3-13
「――さん。森本さん」
昼休み。誰かが呼ぶ声で真希菜はふと我に返った。
「え……」
声のしたほうを見ると、そこには一人の女生徒が立っていた。
「大丈夫? なんかぼーっとしてたけど」
と、彼女。
彼女の名前は確か……
「大丈夫。なんでもないよ。気づかなくてごめんなさい。……なにか用事ですか?」
「うん。午後の物理の課題集めてるから、提出お願い」
言って彼女は、教卓にまとめられたプリントの束を視線で示す。
「あ、はい」
真希菜は鞄からクリアファイルを取出し、昨日やった課題のプリントを彼女に手渡す。
「はい、確かに。じゃあね」
薮内はそう言って、真希菜から受け取ったプリントを教卓のプリント束とまとめ、教室を去っていく。
そこで真希菜は少しだけ首を巡らせて、周囲の様子を見やる。
クラスメイトらは各々昼食を摂りながら仲間との会話に興じている。かと思えば数人連れ立って教室を出ていく。いつもと変わらぬ風景だ。
そして今のところ、その中に消えたものはなさそうだった。
(……結局、考えちゃってる……)
午前の授業はほとんど身が入らなかった。
ペンを無くした。消しゴムを無くした。小休憩の後、トイレへ立ったらしいクラスメイトが戻らない。それらがすべて解式術の余波によるものではないかと思えてしまっていた。隣の席の女子が手鏡を開いた時など、気が気ではなかった。
しかし結果としてそれはすべて自分の思い過ごしで、後にはごく常識的な答えが残るだけだった。だが精神的な負担は思いのほかある。
(ああ、ダメダメ……!)
真希菜はその場で立ち上がった。鞄から一冊の本を取出し、教室を出る。気分転換もかねて、昨日返し損なった本の返却をと思ってのことだった。
昼ご飯をどうしようかなどと考えつつ、廊下を進む。正直、食欲は湧かないのだが。
真希菜は階段を下りて一階へ。奥洲高校は四方を校舎が囲む作りになっており、その『口』型の全体図の真ん中には中庭がある。そしてその中庭――東校舎寄りの土地には円形のバンガローのような建物があり、そこが図書室になっているのである。これは水晶式機械科が導入された後に作られたもので、作りはかなり新しい。ちなみに校舎南館にあった旧図書室は普通の教室にリフォームされており、増えた生徒数をカバーする形で利用されている。
真希菜は中庭にある薄茶色の煉瓦が敷き詰められた遊歩道を進む。周囲に人影はなく、賑やかな声は周囲の校舎からのみ降ってくる。中庭には比較的背の高い樹木も植えられており、木漏れ日の差す遊歩道は、それなりの風情がある。
そして真希菜はふと図書室の窓を見やる。しかしそちらも今日はかなり閑散としているようで、中に人がいるような感じはしなかった。
ちなみにこの学校の図書室はいわゆる自動書庫になっている。貸し出しも返却もバーコードとパソコンによる管理になっており、本棚も図書室内にはない。本を借りるときは備え付けの端末を操作して本を探し、システムで管理されている書庫から機械的に運ばれてくる本を図書室内の受取口にて受け取るのだ。当然、返却時も同じような手順を踏む。
なお、書庫は中庭の地下に存在し、蔵書数も図書室の見た目以上にある。なんとも大がかりなものだが、これも資金に余裕のある私立校の成せる業なのだろう。
そしてそれ故に、この学校の図書室は無人運営が基本だ。普通の学校のように昼休みに図書委員が待機しているというようなこともなく、彼らの日常的な仕事も、図書室の開放と施錠、あとは放課後の掃除くらいだ。図書室に誰もいないことなども別段珍しいことではない。
だが、その時。
図書室の窓に視線を合わせていた真希菜は、図書室の中で何かが動いたのを見つけた。
「……?」
影が横切ったという程度のものでしかなかったが、今確かに中に何かがいた。たぶん人ではない。雰囲気的には逃げるように、あるいは隠れるようにという感じに思えたが……犬か猫、鳥でも入り込んだか。
真希菜は疑問に思いながらも、図書室の入り口に向かう。
