叩いている。気忙しないからやめてほしい。
「不満な感情は分かりやすいな、君は」
「もしかして感情がないとでも思ってました?」
「………いや」
誤魔化しようのない間が全てを晒してしまっていた。
結果、短くない間僕に刺すような視線を送った後、少女はくすんだ表情で愚痴をこぼした。
「……そういった感情は自然と出せるんです。なのに他の感情はいくつになっても上手く表現できない。だから周りにはいつも不機嫌な人間だと思われています」
彼女の思考が異質なのは恐らく生まれつきだろう。加えて、感情表現に難があるとなれば、周りとの溝はさらに深くなるのは容易に想像がついた。
「まあ、確かに今も不機嫌そうに見えるもんな……」
「今は実際に不機嫌です」
「ところでさ」
話を変えた方が良さそうだった。
「君はなんで僕に固執するんだ? 他の人間だったらもっとすんなり答えてくれるかもしれないのに」
「あなたがそれを言うんですか……」
少女は殊更大きなため息をついた後、続けた。
「逆です」
「逆?」
「可能性がありそうなのはむしろあなた。他の人は会話を始める前から逃げちゃいましたので」
それが正解だったのか。静観を選んだ過去の自分を少し後悔した。
「会話が成立したのは僕が初めてだったってことか」
「ああ、えっと、ごめんなさい。聞けた言葉はそれくらいでしたね」
どうせ今日と同じ入り方をしたのだろう。相手の動揺する顔がありありと目に浮かんだ。
「だからこのチャンスは絶対ものにしないといけないんです。きっと次はありませんから」
「……その執念深さはどこから来るんだ」
おかしな人間がおかしなことを言うのは普通のこと。今までそう考えていた。
けれど、彼女は今、張り詰めた表情を見せていた。異常なまでのこだわり。その裏に彼女の個人的な事情があるように思えてならなかった。
「自分が何者かをはっきりさせたい、それは聞いた。けれど、その先の理由は? 君の場合、それが明確になっている気がするんだ」
「………」
少女から言葉はない。彼女はそのまま正面に視線を移した。
――踏み込みすぎたか。
いくらアプローチをかけてきたのは向こうと言え、僕と彼女は赤の他人だ。口にするべきではない疑問だったかもしれない。
「悪い、立ち入ったことを訊いた。忘れて――」
「壊れたロボット」
唐突な言葉。思わず口を噤んだ僕をよそに少女は言葉を継いだ。
「それが長年私につきまとっていたあだ名です。その名で呼ばれる度、私は考えました。私はどこがポンコツなんだろうって」
少女は変わらず前を向いたまま、話を続けていた。独り言のように、淡々と。
「しかし、答えは一向に見つかりませんでした。会話がかみ合わない。趣味が食い違う。いつの間にか相手に恨まれる。そんなことを何度繰り返しても、私は変わらず私のままでした」
彼女は微かな笑みを口の端に浮かべていた。言葉から重さを取り去るためかもしれない。けれど、それが却って哀愁を誘っているように思えてならなかった。
「そんなある日、あの事件を境に私のあだ名が変わりました。アンドロイドという的確な名前に」
否定も頷きもせず、僕は黙って耳を傾けていた。
「それで思ったんです。全ては私がアンドロイドであることによるものじゃないか。私が元々人じゃなかったから、他の人とずれてしまっているんじゃないかと」
少女は僕を見た。逃がさない。明確な意志を帯びた視線が僕を縫い止めた。
「その推測を私は事実にしてしまいたいんです。無理矢理でも。だから、あなたを証人にして既成事実にしようと思ったんです」
こんなことまで話すつもりはなかったのに。少女の口から呟きが漏れる。
ああ、僕もここまで聞くつもりはなかった。けれど、聞いてしまったのだから仕方ない。
「だから早く答えをくれませんか。というより、もう答えなんて決まってるじゃないですか。それを口にしてくれたら私はすぐにあなたの前から消えます。約束しますから」
これ以上ないほどの真剣な眼。その眼差しを見て、僕は確信する。
――僕は目の前の少女を誤解していた。
だとすれば、彼女の言う通り、答えなんて考えるまでもなかった。
その前に一つだけ、訊いておくべきことがある。
「君の名前は?」
「………え?」
僕の質問に少女は目を見開いた。少し唐突すぎたかもしれない。
「いきなりなんですか?」
「だから名前。そういえば訊いてなかったなと思って」
「……篠原真結、ですけど」
「なるほど……」
よし、決まった。
「じゃあ、それで」
「……何がですか?」
「だから、例の答え。それが僕の回答だ」
「………」
少女、いや、篠原真結が驚きに固まっている。さっきまではずっとこっちが驚かされてばかりだったというのに。状況が完全に逆転していた。
「……とんちを聞きに来たつもりはないんですが」
「僕もそのつもりはない」
さすがに空気は読んでいる。僕は言葉を続けた。
