目を閉じるといつもの足音

ろくなみの

第1話

私の旦那が死んでから、今日で一年目になる。そして、私が杖をついて丸亀城を登るのも、今日で一年目だ。天守閣へ向かう長い階段を上るのも、その途中で会う犬の散歩をする橘さんに会うのも、木漏れ日の隙間から耳に届く小鳥のさえずりを聞くのだって、今日で一年目のなのだ。若かったころの力はもうないにしても、この小さな山を登り続けることくらい、私にだってできる。

 階段を登り切り、今日は左回りへと進む。春の暖かな日差しを浴びながら、古い井戸の横を通り抜けた。下の野球グラウンドには、中学生がいつものように野球の練習をしていた。

 彼らにはどんな目標があって、どんな大人になりたいのだろう。孫も中学生になったら、あんな風に外で汗を流すのだろうか。走り回る元気な孫の姿を想像すると、なんだか楽しくなって、一人でくすくすと笑ってしまう。慌てて周りに誰かいないか確認した。誰かが見ていたら気味が悪いと思われるかもしれない。

 まあそんな世間体を気にするような年でもないかと自嘲してみた。今朝も鏡を見たらしわが増えていた気がする。ただの思い込みのせいかもしれないが。

 ふと自分の中学校の頃の事に、思いを寄せてみた。古いおかっぱの髪型に、ださいセーラー服に、長いスカート。友達と笑いながら休み時間を過ごした事も、帰り道に見上げた先にあった、入道雲。放課後私を呼びだして、告白をしてきた、野球部の男の子(恐らく私が名前を覚えている唯一の同級生の男子だ)。結局断ってしまったのを覚えている。彼はあれから元気なのだろうか。まだこのあたりに住んでいるのだろうか。そんなことを考えてみた。まあ元気だったとしても、死んだ私の旦那には負けるだろう。あんないい男は他にいない。もういないのが今なのではあるけれど。

 小さな松の木が何本か生えている、天守閣の裏側の開けた広場に到着した。ここから見上げる古びた石の階段と、高く均等に揃えられた石垣は、いつ見ても見事の一言だ。美しい。昔からこの城は、町の人たちに愛されてきた。毎日散歩をしていると、それがわかる。

 いつだって、ここの城を散歩している人は、穏やかな表情を浮かべていたからだ。

 子どもも大人も、男も女も、おじいさんもおばあさんも。自分はおばあさんの枠に入ってしまう年に、残念ながらなってしまっていた。年は取りたくないものだ。

 石垣の横の古い階段を、一段一段、踏み外さないよう丁寧に登る。今日はいつものより人通りが少なく、階段を登る私の周りには、誰もいなかった。腕時計の針はちょうど三時を指している。おやつでも食べているのだろうと、勝手に解釈する事にした。

 階段を登り切り、二つ目の井戸がある広場へとやってきた。(いい加減名前を覚えるべきなのだろうが、覚える必要性がない事に最近気が付いた)

 ここは午後になると、日当たりが悪く、ひどく不気味に見える。午前中ともなれば、木漏れ日の美しい林にもなるのだが、午後は一転している。あの井戸には死体が落ちていて、幽霊が出るという噂まであるのだ。この暗さから雰囲気から考えたら、妥当な話だろう。間違っても、夜に何かこんなところに近づきたくない。

 広場を通り抜け、天守閣までの緩やかな坂に杖をつきながら登る。最初は苦労もしたが、一年も続けていれば楽なものだ。

 日本で一番小さな天守閣が、私の目の前に凛々しくそびえ立っていた。小さくても、私はこの天守閣も結構気に入っている。

 天守閣をしばらく拝んでから、北側の展望台へと足と杖を向ける。季節は春になり、花の甘い香りがただよってくる。桜はまだつぼみで、景色が全て桃色に変わるのは、あとに二週間ほどかかりそうだ。

 天守閣にもなると、登ってきている人たちが、ベンチに座っていたり、展望台を眺めていたりと、思い思いのくつろぎ方をしていた。私のくつろぐ場所は、今日も同じだ。海が見える展望台の柵だ。

 北へと歩みを進め、杖を右足と同じ瞬間に前へと出す。そして展望台の柵に到着し、私は上半身をそこへ預けた。老朽化が進んでいると書いているが、老人一人くらいなら支えてくれるらしい。一年間通い詰めることで、私はそう結論した。

 そして玩具のような町に車、人や山や海や船をしばらく眺める。そして私は目を閉じた。感覚のほとんどが、嗅覚と聴覚へと働きかけているのが分かる。風の音や鳥の声、他の人たちの話声が、さっきよりも大きく聞こえた。それに交じって、私の方へ近づいてくる足音も聞こえる。これもいつも通りだ。なんの不自然な事も無い。

