白い神父の訪れ

イヌヒコ

吹雪

今から百年以上の昔、北方のさる大国にある若い作曲家がいた。


彼は真っ黒い海から冷たい風が年がら年中吹き寄せる、実り薄い沿岸地方に、貧しい医者の子として生まれた。しかしそれが幸であったか不幸であったかは分からないが、とても豊かな芸術的天分に恵まれていた。


ここに述べたい悲劇が生まれた当時、彼は年若くしてすでに、その国のきらびやかに栄える首都において、音楽人としての揺るぎない地位を獲得しつつあった。すでに充分名声高かったわけだが、そのままゆけばいずれはきっと、その名が後世に伝わるほどの仕事を成し遂げるだろうと、多くの人々に信じられていた。


その頃、彼のそのとても長い腕を通じて、この世に次々と生み落とされるピアノ曲や協奏曲は、どれもいかにも若さのみなぎる、華やかで繊細で夢見がちなものばかりだった。しかし同時にどの曲にも、すっかり世慣れた人々をも驚かせて魅了する、不思議な生々しさと荒々しさとが息づいていた。


当時この国の貴族たち、ことに壮麗な宮殿を構えるその首都に集う貴族たちは、数百年来の恐るべき農奴制の支えによって磨き上げられた、優雅と繊細を極めた公けの生活にひたすらいそしんでいた。彼らのその狭い社会においては、地位を巡る争いや恋の駆け引きなどは勿論のこと、大小さまざまな悪徳の実行とそれらの隠ぺいに至るまで、ことごとく馬鹿げた優雅さの下で行われていたものだ。


しかし彼らはその忙しい、まるで油断ならぬ生活の一方で、ふと一人になる瞬間があれば、その無為と無目的の檻に閉じ込められたようなわが人生のために、ひそかに苦痛の声を漏らしていた。彼の音楽はそんな哀れな貴族連中の心に、ほんのいっときにせよ、思いがけない新鮮な強い風を送り込み、のびのびとした寛ぎを与える力を持っていたのである。そして街中にその旋律は絶えることがなかった。


そのような力を持つ作品を生む作曲家自身の人柄もまた、一見すれば軽やかで当たりがよく、いかにも善良だったが、実は、その根はかなり大胆不敵にできていた。ひそかに高慢でもあり、しかもその高慢さは、ありふれた貴族たちの神経過敏と小賢しさからくる高慢さとは、まったく種類を異にしていた。彼の本音の世界を覗いてみれば、他人のことなど人ともなんとも思っていないことがしばしばであり、社交における優雅で婉曲で欺瞞的な会話など、笑うべきでくの棒の茶番劇に過ぎなかったのである。


彼は、いつどこへその身を置こうとも、まったく怖いものを知らなかった。彼は故郷の沿岸地方を後にして、人工の刺激に満ちあふれた内陸部の都会で暮らしを営むようになってからも、精神だけはそこから注意深く切り離していて、いまだ海風寒い遥かな辺境に残したままにしていたのである。敢えてそのようなことをするのも、つまりは彼の芸術家の本能が、そこに己の作品に熱い生命を吹き込み続ける秘訣があるということを知っていたためだった。彼は音楽の世界に全身全霊をかけて挑みかかり、激しくのめり込むのあまり、常に迷わず作品の生命こそを、己の生活と生命よりも大事にするやり方を選んだのである。


作曲家たる彼は、爛熟した貴族の世界に拠って立つことを許され、その見返りとして貴族の世界に、彼らがまだ見ぬ新しい良いものを持ち帰るのだった。しかし彼は飽く迄も、貴族と同じ世界の人間ではなかった。大方の貴族は丁重かつ打ち解けた態度を見せながら、さながら大きなガラスの窓越しに彼と接していたし、誇り高く極めて清潔な環境を好む彼にしてみれば、その大半が上品かつ陰湿なばかりで中身がない人々の群に加わることなど、元より御免だった。果たして彼は孤独である。時に彼は、天にのぼることもできず、地になじむこともできず、天と地のあいだに、たった一人で取り残されているような気持になることもあった。