「君が君自身であることに根拠はない。人間かアンドロイドか、その二択に答えはないよ」
「そんな説教を聞きたいわけじゃないんです。私はただ――」
「そこに答えを求めても君の寂しさは埋められない」
瞬間、篠原真結が固まった。彼女の目がわずかに逸れる。やがて、彼女の口からか細い呟きが漏れた。
「……私、寂しいなんて言ってません」
「人に受け入れられないことを君はずっと問題に思ってきた。それってつまり寂しいってことじゃないか?」
「違います。そんな上辺だけでまとめないでください。私は私が私である理由を知りたい。納得したいんです。それで私はきっと私自身を受け入れられるはずですから」
「やめたほうがいい」
はっきりと僕は言った。それだけは断言できる。自信を持って。
「それは受け入れるとは言わない。諦めるだけだ。人と上手く付き合えない現実に妥協して、孤独に足を止めようとしているにすぎないんだよ」
「……想像でだったら何とでも言えます」
彼女の声は明らかに苛立ちを孕んでいた。
「私は現実に生きているんです。苦しみ一つ味わったことのない人が無責任なことを言わないでください」
僕は何も言わずポケットに手を入れ、そこから携帯端末を取り出す。少しの操作を加えた後、その画面を彼女に突き出した。
「え」
画面を見た彼女は驚きの表情を見せた。そこに映っているのは僕のアドレス帳。そこには誰の名前も書かれていなかった。それが示す事実は至極単純だ。
「昔はずっとこれがコンプレックスだった。けれど、考え方を少し変えて以来、あまり苦にならなくなった」
「……それはどんな」
「君と似たような結論だよ。彼らと自分は別の世界に生きている。他人と距離を置くことにしたんだ」
外から水槽の魚を眺める感覚。思えばそれと少し似ているような気がした。
「自分とは関わりない存在。そう思うことで心は幾分軽くなった」
「なら」
「けれど」
僕が言いたいのはその先だ。
「それと同じくらい人に感じる重さもなくなった。友情、愛情、思い入れ、そういう一に対する熱が全て薄れていくんだ」
気づけば疲れた笑みが僕の顔に浮かんでいた。僕自身は平気だと思っていたけれど、それは薄皮一枚の問題だったらしい。
「自分と違う存在って認めるのはそういうこと。傷つかない。けれど先がない。恐らく、これは幸せとは呼べないと思う」
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
「あれが一番答えに近いんじゃないかな」
僕が指さしたのは目の前の光景。そこでは今もトレーナーとイルカのショーが繰り広げられている。僕の目には彼らが輝いているように見えた。
「あのトレーナーとイルカは全く別の生き物だ。なのに、ああやって息の合った演技ができている。自分とは違う存在と思っていたらできない芸当だ」
「なぜ彼らはあのようなことを息をするようにできるのでしょうか」
「分からない。ただ、それを知ることが問題解決の糸口になるんじゃないかと僕は思ってる」
それは偽らぬ本心だった。しかし、その心が相手に伝わるとは限らない。そのことを僕は嫌になるほど知っている。
「……信用できませんね」
予想通りの言葉が返ってきた。当然だ。僕らは出会って幾ばくもない。そんな人間の言葉を易々と信じられるわけがない。
これで話は終わり。僕はそう予想していた。
しかし、彼女の言葉には続きがあった。
「だから、信じさせてください」
まさかの返しに僕は驚いた。
「えっと……どうやって?」
すると、篠原真結は僕の手にある端末を指さした。
「まずはこのアドレス帳を埋めてください。少なくとも10件。それで少しはあなたを信じられると思いますので」
「いっ、いや、さっき言ったのはあくまで個人的な意見だ。僕らは赤の他人なんだ。そんな人間の言葉なんて気にする必要は――」
「あなたは答えると言ったのに答えなかった。約束を破ったんです」
ぴしゃりと言われた僕は母親にしかられた子供のように思わず口を閉じてしまう。
「なら代わりに別のことで補ってもらわないと困ります。それに」
直後、篠原真結が僕の手から端末を奪う。僕が止める間もなく素早い指捌きで何かを入力し終えると、すんなり端末を僕に返した。
僕は画面を確認する。するとそこには、
「これであと9件ですね」
彼女の名前が案の定表示されていた。
「あなたは私の名前を知っています。だからあなたはもう私の友人です」
……篠原真結の思考はやはり突飛だ。
「それでは、あなたの名前を聞かせてください。これで私とあなたは繋がりを主張できる関係となりますから。さあ名前を」
無茶苦茶だ。こんな人間の言うことを聞く必要はない。確かにそう思った。
そう思ったはずなのに。
「……後藤 望」
気づけば自分の名前を口にしていた。
アクアリウムの魚 @araki
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