すると入り口の引き戸が開けっ放しになっていた。鍵を開けに来た図書委員か、自分より前に来た利用者が閉め忘れたのだろう。
そして真希菜は今一度中の様子を見る。
しかし中は至って静かだった。
「見間違い……?」
入ってすぐの所には両脇にバーコードの検知装置が立っていて、部屋にはいくつかの机と椅子が設置されている。しかしその机や椅子は定位置に収まっていて、机の上ある円筒形のペン立てなども中の筆記具が使われたような形跡はなかった。右側の木製のカウンター机のようになったところには貸し出しと返却を行うためのコンソールが三台並んでいるが、それらもすべてサスペンド状態のままである。
「なんだったんだろ」
監視カメラでも設置されていれば何か判明したかもしれないが、ここにそうした機材はないので、これ以上はどうにもならない。
真希菜は見間違いだろうと合点しつつ、後ろ手に扉を閉め、図書室に足を踏み入れる。
そしてコンソールを操作して、返却の手続きを踏んだ。それが済むと、カウンターの天板が開き、プラスティックでできた返却用の箱がせりあがってくる。
(……ここは、大丈夫なんだよね)
機械化された図書室など、真希菜にとって天敵であるはずだが、図書室というだけあって静穏性に優れた造りになっているようで、機材の見た目もデザイン性の高い形で洗練されているためか問題なく利用できている。
真希菜はせり上がってきた箱に本を入れ、返却を完了する。すると箱は自動的に沈み、カウンターもそれに合わせて閉じる。
「よし」
そして真希菜は図書室を出ようと踵を返した。
だがそこで、からんと、奇妙な音がした。
(……?)
音のしたほうを見ると、テーブルにいくつかの筆記具が転がっていた。
机の上のペン立てにあったであろうそれらは、ペン立てが倒れたわけでもないのに、そこから零れ落ちていた。
なぜそんなことになっていたのかは、見ればわかった。
折れていたのだ。
「どういうこと……?」
真希菜は近づき、ペンのひとつを手に取る。
ペン立てにあった筆記具は確かに折れていた。しかし妙なのは、断面同士がかみ合わないこと。これでは折れたというより一部が消えたようではないか。
「……っ!」
真希菜は思わず手に取っていたペンを放り出す。そしてその時、図書室の入口に気配を感じた。見るとそこには、奇妙なものが浮かんでいた。
「え……なに……」
それは一メートルほどの双円錐形の物体だった。片側の先端をこちらに向け、揺らぐこともなく、まるで中空に固定されているようにそこに浮かんでいる。それにはプロペラも翼も、推進装置も見当たらない。
そしてその物体の表面の質感は硬質で、鏡のような光沢があった。そこには図書室の内装が歪んで映し取られており、その鏡面の中では見慣れた図書室もまるで異世界のように映っている。
真希菜は直感した。
あれがこの世界のものではない異質のものであることを。
昨日のあれと、同類のものであるということを。
「オート……マトン……?」
その疑問に答えるように、その双円錐は変形した。双円錐の後部がまるで花弁のように放射状に展開し、全体がドリルのように高速で回転し始める。
そしてその時、真希菜とオートマトンとの間に蛍光灯が落ちてきた。床に落ちて真っ二つに割れたそれは両端を不自然に失っていた。そして入口両端のバーコード検知器の一部が真希菜の目の前でやはり不自然に抉れる。
さらに、背後でがたんという音。真希菜が思わず振り向くと、机のひとつが三分の一ほどなくなって倒れていて、上にあった筆記具が床に散らばっていた。
「うそ……」
身をすくめて立ち尽くす真希菜の頬を外気がふわりと撫でた。
入り口を見ると、閉まっていたはずの戸が開いている――いや、その引き戸が、壁ごと何かに食い荒らされたようにいつの間にか消滅していた。
「これ……まさか……」
解式術の余波――今朝のクロノとの会話が蘇る。母親の消えたあの光景が蘇る。