ともあれ、冷たく澄みきって底から強く輝く目を持つ、際立って美しくたくましい平民出の青年は、芸術の世界および社交の世界で、日の出のような快進撃を続けていった。都のあらゆる人間が――ことに貴婦人たちだが――彼について無関心ではいられなかった。そして人々はやがて、誰からともなく彼のことを、『吹雪』という異名で呼ぶようになっていた。



満を持して彼のもとには、その巨大な都で最も長い伝統を有して誇る劇場からも、即ち皇帝陛下のご所有となる劇場からも、大作の依頼が持ち込まれた。それはもはや帝国中の注目の下での仕事と言っても過言ではなかった。

例によっての夜も昼も忘れた、連日の無我夢中の格闘の果てに、どうにかその大仕事を満足のいく形にまで仕上げることができた時、そしてそれが巷で相変わらずの好評を博した時、ふと彼は自分がいつにない、疲れというものに取りつかれていることに気が付いた……。


それは肉体よりも精神にのしかかるしつこい疲れで、実際毎日、目に見えない何物かが、ゆっくりと頭の上を圧さえ付けてくるようだった。そのためどうにも意気が上がらず、少し前には時間を忘れて没頭していた、知力のすべてを五線紙上の一点に結んでゆく作業も、今では随分手強い、苦しいものになってしまった。


これまでずっと音楽一つに生きてきた男は、苛立ってごしごしと乱暴に血走った目をこすり、遂には立ち上がって拳でピアノの鍵盤を叩きながら呻いた。


「一体なぜだ。今やこぞって天下も認めるこのおれが、まるで腑抜けだ。えい、なぜだ。こんなところで、立ち止まってなんていられるか! おれにはまだまだもっと高みにのぼる力があるのだ。翼がある! そのことは誰よりもおれ自身が、いちばんよく知っている……」



彼には結婚してまだ半年も経たない妻がいた。


彼女は裕福な貴族の末娘で、天真爛漫で心が優しく、とにかく太陽のように快活だった。二人の仲はほとんど子供じみていたほど、とても睦まじかった。


もっとも、ごく素朴に愛し合っている若い夫婦とは別に、世間では、身分違いの結婚などだらしない個人たちのわがままであり、社会の大きな秩序を蔑ろにするけしからぬもの、恥ずべきものと見る向きもかなりあった。それは貴族という階級の――即ち今や坂道の頂きを通り越してしまって久しい種族の――行く末を憂う人々である。しかし勿論、その冷たい逆風の存在は、二人により強くぴったりと肩と肩とを寄り添わせることを促したのだった。


ある晩、妻は、いよいよ目に余ってやつれてしまった夫から、そのわけを聞き出そうと決心した。ところが夫たる作曲家の口は、二人が結婚して以来、初めて重くなった。その言うところは、一向に要領を得なかった。初々しい顔色を不安に曇らせながら聞いていた彼女は、やがてその溺愛する夫に、できるだけただちにこのせわし過ぎる石造りの都会から離れ、もの柔らかな自然に取り囲まれた静かな郊外へ行き、そこでしばらく休養を取ってはどうかと提案した。それはほとんど哀願であり、また終いには譲れない命令のようなものになっていた。


しかし作曲家は、またしても返事の言葉を重く濁した。というのも、彼は彼でその腹の中で、自分が今、再び自信と推進力を取り戻すためにすべきことは、このまさに挫折した場所において、挫折した原因を見つけ出して、それと決着をつけるまで、飽く迄も戦い抜くことだと思っていたからである。



夫婦で初めて気まずい時間を過ごしたその日の夜更け、作曲家の夫はとても奇妙な、そのためひどく心に残る夢を見た。


彼は夢の中でも、寝室のベッドの上で横たわっていた。しかし傍らにあるべき妻の姿はなぜかない。代わりに新月のこの夜にはあるはずもない、かんかんに冴えた月の光が西向きの窓から差し込んでいて、そのため落ち着いた飾り付けの室内は、隅々まで青ざめたほの明るさで満たされていた。


ふと、ベッドから遠いドアの方を見やった彼は、そこの壁を背にして、一人の痩せた大柄な人間が佇んでいるのに気が付いた。まったく見知らぬ男で、ローブのようなゆったりとした白っぽいものを身に纏っている。作曲家よりも十は多く年を取っているだろう、まるで教会の神父のように厳かな、いかにも深い精神性を蓄えた表情をしている。そしてその厳しく肉のそぎ落とされた顔、その顔色のまるで蝋のように蒼白かったこと!


