第12話 指
杵治は妙な胸騒ぎを覚えて会社を早引けして家に戻った。いつもなら車の音で妻の茶葉子が玄関を開けて出迎えるのだが、今日は玄関が閉まったままだった。杵治はムッとして玄関のドアを蹴った。うんざりしながら中の反応を窺ったが、茶葉子が慌てて玄関に向かう気配はなかった。仕方なく杵治は自分で鍵を開けて入った。
「何やってんだ! 帰ったのが分からんのか!」
怒鳴った自分の声が、薄暗い室内に虚しく響いた。杵治は怒りに任せ、茶葉子が怠慢で眠りこけているであろう家中を乱暴に探し回った。しかし、茶葉子の姿は何処にもなかった。鬱憤の矛先でリビングの椅子に乱暴に腰を下ろした。
暫くすると、ゆっくりと階段を下りて来る足音がした。“ なんだ、2階に居たのか …そう言えば、物干しテラスは見なかったな ”と思いながら、玄関まで迎えに出ない妻をどうぶちのめしてやろうかと、妻を待った。
「おかえりなさい。早かったのね」
閉めた磨りガラス戸の向こうで陰鬱な妻の声がした。杵治は返事をしなかった。しかし、茶葉子はずーっと磨りガラス戸越しに立ったままだった。苛突いた杵治が怒鳴った。
「出迎えもしないで、何やってんだ!」
茶葉子の返事はなかった。
「いつまでそこに突っ立ってるんだ!」
それでも茶葉子は無反応だった。痺れを切らした杵治は立ち上がってツカツカとガラス戸に向かうと、急にガラス戸が開いた。そこに茶葉子ではない人間が立っていた。
「誰だ、あんた !?」
「自分が殺した相手の顔も覚えてないの?」
杵治は戦いた。転寝山で殺害した女が目の前に立っている。“ あーっ !! ”となってガラス戸を閉めた。
「は、畑中強志が罪を償ってるんだ! オ、オレはオレなりに責任を果たしてる! もう、許してくれ! 勘弁してくれ!」
そう言いながら杵治は後退って尻餅を付いた。ガラス戸がゆっくりと開くと、被害女性が滑るように近付いて杵治の真上にたった。
「関係ない人間に罪を償ってもらったところで無意味でしょ。私はあなたに犯されて殺されたのよ。あなたの気色悪いものが入って来た時、思わずゲロが出たわよ!」
女は杵治の真上に立って大笑いしたかと思うと大量のゲロを吐いた。
「刑務所に行くべきだったのは、だ~れだ?」
「・・・・・」
「このクズ野郎よね」
女が杵治を指差した。
「自主する! 許してくれ!」
「もう遅い…だって私、死んじゃったんだもの。あなたは今過ぎここで罪を償うのよ」
「ど、どうすれば…」
「ほら、この指の先っちょを見ててご覧」
女の指が杵治の顔に近付いて来た。どんどん近付いて、杵治の右目にズブズブと刺さって行った。人気のない家に長い悲鳴が響いた。
「もう逃げられないよ」
克好はそう言われたような気がして振り向くと、父親の杵治が立っていた。
「克好、家に戻れ!」
「嫌です!」
「おまえが嫌かどうかなんて関係ない。決めるのはオレだ。今すぐ家に戻れ!」
「あんたの言うことなんか聞かない! もう、放っといてくれ!」
父親は克好の腕を掴んだ。咄嗟に振り解き、克好は店を出て走った。走りながら後ろを見ると、父親の顔がすぐ後ろにあった。
「克好! 助けろ、オレを!」
克好は悲鳴を上げて全力疾走した。どれだけ走ったのだろう…山道に入っていた。もう一度後ろを見た。やっと父親を振り切った。咳き込んで激しい息を整えていると、また声がした。
「もう逃げられないよ」
背中にさっきと違う気配を感じて振り向いた。あの女の子が指差していた。克好は女の子の差した指に激しい嫌悪感を覚えた。女の子の尖った指がどんどん近付いて来る。ふーっと風のように近付いて眉間の前で止まった。
突然、女の子の首が血を噴き出して地面に落ちた。続いて、左腕から血が吹き出し、足首から、膝から、腿の付け根から次々と血を吹き出し、バラバラと地面に落ちた。しかし、右手の人差し指だけが克好の眉間を差して残った。
克好は跳ね起きた。じっとり掻いた汗が夜明け前の低温で深と冷えていた。嫌な夢を見たと気怠く立ち上がって、ふと違和感を覚えた。部屋中の尖っているものがやけに気になって仕方がない…机の角、ペン先、愛用の目薬の先、台所に目をやっただけで箸や包丁の先が迫ってくる感覚、やかんの注ぎ口、夕べ食べ残した焼き鳥の串、無造作に置かれた傘の先、それらが眉間を狙っている…どうしたことだろう…その眉間に鈍痛が走った。また声がする。
「もう逃げられないよ」
その声を聞いた途端に心拍が激しくなった。克好は自分がどうなったのかと思った。疲れているのだろうと思い、汗で冷え切った下着を着替えて、もう一度横になることにした。横になった…何か可笑しい。背中に違和感を覚える。敷布団の下から指を差されている感覚がする。そんな事があるはずがないと思いつつも、どうしてもその妄想が気になって消えない。