「こんにちは」

 後ろから、いつものしゃがれた声が聞えた。死んだ旦那の堂々とはっきりとした声とは大違いだ。それでも一年間この挨拶を続けているのだから、不思議なものだ。

「こんにちは」

 私は目を開け、後ろの老人へと目を向ける。体は細いが、腰は曲がっておらず、杖もついていない。大きな眼鏡をかけながら、私の方を見てにこりと目を細めた、

「あの山は、なんて言うのですか?」

 彼は右手に見える、この県の誇りの山の名を訪ねてきた。その質問は、累計三百六十五回目になる。

「あれはね、えのき山って言うんですよ」

 私はそう嘘を吐いた。昨日はしめじ山、一昨日はちくわ山と答えた。

 初めて彼がしてきた質問には、真面目に飯野山と答えたものだ。だけれど三回目からは飽きてきて、ふざけた答えを返すようになった。

 彼がぼけているのは、当然承知している。同じ質問を、同じ私に何度も何度もしてくるのだ。これで分からないものは、大馬鹿ものだ。別に気の毒には思わない。自然界の当然の摂理だ。だから私は、彼のその部分をたやすく受け入れることができた。

「じゃあ、あの建物は?」

「あそこはね、えのきの栽培施設ですね」

 今日はえのきで通す事にしていた。そんな毎日がいつの間にか楽しくなって、ここに登ってくるときには嘘の内容はもう決めていた。

 それから彼は納得し、私の横で柵にもたれかかった。老人二人くらいの体重は支えられるというのも、この一年で学んだ事だ。私はもたれながら、三人目が来ない事を祈った。

 もちろん、柵が壊れる恐れがあるからだ。

 そこからの時間はもう決まっている。お互いが思いついた時に会話をし、しないときはしない。それが一年間の日課だった。

「あの雲、なんだか犬に似てますね」

 彼は流れる雲を見ながらそう言った。

「ですね」

 私は下で走り回っている、車を見るのが好きだった。人が流れて行く。その車には、どんな目的地があって、どんな道を走ってきたのか。それを想像するのが楽しくて仕方がなかった。


 去年の春は、海の先には何があるのかという話をした。

 

 去年の夏は、セミたちは、一週間どんなことを考えて、鳴いて、死んでいくんだろうという話をした。


 去年の秋は、落ちてくる葉っぱは、どんなものがあったかという話をした。


 去年の冬は、雪が積もったら、何をしようかという話をした。


 どれもこれも、次の日には覚えていないだろうから、私は過去の話は、何も持ち出さなかった。

 今までの事を振り返っていると、いつの間にか日は沈もうとしていた。さっきまで明るく照らしていた太陽が、天守閣の広場のほとんどを橙色に染め上げて行く。その景色も、私はとても好きだった。

「ありがとうございますね、初対面なのに会話に付き合ってくれて」

 彼が丁寧に頭を下げる。私も同じように頭を下げた。

「最後に、お名前をうかがってもよろしいでしょうか」

 彼のこの質問も、すっかりおなじみだ。もちろん、今日の名前も考えてきている。

 変化がある毎日で無いと、わたしは退屈で死んでしまうだろうから。

「菅原美智子と申します」

 三百六十三通りも名前を考えるのは、なかなか苦労した。二回までは本名を答えていたのだが、三回目ともなると、不思議と遊び心が芽生えてしまう。人間と言うのはそういう生き物だ。

「美智子さん……いい名前だ」

 彼は感慨深そうにそう言った。嘘の名前を褒められるのは、最初は複雑な思いだったが、今となっては、名前を採点してもらっているみたいで、少し緊張してしまう。若いころに戻ったようだ。

「それじゃあ、わしは先に帰るよ。ありがとうな」

「いえいえ」

 彼はそう言うと、私に背中を向けた。彼は、いつも私を最後には一人にする。まるで、私が一人でいたがっているのを、知っているかのように。

「じゃあの、ひろこちゃん」

 その言葉で私は思わず振り返った。驚いたのだ。何故ならその名前は、私の本当の名前で、最初の二回しか教えていなかったからだ。

「昨日のさやかちゃんというのは、少し若々しすぎやせんか?一昨日のあさみは、なかなか君の雰囲気に合っていて好みじゃったがのう」

 そう言うと、彼はがははと大声で笑い出した。私は驚いたまま言葉も出ず、ただ釣られて一緒に笑ってしまった。

「騙されちゃいました」

「男を騙そうとするからじゃよ。ジジイだと思って馬鹿にするんじゃないよ」

 彼はそう言うとまた笑いだした。ああ、やられた。楽しんでいたのは、私ではなくて、彼の方だったみたいだ。いっぱい食わされてしまった。よく一年間も、こんな馬鹿な茶番をしてこれたものだ。お互いに。