冷たく静かに燃える眼差しを、壁際から黙って作曲家の顔に当てていたその不思議な男は、やがておもむろに沈黙を破ってこう言った。


「おお……汝、まさしく若き『吹雪』よ」


「なんだって? 吹雪というのは、私のあだ名だ。それがどうしたというのだ」


青年もまた神秘の感に打たれながら、じっと相手の蒼白い顔に見入っていた。


そして見つめれば見つめるほど、この顔かたち、顔色は、いつかどこかで見たことがあるという気がしてくるのだった。誰だろう? もしかして、古い絵画の中の聖人だろうか……? しかし、はっきりとしたことは何も分からない。


そのうち急に思い出したように怖くなってきた。


「そう言うあなたこそ一体誰だ? な、何者で、どこから来たのだ」


どこか神父のような、痩せて大柄な不思議な男は黙って答えず、次第にその姿全体が霧のように薄れてゆき、やがてほとんど見えなくなった。完全に消え失せてしまうという間際に、ようやくはっきりとした、非常に落ち着いた声でこう告げた。


「そのうち雪が降れば分かる」


青年はそれを聞くとゾッとして、体の芯から打震えながら、何か大声でものを言おうとしたが、すでに頤が外れたように口がきけなくなっていた……。


「あなた。ねえあなた。ひどくうなされているわよ! 大丈夫……」


両肩を押し揺さぶられて目を覚ますと、燭台の光を浴びてとても真剣な、心配そうな妻の顔が、すぐ間近から覗き込んでいた。その顰められた眉の下には二つの星のような瞳が、たくさんの温かい涙で潤っていた。


はっとして、今まであの男が立っていたはずの壁際を見やると、そこにはただ闇が、煤のように濃密で冷えた闇が漂っているばかり。


作曲家はゆっくりと息を整えて胸の動悸を抑えながら、なに悪い夢を見ただけだ、と言って苦笑した。そして指先で美しい人の顔の輪郭をしみじみと撫でた。彼女は聞いていないように真剣な眼差しのままで、夫の額に浮かんでいた冷汗を丁寧に拭った。


「ああ、神さまどうかこの人をお護り下さい。常にお護り下さい。もしもそれが叶わなければ、私にこの人とまったく同じ苦しみをお与え下さいますように……。さあしっかりと手を握って寝ましょう」


さいわい温かい朝日が昇ると、気味の悪いその夢の印象も急速に消えていった。



季節は街路樹の葉もすっかり散った晩秋だった。明けたこの日、作曲家は真っ先に、彼の父親と医学校時代からの友人であり、日頃からいつも何かと頼りにして、また向こうでも世話ずきな、年配の開業医のところを訪ねた。すると結局のところ、そこで得られた意見も、昨夜の妻のものとおよそ同じだった。


肥え太って、しかし赤ら顔はつやつやと健康的に照り映えている、そのいつも飛び切り愛想のいい年配の医者は言った。


「なあに君、そんなに心配することはないよ! それはこのきょう日、まったくありふれた神経衰弱だ。一旦田舎でのんびり過ごすというのは、とてもいい考えだね。そうだとも、人生は長い。君はまだ若いのに、何もかもいっぺんにうまくいきすぎた。さしずめ成功の消化不良でも起こしているんだろう。はっはっは!」



若夫婦は、町から東に馬車を三時間ほど走らせたところにある、広い丘陵の上に切り拓かれた村に、小じんまりとしたきれいな別荘を持っていた。


二人はすぐに、その日のうちに、その別荘へと発った。憂鬱な森を貫く長いでこぼこ道を抜けて、最後の小川を渡ると、所々アンズやリンゴといった果樹を織り交ぜた、ライ麦畑の丘が見えてくる。昼下がりの斜面は、まもなくやってくる長い厳しい冬にも負けることのない、その強い作物の明瞭な緑色で覆い尽くされている。