そして直後、回転する双円錐は磁石の同極が反発するような動きで突っ込んできた。
避けようと足を動かそうとしたが、間に合わない。弾丸のように飛び込んでくるその物体を回避するには人間の脚力はあまりに頼りなかった。
だが次の瞬間、黒い人影が一瞬にして円錐の射線上に割って入った。
「相変わらず、トロ臭いね」
いつの間にか、円錐はこちらに背を向けるその人物の左手につかまれていた。しかしそれでも円錐は完全に運動を止めようとはしておらず、まるでもがく様に、彼の手の中で必死に回転しようとしている。それは彼の手にこすれて不快な金属音を奏でていた。
「……うるさい」
ばきん、と音がした。
その瞬間、円錐は握りつぶされ、ひびが入る。そしてそこからばらばらと崩壊し始めた。内部からは歯車や発条、何かのレンズ、ボルト、ナットなど、物体の体積より多いと思えるほどの多様な金属パーツがこぼれ出す。
「これも、やっぱりそうか」
彼はそう呟き、手をコートの裾で叩いて、破壊された双円錐を見下ろす。そして真希菜は彼の背中に恐る恐る声をかけた。
「クロノ……君……」
彼は振り返る。口にはまたしてもキャンディの棒のようなものを咥えていて、ずかずかとこちらに歩み寄ってきた。
真希菜は今朝の喧嘩の気まずさから、思わず首をひっこめた。まるで叱られる前の子供の様に。
そして彼は、真希菜の前でぴたりと止まると、言った。
「怪我は?」
「え……」
「怪我、ない?」
「う……うん……」
「そ。ならいい」
それだけ言って彼――クロノは真希菜の傍を離れる。そして再び双円錐の残骸のところでパーツを拾い上げ、
「部品に害はなさそうだな……」
などと一人何やら分析している。
彼の行動に少々拍子抜けした真希菜だったが、今はそれで呆けているわけにもいかないと気を取り直す。そして彼に尋ねた。
「ねぇ、それってやっぱり、オートマトン?」
「だね。……正確にはその一部だけど」
「一部?」
「うん。こいつはR型オートマトンが製造する砲弾だ」
「砲弾……?」
「R型はこいつを武器に戦うんだ……イメージは……うーん、なんていうかな。こっちの世界のものでいえば、そう、タンクが近い」
――タンク。砲弾という単語を加味するなら戦車の方の意味だろうか。
「R型はこれを射出して、グリモアの通信網を利用して操ってくるってわけ。沢山ばら撒いて、相手を見つけたら一斉にドカンとか、結構自由が利く」
イメージとしては誘導兵器のようなものであるらしい。
「これも、解式術で動いてるの……?」
「僕も詳しく知ってるわけじゃないけど、そうじゃないかな。まぁ正確には術そのもので動くというより、これを構成するための特殊な物質を解式術で作り出して、その物質がこの砲弾を維持してたってことなんだろうけど」
そしてクロノは改めて部屋の惨状を見る。
「……余波の影響が結構酷いね」
「やっぱりこれ、そうなの……?」
「十中八九、解式術の影響だと思うよ。それもこれの本体であるR型のね。他のやつの周りもこんな感じだったし、どうもこの砲弾は余波を媒介するっぽい。……あ、これで今朝の話、信じてくれた?」
彼の最後の一言に、真希菜は肯定も否定もしなかった。それを彼がどう取ったかは知らないが。ただ真希菜は、それとは別に気になったことを彼に尋ねる。
「他のやつってどういうこと?」
「ああ、これと同じのが街にいたんだよ。こいつはえっと……五個目かな。で、僕はこいつ追っかけてここまで来たってわけ」
これが、街に出現していたのか。クロノの口ぶりから、そう大きな被害は出ていなさそうだが。
「……でもこれ、オートマトンの一部なんだよね? オートマトンってこっちの世界にもいるものなの?」
その問いに、クロノは左手だけを腰に当てて、
「それはない――と言えるほど判断材料が揃ってるわけじゃないけど、少なくとも活動できるような状態でオートマトンがこっちに来ることはないはずだよ。僕も結構こっちの世界には来てるけど、こんなの初めてだ」
「じゃあなんで……」