仕方なく体を起こした克好だったが、敷布団の底から差していた指がそのまま背中に付いて来たような感覚を覚えた。克好は洗面台の鏡に向かった。恐る恐る自分の背中を鏡に映し出した。何ともなっていなかった。自分はどうかしていると思いながら、冷え切った体に暖を取ろうと店に下り、石油ストーブに点火した。店先から夜が明け始める気配がしていた。店番用の肘掛椅子に座った。石油ストーブの暖かさでうとうととして来たが…まだ居る。肘掛椅子の後ろから、指を差されている。強引に立ち上がった克好は、肘掛椅子の後ろを睨み付けた…が、指があるわけもなかった。
克好はネットで心療内科を探した。全国的に見て秋田県は自殺率が最も高いせいか、小さな町でも1~2ヶ所は心療内科の医療機関を見付けることが出来る。秋田が自殺日本一といわれるが、正確には「人口10万人当たりの自殺者数」と定義した場合の「自殺死亡率」の数字で判断されている。秋田県は約4000人に一人の割合の自殺死亡率であるが、自殺者数では人口密度の高い都市部のほうが俄然多いことは言うまでもない。
克好は内陸線に乗っていた。終点にある心療内科を訪れるためだ。車両に心地好く揺られながらウトウトしていると、地元の乗客に話し掛けられた。
「娘さんだしか?」
克好は不本意に現実に戻された。
「え !?」
「随分元気だ娘さんだしな」
「娘 !?」
「ヨウ子ちゃんって言うんですってね。めんけ《かわいい》お子さんだしな」
“ 居るのか ” と克好は舌打ちした。
「お父さんをずっと指差して、寂しそうにしてたもんで声を掛けさしてもらいました」
「指差して !?」
克好は鳥肌が立って、眉間に鈍痛を覚え、息苦しくなった。終点の一駅手前でその乗客は降りて行った。車内は運転士と乗客の克好だけになった。疎らな民家の田園風景を走る長閑なはずの車内が重苦しい空気になった。克好は眉間に違和感を覚えながら女の子の姿を探した。居るわけもないかと息を吐いた途端、座って居る座席の窓の外から指を差されている感覚に襲われた。見ると、女の子が電車の窓の外から有り得ない状態で克好に指を差して微笑んでいた。
「もう逃げられないよ」
克好は思い切り窓を叩いたが、女の子は指を差し続けている。克好は敵意を露わに座席を変えた。しかし、女の子は執拗に指を差して迫った来る。距離が一向に縮まらない。
「もう逃げられないよ」
内陸線は終点鷹巣駅に到着した。運転士は克好を不審げに振り向いて見ていた。その目を避けるように改札に向かった。改札で駅員に切符を渡すと、声を掛けられた。
「ご一緒ですか?」
“ えっ !? ”と思った。駅員がまた聞いた。
「ご一緒ですか?」
「誰とですか?」
「娘さん…」
「私は一人ですが…」
「一人で乗って来たの?」
「はい」
「あなたじゃなく、この子に聞いてんですよ。あなたと一緒だと言ってますよ。ちゃんと料金を精算してくださいよ。お子さんは350円です」
克好は仕方なく精算して駅を出た。駅待ちタクシーに乗った。女の子を入れないために開閉のドア側に乗った。
「早く閉めてください!」
そう言われた運転手は笑った。
「お客さんは珍しい人だね」
「・・・ !?」
「早く出してってお客さんは居るけど、早く閉めてってお客さんは初めてだもんでね」
「いいから早く閉めて…出してください!」
タクシーは勢いよく走り出した。ホッとした克好はタクシーの後方を見た。居るわけがない。重い息を吐いた。
「娘さんだしか?」
運転手の口からまた聞きたくない言葉が出た…見ると、隣の席に女の子が座って居る。克好は運転手に不快な態で呟いた。
「私に付き纏っている幽霊です」
運転手はまた笑った。
「面白いお客さんですね!」
振り向いた運転手の顔が青褪めた。慌ててバックミラーに目を戻した運転手は更に冷静さを失った…バックミラーには映っているが…と、運転手は無言になった。
克好はは向精神薬を処方された。病院から出ようとすると、またあの激しい嫌悪感を覚えて体が固まった。そして背中からまたあの女の子の声がした。
「もう逃げられないよ」
うんざりして振り向くと女の子が指を差していた。克好は女の子に向かって歩いた。女の子は一定の距離を置いて後ろに下がった…滑るように。女の子の背中が病院の壁に突き当たった。克好は歪んだ微笑みを浮かべて女の子に近付いて行った。ところが女の子は壁の中に吸われるように消えてしまった。克好は壁を見て立ち尽くした。
「どうかしましたか?」
窓口から看護師に声を掛けられた。
「いえ、何でもありません」
克好は重い足取りで病院を出た。肌に冷たいものが当たった。雪だ。克好が秋田に来て初めて体験する初雪である。見る見る道路を薄雪が覆った。克好の後を、小さな足跡が付いて行った。
〈第13話「うたた寝」につづく〉
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