「今日は、一緒に降りますか」

 そのまま二人で、いつものように会話をしながら、ゆっくりと丸亀城を降りて行く。

「つぼみがもう開きそうですね」

 桜の木を見ながら、私はそう言った。

「じゃのう、花見でもしますか?」

「いい考えですね」

 私たちはそう言ってまた歩みを進めた。まるで結婚したばかりの私と旦那の時のようだった。どうして騙していたとか、何で今日になって言ったかとか、一年間のことには何一つ触れず、お互い今自分が見たものの感想を言い合う。ただそれだけで、時間はゆっくりと過ぎて行った。夕日はもうすっかり沈み、辺りには夜の空気が少しずつ近づいているようだった。

 階段を降りきり、私と彼は、お城の正門まで歩いて行った。野球グラウンドの横を歩きながら、彼らのグラウンドを整備している姿を見守る。この空気が、とても心地よかった。

「それじゃあ、またの」

 正門の前の道路で、おじいさんは右側へ向かって歩き出した。

「あの、きいてもよろしいですか?」

 私は彼のしゅっとした背中を見ながら呼びとめた。

「どうして、あんなボケた振りなんかを?それに、どうして今日になって」

 それは真っ先に訊くべきことだったのかもしれない。それがなんだかおかしくて、また笑ってしまった。

「そうじゃのお……」

 彼は眉をひそめて、考え出した。いや、考えているというより、まるでためらっているようだった。気恥しそうに、気まずそうに彼は顔をしかめ続けていた。

「忘れてしもうたわい。年は取りたくないもんじゃ」

 彼はそう言って、愉快そうに笑った。私もなんだかその言葉で納得してしまい、一緒に笑った。彼の笑い方が、なんだかとても気に入った。うるさすぎず、かといって聞き取れない事も無く、ただ静かに声を出して、あははと笑う。まるで少年のまましわしわになってようだ。

「お互い、そうですね」

 私も彼に同意した。

「じゃあ、今日はこれで」

 私はそう言って、彼に小さく手を振った。また明日も来るのですか?なんてことはきかなかった。どうせ、お互い言わなくても、明日も向かう場所は同じだろうから。

 彼が手をすっと上げ、ゆっくりと道を歩いて行く。老人とは思えないほどのまっすぐのび太背中は、とても凛々しく、素敵に見えた。まるで彼という人間の中に、大きくて太い芯が通っているようだった。

「さよなら、桜さん」

 しばらく歩いた先で、彼は私にそう言った。その呼び方を私は、どこかで聞いた事がある気がする。そう、中学生のころ、私に告白してきた子だ。彼の後姿が、告白した後、全力で逃げて行った男の子の背中と、ほんの少しだけ重なった。

 あの男の子の顔を浮かべた時には、彼の姿は見えなくなっていた。

そして次の瞬間、私は、自分が死のうとしていた事を思い出した。

 旦那が死んだ事で、自分が生きる意味が分からなくなり、一度飛び降りようと、天守閣に登ったのだ。そこから柵を乗り越えようかと、もたれながら吟味していたのだ。そこに彼がやってきて、おかしな質問をしてきたのだ。

 それからだ。すっかり私は、自分が死ぬために登ったという事を忘れてしまっていた。

 色とりどりの車が通り過ぎる中、自分がすっかり死ぬ気を失くしていたことに、気が付き、笑った。

 メガネの隙間から涙をこぼしながら、ただ笑い続けた。通行人がいようがいまいが、お構いなしに、ただ笑い続けた。口を大きく開けて、声を荒げて。


 次の日も、私は丸亀城へと登った。春の日差しの心地良さは、昨日よりも上回っている。暖かさは昨日よりも増していて、桜のつぼみは、昨日よりも広がっていた。

 天守閣へと到着し、北の柵へと向かう。ただ今日は、柵にはもたれない。その少し後ろの木のベンチに腰をかけた。

 太陽がくれる温もりの下で、静かに目を閉じる。感覚がまた、聴覚と嗅覚に集中しだした。風の音や、鳥のさえずり。車の走行音や、人の話し声。

 そこに交じって、いつもの静かな足音が私の方へ近づいてきた。

 安っぽいサンダルの音で、私は安心する。ああ、今日も昨日と変わらない。

 明日も、今日と変わりませんように。

 そう祈ってから、私は目を開き、後ろへ顔を向けた。

「こんにちは、山下君」

 目を閉じたまま、私はそう言う。何十年前のあの時のように、優しく、静かに。いつもの彼のしゃがれた声が、いつもの質問をした。









 完

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