「さーね。たぶんALICEの鏡を抜けたんだろうけど……どうやって機能停止せずに抜けたんだか」
「これ、あとどのくらいいるの?」
「わかんない。でもこの砲弾は本来、かなりの数があるものだから、割といるんじゃないかな。けど僕としては、オートマトンの目的がわからないことの方が気になる」
言ってクロノは小さな顎に指をあてる。
「目的って?」
「この砲弾、見た感じ、隠れてるんだよ。見つかって追い詰められたと判断した場合には攻撃するみたいだけど、基本逃げるだけだったし、一連の行動に何の意味があるのか読めない」
人や物を問答無用で破壊するなら、まだわかるんだけど。とクロノは付け足す。
「……何かを観察してる、とか……?」
「言い忘れてたけど、オートマトンには知能と呼べるものはないんだ。奴らにあるのは『壊す』『戦う』ということだけなんだよ。解式術も戦闘に特化した一種類しか使えないし、型だって基本は数種類だ。学習もしなければ自分の修理さえもしない。だから観察なんてしたところで、そのデータを活用できるとは思えないよ」
「じゃあ、これの本体ってどこに……?」
「R型はかなり大きなオートマトンだから、こっち側に居ればすぐ騒ぎになる。だからいるとすれば、ワンダースクエアだろうね。そこから遠隔操作してるんだと思う。今朝言ったグリモア通信の『漏れ』でも利用してるのかも」
そこまで言って、クロノは今一度真希菜に向き直った。
「砲弾がどうやってこっちに移動したのかはまだわからないけど、この分だとその大元を絶ったほうがいい。少なくとも本体がやられたらこの子機は動かなくなるだろうし。――ってなわけで」
そこで、クロノは左手を差し出した。先ほどの砲弾を止めたせいか、若干手のひらが削れているのが見える。
しかし真希菜は答えた。
「……私は……行かないよ」
――と、その言葉に、クロノは軽く肩を落とした。しかしそれは、単に希望が叶わなかったという風ではなく。
「早とちりしないで。ここから昨日の丸い建物までの地図書いて欲しいって話だよ。……ああ、大丈夫。来た時と同じように人には見つからないように出ていくから」
飄々とした態度で彼は言う。
「……あの、やっぱり、戦うの……? その体で……」
「それが僕の役目だし」
真希菜の問いに、彼はしれっと答える。
右腕のない体でオートマトンと戦って、いったいどれほど勝機があるのだろうと真希菜は思った。それにたとえ勝ったとしても、今以上に――下手をすれば完全に壊れてしまうかもしれない。そしてそう考えたとき、真希菜は胸の奥が軋るのを感じた。
(……ううん、もう関わらない……関わらないって決めたんだから……)
そうだ。彼が壊れようと自分には関係ない。そもそも自分に何ができるというのだ。クロノス・グラフを知っているといっても、昨日と同じことができる保証などない。
(けど……)
これが最後。なんとなくそう思った。たぶんこの後、自分が日常を取り戻せば彼と会うことは二度となくなる、そんな気がする。
するとその時、クロノが口を開いた。
「……やっぱり地図はいいや」
「え……」
見ると、クロノは既に踵を返していた。
こちらが動かないのを見て、地図を描く気がないのだと感じたらしい。
「あ、待っ……」
とっさに出たその声は、もう届かなかった。
彼は図書室から出ると、図書室の壁と校舎の壁、そして中庭に植えられている樹木を器用に使って東校舎の屋上まで登っていく。右手がなく、左足が壊れていても、彼の身体能力はやはり高い。そして彼は一度屋上のフェンスの上に立ったかと思うと、すぐにある方向へと消えてしまった。
おそらく、高所から例の工場の位置を特定したのだろう。
「…………」
その場には真希菜が一人取り残される。
そして何事もなかったかのように、昼休みの終了を告げるチャイムが校舎に響いた。
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