村に来て半月が経った。


当初作曲家は、田園やその周辺の静かな場所を選んで、一人または妻と二人だけで、長い散策に耽る毎日だった。しかし、いくらのどかな環境に身を浸しても、心の疲れのようなものは、一向に取れる気配がなかった。重く黙り込んで歩く彼の横顔を見て、これはやり方を変えなくてはと妻は思った。彼女は活発な質で、余りに完全に刺激を避けた生活の効能には、元々疑いを持っていた。


二人は相談の結果、村の大人でも子供でも、希望者を募って、彼らに楽器の弾き方や文字の読み書きを教えることを始めた。村の人々も以前から、わけの分からぬ、しかし身なりは悪くない芸術家夫婦に対して親切だった。


夫の精神にとって、大きな転機となった出来事は、それからまもなく村の長から、今度の聖マルガリタの祝日で歌う合唱曲を作って欲しいと頼まれたことだった。その新作は妻が詞を書いて夫が曲を付けた。思いがけない仕事をこなした夫は、小さいが何かまったく新しい、音楽的手応えを掴んでいることに気が付いた。その表情にも段々と本来の明るさが戻ってきた。聖マルガリタの日の夜は、誰も彼も楽しく飲んで歌った。作曲家も幼児の頃以来かと思うほど、腹の底から大きく何度も笑ったのだった。



得てして良い事は、申し合わせたように間を開けずにやって来るものだ。


朝からとても冷え込むある日、青年の様子を診がてら、老医者が別荘に遊びに来た。ゆっくり一泊してゆく予定だった。彼は都の噂を携えていて、それは作曲家が皇帝陛下のお抱えになり、年金が下賜されるというものだった。その噂はたちまち現実となって夫婦と医者の目の前に現れた。宮殿から馬を駆る勅使がやって来て、まさにその通りのことを告げて去ったのである。もし半月前であれば作曲家は自らの値打ちを疑うために、それも固辞したかもしれない。しかし今は違った。


昼の食卓では青年本人よりも遥かに老医者の方が興奮していた。人は安定した平凡な生活が送れたら何よりだ、と言ったかと思えば直後に、宮廷内の利権や貴婦人たちについて、自らの品性を下げるような期待や想像を真顔でたくさん口にした。その極めて鈍感で極めて真剣な表情が、初めてこの人の上に浮かんだのを見て、青年はとても意外の感を受けて目をしばたたかせた。


さて、この思わぬ栄誉の授与に伴い、貴族の娘である妻の方に、ちょっとした用事が都に生じた。元気盛んな老医者は親友の息子に大事を取らせて、自分が彼女の送迎を務めると申し出た。帰りは夜になるはずだった。


「ホッ! こりゃあ寒いぞ。雪も来そうだ」


馬車の扉に手をかけながら言った。


妻はシートに収まっても、まだ夫の優しい顔を見て笑っている。今回の事は、二人の結婚が皇帝陛下もお認めになるところとなったという事も意味するのだ。

その目はこう語っていた。


「やっぱり人がどう言おうと、私たちが私たち自身に恥じないことさえしていれば、ちゃんと神さまは見ていて下さるのね!」


すべて何事も必ず最後は良い形に落ち着く、丸く収まるというのが、彼女が日頃から考える人生というものだった。


馬車を見送った青年は鉛色の空を見上げて、なんとなく故郷の海を思い出した。



一人になるとピアノに向かって仕事を始めた。


ここずっと頭の上を圧さえ付けていた重いものが、嘘のように消えていた。新しい楽想に夢中になった。その世界では、どこまでも高く自由に飛べた。かつて未知だった高さに今至っているということ、および上にはまだまだ自由になる膨大な空間が控えているという事実に、時折ふと肌寒くもなった。しかしそのたびに静かな勇気を奮い起こして、彼は更に昇っていった。


