3-2
いつものように彼の家へ来た私だったが、今日の心境は幾分穏やかだった。
それには例の『魔法』の完成に一定の目途がついたという事が大きい。解式を組み立てて試行錯誤している途中などは、彼に対して嘘をつくことになるかもしれないという後ろめたさを感じていたこともある。
「あ、師匠!」
私の来訪に、彼は目を輝かせる。変わらずベッドの上にいる彼だが、今日は調子がいいらしい。前回は、あまり話ができなかった。
「いつまでたっても慣れないな。その呼び方は」
「勝手に弟子にされたんだから、責任はとってもらわないと」
「そうだね」
こんな会話も、どこか心地いい。
彼と出会って、今日でちょうどひと月になる。彼とは奇妙な出会い方をしたが、そういうものもまた縁だということだろうか。
ただ、関係が深くなるというのはいいことばかりでもない。必然、あまり知りたくもないような事情を知ってしまうことにもなる。
「ご両親は、今日も留守かい?」
「うん」
どうも彼の両親はあまり彼をよく思っていないらしい。
今私は窓から彼に許可をもらい、自宅に入るような仲になっているが、親はたいてい家にいない。会っても挨拶程度しか会話しないし、父親に関しては顔を見たことすらない。見ず知らずの人間が出入りしていても、それを咎めることも、歓迎することもしない。とにかく無関心なのだ。いつ来ても家の中は荒れているし、家財道具なども殆ど置いていなかった。さすがに食事の用意などはしてもらっているようだが、彼が愛されていないことは一目でわかるような状態だった。
彼が愛されぬ理由など私は知らない。知りたくもない。
彼を救ってやれないことをもどかしく思うこともあるが、日雇いのような仕事をしながら食いつなぐしがない自称学者の私に、今現在、彼をどうこうできるような力があるはずもない。
だから、というわけではないが、私は彼の境遇を深くは聞かないようにしていた。
そして彼も自身の環境を嘆かない。いつも笑顔で私を迎えてくれる。
「今日は、どんな話をしてくれるの?」
「……そうだな。今日は今作っている世界について少し話そう。あと少しで、君も行くことになるからね。その前準備だ」
言って私は、手に持っていたフロックコートと手袋、帽子をいつものように手近な椅子の背もたれにかけた。そして別の木製椅子を彼のベッドの傍に引き寄せ、そこに腰かける。ささくれ立った木の椅子と床が軋む。
「じゃあもうすぐ完成?」
「ああ。昨夜目途が立ったよ」
「どんなところなの?」
「当然、行ってからのお楽しみ、ということはあるけれど……そうだね……」
彼は私の言葉を待っている。期待に満ちた眼差し。
彼からのそれはひどく甘美なもので、私はその快感にしばし酔いしれていた。
そしてあるとき、少し芝居がかったしぐさなど交えて、私は彼に告げた。
「世界のベースになっているのは君の好きな『チェス・ゲーム』だ」
それは、彼がこの部屋で唯一興じられる遊びだった。彼の親は娯楽としてチェスの駒と盤だけは、この部屋に置いている。そしてそれは彼の好きなものでもあり、私はそれをベースとした、彼のための世界を作ると決めていた。
「チェスの世界? どんなものなの?」
「その世界に入ったら君が『キング』だ。王たる君は機械でできた駒を操ってチェスをする。私が相手をしよう」
そして私は世界の概要を語った。
解式術という『魔法』により、ベッドに寝ていながら、まるで本当にその世界にいるような体験ができること。盤や周囲の風景は自身の脳内の想像によって形造られること。オリジナルのルールを作って遊ぶこともできること。そして解式術を学べば、もっと世界を広げることもできること。
「すごいや、すごく面白そう」
「そうだろう? 私も君と遊ぶことができるのを今から楽しみにしている」
しかし正直なところ、まだ課題はある。
世界の構築はともかく、人の精神情報をその世界に飛ばして疑似体験させる術――正確にはそれを可能とする物質を構成する解式が、まだ完成しきっていない。あくまでそれの目途がついただけで、今のところはなんとも言い難い状況だ。ただ、そんなことはあえて言わなかった。必ず実現させるのだから、言う必要などない。
「それでその世界、名前はなんていうの?」
その質問は、私にとって意外なものだった。
「……名前、か」
まったく、失念していた。生まれ故郷にちなんで『チェシャー』などと、仮に呼んではいたが、はっきりとは名付けていないのだ。
「実は、まだ決まっていないんだ。……そうだ、君につけてもらおう。何かいい案はないかい?」
「僕がつけていいの?」
「ああ、構わない」
人も物も、名を付けられて初めてそこに存在しうるという考えを持つ者もいる。仮にそれが正しいなら、正式な名があの世界には必要だ。そしてその名付け親となるべきなのは――あの世界を存在させるべきなのは、彼だろう。
そして彼はしばらく考えてから、口を開いた。
「――ワンダースクエアって、どうかな」
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