気が付けば暗闇の中で執筆していた。燭台に灯を入れ、時計を見て少し驚く。しかし不思議と創作による疲れはまったくない。


窓の外には灰色の小雪がちらついている。つい恍惚としてその舞を眺め続けた。


ああ、ああ! この丘に絶え間なく降る何万何億という雪よ。小さな美しいこれらに、一つとして同じものはないとは恐ろしいことだ! しかも過去何億年のうちに地球上に降ったすべての雪、これから先何億年間に生まれるすべての雪を通してもそうだというのか……。


作曲家のむき出しになっている神経は、窓の向こうの途方もない創造力の在り処に反応して戦慄した。がたがた震えながら、しかしその巨大なものが慕わしくてたまらなくなって、窓を開け放とうとする。


その時小さな黄色い灯を浴びて暗い窓ガラスに映り込んだ彼の顔は、一気に十も年を取ったように見えた。そしてその顔色の蒼白いこと!


「そのうち雪が降れば分かる……」


青年は思わず呟いていた。


するとガラスの中の彼が勝手に話し始めた。


「私を恐れるな。先立ってお前は、私に何者かと問うたな? 私の名は、そう、理性だ。お前をその足元で支えてきた理性である。お前はこの窓を押し開く前に、私の言葉に耳を傾けねばならぬ。私は時に、お前自身が知っていること以上のことを知っているのだから。


さてお前は今、限りなくその精神が透き通り、全身の神経、五感も異常に研ぎ澄まされている。その耳には雪のひとひらが遠い地面に舞落ちる音さえはっきり聞こえているだろう。その目には百万の粉雪が百万のそれぞれ違う形の結晶として映っているだろう。そしてお前が偉大なる造物主について抱いた新しい認識も、実は正しい」


「だから私はあの雪に触れたい!」


「まあ待て。成程確かにお前は、かの世界の最奥に達すれば、無限の創造力を我が物にすることができる。しかし、その手に入れたものを持って、再び地上に戻ることはできぬのだ。この意味と重さが分かるな? 要するにお前は今、ただならぬ場所、分岐点に立っている。目の前に別れた二本の道は、方や天上の世界へ、方や地上の世界へと延びるものなのだ。


それからこれも、お前の決断の材料に明かしておかねばならぬだろう。この先お前が、この分岐点に立てる瞬間は、もうないかもしれぬということだ。これが最後の機会だと思うがいい。なぜなら、今はまだ潔癖なお前の魂とて、いずれは地上の泥によってけがれる日が来ずにはおられまいし、すると自ずと前者の世界に足を踏み入れる資格は失われるからだ。


これだけ何もかもをお前に告げたところで、お前の純然たる理性である私の役目は終わった。そしてお前は、この凍てつく窓を開け放ちその先にあるものを知るか、そのまま温かい部屋にとどまり身の幸福とするか……、まもなくあのドアを開けて、お前の愛する妻が帰ってくるだろう。その前にさあ、賢明な判断を下せ」


突然猛烈な黒い風と白い雪とが窓に吹き寄せ、そこに映る彼はかき消された。



青年は今まであれほど心血を注ぎつつあった書きかけの楽譜、実はちっぽけでみすぼらしい作品を引き裂くと、体ごと砲弾のように窓ガラスを突き破って、雪の薄く積もり始めた地面に転がり落ちた。


大地および人々とのしがらみは、その末節の部分から始まって、一秒ごとに根幹に向かって失われていった。すでに宮殿の皇帝陛下と村の乞食の違いも分からない。立ち上がった青年は歩を進めながら、解き放たれた狼のようにほほえんで、風雪の奥に向かって力強く吠えた。


「偉大なる、絶対なる神よ、あなたのその力と美しさと残酷さの秘密を、あともう少し、もう少し先まで垣間見ることが許されるのなら! この命などあなたのその巨大な手の中で、まさにひとひらの雪として扱われてもかまわないぞ!」



彼の妻と老医者が、まだ半ば都の華やかな空気を乗せた馬車を降りて、激しい吹雪の難に遭ったことをまるで可笑しな冗談のように高い声で笑い合いながら部屋に入ると、割れた窓から吹き込んだ雪がピアノに積もっていた。


明かりを手に窓の下の引きずったような跡を追った先には、よく見ると人の形をした大きな雪の塊が落ちていた。それが作曲家の変わり果てた姿だった。



                                    終

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